新城美恵子著『本山派修験と熊野先達』
評者・澤登 寛聡 掲載誌・法政史学57(2002.3)


 日本列島には古来から山を精霊の宿る聖地として崇拝する信仰が存在した。そして、この霊山に住んだ人々や霊山に籠って修行した宗教者は、人々の病いを治し、災いを除く超自然的・呪術的な力をもつ存在として畏怖されていた。修験道は、こうした古来からの山岳信仰が仏教や道教などの影響を受けて形成されてきた宗教である。このように修験道は、特定の教祖や教典・教説を持たず、宗教者がみずからの呪術的な能力にもとづく宗教儀礼によって人々を救済に導く民俗宗教である。この意味で本来、仏教などの創唱宗教とは宗教学的な類型を異にしている。しかし、平安時代、天台宗を開いた最澄、真言宗の開祖空海による山岳仏教の提唱によって天台・真言の密教僧達の山岳修行が活発に展開され、これにともなって山中修行で験力とも称された呪術的な力を体得した密教の修行者は修験と呼ばれるようになっていった。これらの伝統が継承されて修験道は民俗宗教としての性格を色濃く持ちながら天台宗系の本山派と真言宗系の当山派とに分かたれたが、本書『本山派修験と熊野先達』は、園城寺末寺聖護院の門跡覚助法親王が熊野三山検校に補任されて以来、熊野修験を包摂していった歴代聖護院門跡を頂点とする本山派修験に関する論文集である。
 著者の新城美恵子氏は、女子美術大学を卒業して一度、就職した後、法政大学の史学科に編入学し、大学院の修士・博士課程で学んだ。この後もずっと修験道史の研究を続けられたが、一九九八年四月一一日、享年六四才で惜しくも逝去された。
 本書は氏の没後、夫の敏男氏(史学科卒業・名桜大学教授)によってまとめられた美恵子氏の遺稿集である。したがって、序は、熊野修験・宗教民俗学の代表的研究者である宮家準氏(國學院大學教授・慶応大学名誉教授)、「あとがき」は夫の敏男氏によって執筆されている。
 さて、本書は、次の一三本の論文から構成されているが、このうち本書のタイトルに関わる修験道関係の論稿は八本である。また、論文として書かれたのはほぼ最初の六本である。したがって、ここでは、この六本を主として紹介していくことにする。
 (目次省略)
 本書が遺稿集であるという性格上、論文全体を統括する総論(課題・研究史・研究方法)や結論・展望がないのは当然といえる。そこで、論文全体を通読し、筆者なりに著者の課題意識を探ってみると次のように要約できる。
 @ 熊野山伏を始めとして全国の地域・地方社会で、自律的に宗教活動を展開する修験・先達を、聖護院門跡は、どのように組織化して本山派を形成・展開させていったのか、また、A 修験・先達は、みずからの宗教活動の対象であった檀那を、どのようにして組織化していったのか、B これら@・Aの掌握方法は、対象となる檀那の地域的結合関係や一族・同族的結合関係といかなる関連にあったのか、氏は、これらの点を、中世後期から近世前期までの社会の中に位置づけ、このことをもって本山派修験の存在意義を、修験道史や宗教史の中に改めて位置づけようとした。
これは筆者のはなはだ心許ない理解で、一知半解だとの謗りを免れないかも知れないが、そこは、氏には許して戴き、次に個々の論文について要約しておくことにする。
 「中世後期熊野先達の在所とその地域的特徴」は、副題に「伊予・陸奥を例として」とあるように、室町・戦国時代の伊予と陸奥を事例にとって熊野先達の檀那掌握方法について述べた論考である。ここでは、まず、熊野那智大社の米良実報院と潮崎廓之坊の檀那売券・譲状に見られる檀那を、氏族か先達かという基準で分類し、全国的な視点から御師の檀那掌握方法について論じている。この結果、五畿内・近江・播磨、土佐を除く四国では先達を単位とする檀那掌握方法が大半を占めるのに対し、常陸を除く関東・東北では氏族単位の檀那掌握と先達を単位とする檀那掌握方法が相半ばして見られ、出羽・陸奥ではほぼ二対一の割合で氏族を単位とする事例が見られるとする。次に先達単位の檀那掌握方法として伊予、一族単位として陸奥の事例をあげ、伊予・陸奥における熊野御師の檀那売券・譲状・願文などを、南北朝から近世初期まで編年的に整理された表も付けられ、これを参照しながら熊野御師の檀那掌握方法を比較している。関東から陸奥での氏族単位の檀那掌握方法は、有力先達となるべき修験のいくつかが南北朝期を境に衰退した結果、御師は、有力先達の衰退以前から関係のあった有力武士を媒介として檀那を掌握する方法をとった。この結果、一族単位の檀那掌握方法がとられたと指摘する。これに対して伊予では檀那である豪族層の浮沈が激しく、かつ、寺院が先達である場合が多かったが、これらの寺院は平安から鎌倉時代を通じて行場を持ち、四国遍路の札所へと発展した古跡の寺院が多く、これら寺院が先達の拠点となっていたので、先達単位の檀那掌握方法が可能となったのだと論じている。
 ところで、本山派修験の成立は、一一世紀末の院政期、白河上皇が熊野へ参詣した際に先達を務めた園城寺の僧増誉が熊野三山検校に補任された前史を持っている。鎌倉時代中期以後、園城寺末寺聖護院の門跡は熊野三山検校職を独占するようになるが、しかし、室町時代前期においても三山検校職は、熊野山伏の結合体に対して直接的な支配権を持ったわけではなかった。この意味で修験本山派が形成されたのは檀那契約の得分権管理と平山伏の支配権をもつ先達職あるいは年行事職の補任権を聖護院門跡が全国的に掌握した室町時代の中期であるといわれている。
 「聖護院系教派修験道の成立」は、鎌倉時代の末期から室町時代中期の本山派修験道の成立までの聖護院門跡が熊野三山と諸国山伏に支配権をおよぼしていく過程を分析する。この教派成立については従来、和歌森太郎著『修験道史研究』が定説の根拠となって周知の事実と受け止められていたが、氏は、「熊野三山側が実質的に確保していた教権および俗権の聖護院側への移行が、素直に、円滑に行われたとするには、やはり、疑問が伴う」とされ、これを熊野三山山伏の結合の在り方と陸奥白河の先達による檀那職をめぐる争論を通じて検討している。ここではまず、熊野権現の所領であった土佐国吾橋山長徳寺坊内への地頭追捕使の捜索に対して弘安一〇年(一二八八)正月五日付の熊野惣公文所良遍の書状を検討し、熊野山伏の結合の在り方を、同じ文書から「結束の可能性」と評価した和歌森太郎説を再検討した。そして書状の書止文言に「依満山之衆儀之状如件」とある点から文字通り「満山之衆議」をおこなう熊野山伏の結束の強さの証明である点を提示、「内容は俗権にかかわるこの事態に対する山伏衆の結束は、三山側の指令によるものであって、聖護院にはかかわりのないところで行われている」と「結束の可能性」ではなく、この時期の熊野三山山伏が世俗の事項に対する明確に管理権を持っていたと訂正した。また、享徳元年(一四五二)一〇月、大先達法印宗俊が乱設された関所の撤去を目的として鎌倉八幡宮での衆会を関東八か国の修験に呼びかけた廻状からは、本山派が成立して以後の年行事職のような得分化・世襲化した役職でないにせよ、「関東八カ国を一ブロックとして、鎌倉月輪院(鎌倉公方の護持僧)→大先達宗俊→年行事→平山伏という伝達ルートが」形成されていた点も述べられ、「関東八カ国の山伏衆の意識には、教権の頂点に聖門はあったとしても、彼らの組織的団結の頂点には、未だ伝統的に熊野三山が据えられていたのである」と述べている。さらに、聖護院門跡の本山派修験に対する支配権は『尋尊大僧正記』の明応元年(一四九二)八月二二日の条に山伏が聖護院の「下方」にあるという記事、あるいは、聖護院の下知で衆徒の動員が命じられた河内守護畠山義豊の翌明応二年六月付の書状によって確認される(『紀伊続風土記』所収文書)とするが、これとは異なった角度として前述の関東八か国への大先達宗俊の廻状と同じ時期の陸奥白河八槻別当と石川庄竹貫別当との檀那職をめぐる争論の検討から聖護院の支配権が次第に熊野山伏の支配権を凌駕していく過程を描き出している。
 「板東屋富松氏について」は、副題に「有力熊野先達の成立と商人の介入」とある。板東屋は、一六世紀前葉における伊達稙宗の左京大夫任官・将軍義稙の偏諱下賜・陸奥国守護職補任に深く関わり、伊達氏の京都における政治的出先機関としての役割を担った。また、近衛稙家や三条西実隆と共に京都文化の伊達領内への伝播にも重要な役割を果たしたといわれるが、ここでは、この板東屋富松氏と天正期前後まで熊野新宮領であった陸奥国田村庄の熊野先達との関係が応永期の末から開始されていた点を指摘され、板東屋の商人としての先達職集積による得分の獲得や特定の熊野先達育成が南奥州における聖護院の修験の組織化と無縁でなかった点などを『康富記』や室町幕府の『賦引付』によって提示している。
 「武蔵国十玉坊と聖護院」は、関白であった近衛房嗣を父にもつ聖護院門跡道興筆として著名な『廻国雑記』を基本史料として使い、道興の関東での廻国活動の中に、聖護院による関東修験の本山派への組織化の画期を求めている。すなわち、文明一八年(一四八六)六月、京都を出発した道興は、翌一九年四月に帰洛するまでの約一〇か月の旅をするが、氏はこの道興の旅は「京都を出てから最初に鎌倉に至るまでを前半」とし「以後の北関東・東北を後半として眺めて見ると」、「諸国物詣程度を目的とした前半から」「後半は一転して、在地の熊野先達、ことに関東地方に散在する先達を、聖護院配下に組織化することを目的に据えたと考えられるのである」と述べている。道興の十玉坊への二ヶ月の滞在は最も早い段階から聖護院の配下となった十玉坊を拠点とする修験の組織化のためであり、また、十玉坊も、これを契機として戦国大名後北条氏の統治下にあっては幸手不動院・小田原玉滝坊の下に「およそ郡単位で」の年行事職を追認されて領国支配に組み込まれていったと述べる。徳川家康の関東入国以後、天台系修験は聖護院を頂点とする縦系列の組織化によって本末体制に組み込まれていくが、この出発点は、道興の文明一八年一〇月から翌年四月の廻国期間に開始されたのであり、本末体制の原型は、戦国大名後北条氏の天文期から天正期までの統治していた段階にすでに形成されていたのであるとしている。
 「補任状から見た修験道本山派の組織構造」は、聖護院を頂点とする主題の通りの課題を中世から近世への社会の中に位置づけようとする試みである。ここでいう補任状とは修験に対する@先達職・年行事職の補任状、A僧位・僧官の補任状、B院号・結袈裟・色衣などの免許状をさす。氏は、これらの補任状の分析を通じ、派内の権限が個人から組織へと移動し、また、この移動の過程で、熊野三山検校と三山奉行とが権威と権限を役割分担して本山派組織内で構造化していった点を指摘できるとしている。
 「武蔵国半沢覚円坊について」は、天正一八年(一五九〇)六月の八王子城の落城で北条氏照と共に討ち死にした後、中絶していた半沢覚円坊を素材に、この修験寺院が元禄三年(一六九〇)八月に再興されるまでの過程、および、延享三年(一七四七)三月までの霞下支配をめぐる事件を扱っている。
 以上、前半の論文に重点を置き過ぎたきらいもあるが、これらが本書の主題に関わる論文の要旨である。なお、「本山派修験玉林院関係文書について」は、饗庭武昭氏から浦和市立郷土博物館に寄託された文書についてタイトル通りの史料紹介であるが、大学院時代以来、長きにわたって本山派修験道の研究を続けてこられた氏の知見がよく示されている。
 宮家準氏は宗教史とも深くかかわっている宗教民俗学研究を、宗教思想・宗教組織・宗教的実践という三つの視点から進めるべきだと方法論的な提起をおこなっている(同著『宗教民俗学』東大出版会)が、この視点からすると氏の研究はまさに中世後期から近世前期までの本山派修験の組織についての研究ということができよう。
 また、氏との接点でいうと筆者は近年、再び戦国末期から近世前期の郷村自治および統治に関する研究を進めているが、熊野信仰に関する檀那帳の分析や売券・願文・譲状の分析をすれば、在所や一族・同族を単位とする先達の檀那獲得の在り方、これらとの関わりにおいて当時の都市・村落の社会構造がより深い地点から明らかになるのではないか、しかのみならず、末派修験の活動実態が明らかになれば、本書の試みはより発展した議論へ展開させることができるのではないかなどとのおもいを強くしている。
 ともあれ、新城美恵子氏が、われわれ後輩に残された研究上の課題は少なくない。氏の心からの御冥福を祈ると共に、みずからの研究に精進したい。
 なお、本書は、二〇〇〇年一一月、栃木県日光市で開催された日本山岳修験学会で、第一〇回日本山岳修験学会賞を受賞している。
                   (さわとひろさと 法政大学文学部助教授)

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