松本四郎著『町場の近代史』
評者・島袋善弘 掲載誌・社会経済史学67-4(2001.11)


 本書は,著者が近年取り組んできた山梨県東部(郡内地方と呼ばれる)を対象とする地域史を扱った論文をまとめたものである。
 著者は「はじめに―歴史学と地域―」で,本書が,地域ごとの個性を明らかにしながら,町場の研究を農村部との関わりのなかで行なうことの必要性を認識し,歴史学の分野で提起されている地域論を受けとめて展開する論考であることを記し,日本近代の資本主義的な発展を語るときには地域の個別的で多様な状況を複眼的に読み取ることが求められていると思う,と本書の意図を書いている。
 各章の内容を簡単に紹介しよう。
 第1章「明治前期の家族と村落」の前半では,山梨県南都留郡宝村の家別帳(1879年に実施された「甲斐国現在人別調」の村段階での調査原本)を分析する。この村の男子有業者が従事している農作(米作というよりは養蚕などである)と,女子の甲斐絹織とを合わせて考えると,この村の産業として養蚕・製糸・機織がクローズアップされてくる。なお養蚕=甲斐絹といった特産品生産を続けるために,家の維持に関わって,養子という形での家族労働力の確保がなされている。第1章後半の課題は,明治初年の合村によって新たに出発することになった宝村が,江戸期以来の旧村を単位とする組をどうまとめていったのか,どんな問題が生じていたのかを検討することである。結論として,新しい村の役職者は当初地域代表という観点から選ばれるが,全村的な選挙が行なわれる村会議員の選出になると,地域性を重視しながらも,経済的な背景(地域にいる高額地租納入者の多少)が影響を与えるという感が強くなる,とする。なお特産品である甲斐絹織の生産・販売によって経済的富裕者の拡散がみられ,柔軟で多様な小集団の形成を可能にしたことを指摘する。
 第2章「地域のなかの町場と商工業者―明治後期の山梨県南都留郡谷村(やむら)町を中心に―」では,郡役所や警察署のあった町場=零細な都市を,周辺農村との結ぴつきのなかで検討する。まず「山梨繁昌明細記」(1893年刊)を資料として,町場である谷村と周辺農村の営業形態の実態を追う。谷村町の役割は,@甲斐絹生産・流通を中心とした町場の性格と,外部から米穀などを輸入しなければならない町場としての位置とが基本になって,そのうえで町場には万屋的な荒物・小間物商や呉服・太物商が周辺農村からの買い付けに応える形で存在していること,A周辺農村は生産された特産品の販売や日常生活物資の購入という関係をとおして町場としての谷村との結ぴつきを不可欠としていること,Bそして町場としての谷村の「らしさ」は,新聞・書籍が手に入り,医師・教師・裁判所の書記・税務署の執達吏などが,外部からの情報や知識の受入れと発信の窓口を担う者として存在していることであり,C町場には劇場や寄席・割烹店などが賑わいをもたらし,人々を引きつける魅力が生まれていること,を指摘する。
 郡内地域では最大の町場である谷村を取り囲んで,幾つかの衛星的な町場が展開しており,こうした町場の展開に対応して,遠距離の村は農蚕業だけだが,谷村に近い村では甲斐絹織業が加わり,そしてごく少数の万屋的な商人と,村抱え的な職人が展開している,といった状況がみられるのであり,町場と村とがそれぞれの独白性をもってすみ分けていたとことがわかる。そして町場は明治期後半にかけて,中央線の開通にともなう人口増加,それに対応する地域経済の自前の発展(鉄道馬車・電燈・力織機の導入など)を示すことになる。
 次に谷村と比較して山梨県の中心都市甲府を検討する。1890年代はじめの甲府は,郡部から多くの人々を受け入れて急速に人口を増やしていったが,その求心性のある都市は,中心部の町々では特定の商品に特化した店舗が展開し,分業関係が進展している。他方甲府市周辺部では,むしろ農村的性格が強くて,米穀商や農蚕業などが中心で,複数の万屋的な営業形態の店舗が展開していて,中心部とは対照的であることを指摘する。
 第3章「財閥資本と地域社会―三菱宝鉱山の経営分析をふまえて―」では,1903年に三菱合資会社に買収された南都留郡宝村の鉱山経営と地域社会との関係をみる。当初三菱側は,町場を利用して日常生活物資などを調達し,銅製品の運送のための中継点とする意図をもっていたが,運送コストの問題でやがて中央線と直結するケーブルの設置に道筋が切り換えられたことによって,地域社会との関係は希薄なものとなる。また,宝村の人口増加や村財政の面でも鉱山の存在によって地域社会の体質が変わることはなく,別個の次元の異なるエリアがそこにあるという形ではなかったかという結論を得る。
 第4章「町場にできた株式会社と経営者たち」では,地域の経済発展のあり方を,地域ぐるみの株式会社設立の状況に焦点をしぼって検討する。1900年代はじめに富士馬車鉄道・谷村電燈・谷村商業銀行・饒益銀行・谷村委託といった株式会社が谷村町を舞台にして設立された。会社経営に携わった経営者たちは相互に関わりをもちながら会社を設立し,経営に従事している。このような株式会社は,江戸時代以来の蓄積した資産をふまえて,家業をさらに発展させるという方向ではなく,町場の人々が寄り集まって西洋移植の新分野で新会社を,株式会社という形で設立するのである。会社設立者のなかに地域のリーダー格である町会議員を多く見出だすことができるのは,一面では町ぐるみで株式会社を設立し,地域経済の活性化・近代化を進めた象徴ともいえる。会社経営の特徴としては,当初の設備投資さえ乗り越えれば,あとはコンスタントな高収益・高配当が持続できたが,不断の設備投資・技術革新に努力するといった会社経営の方向が必ずしもとれなかった。そのためもあって,1920・30年代には,大きな壁にぶつかり,挫折せざるをえなくなる。
 第5章「地域の課題と町村財政」は,明治後期の町場と農村の財政状況,それぞれの課題と対応のちがいについて検討する。その結果,@江戸期以来の地域単位の枠組みがかなり根深く存在し,行政村の一体化が困難であったこと,A村では伝染病対策などで巨額の出費が必要となり,借金や寄付金に頼るしかない,といった状況がみられたこと,B町では町財政に依存しない事業(水道・電気)が始められたこと,C町場の行政では公共施設(学校施設・公会堂・公園・高等女学校の設置など)が充実されたのに対し,農村部は伝染病や自然災害などに対応するのが精一杯であったこと,を明らかにする。
 第6章「学校と地域社会」では,尾県学校(現在都留市にある尾県郷土資料館)の沿革を考察する。地域が学校をつくり,学校経費を賄い,地域が学校の存在にこだわったこと,学校が地域の中心になったことを明らかにし,教育と学校を考える場合,「近代教育の形成」という視点から評価される傾向が強いが,学校を地域社会との関係のなかで見ることも必要ではないかと,指摘する。
 本書は「地域のことに関心をもち,歴史家として出来ることをしておきたいと」いう思いから書かれ,近世史の専門家である著者が,近代史全体との関わりを意識しつつ書きなおした書である。各章で「使う史料をはっきりさせて,そこから明らかになったことを記述して全体像を組み立てる」という歴史家としてオーソドックスなスタイルで執筆されている。本書は地域に密着し,地域への愛情を感じさせる書である。しかし本書はそれにとどまらず,地域を全体の下位に位置づけてしまう傾向に対して,地域の多様性を明らかにし,歴史の動きを,地域の豊かで深みのあるなかで読み取っていくことに成功している。
 とはいえ多少の疑問はある。一つは,全体史との関連をどうつけるかという点である。この点は地域史研究の一般的な課題といえるが,本書についても指摘せざるをえない。二つには地域の変化について,特に交通(鉄道)開通にともなうダイナミズムが描かれうるのではないだろうかという点である。たとえば『甲府市史 通史編・近代』(1990年)では,1903年の中央線開通を境にして富士川舟運が衰微することや甲府盆地の産業・経済・消費生活が変化すること(特に鮮魚類の入荷)が記されている(同書360〜362頁)。また『塩山市史 通史編(下巻)』(1998年)は,中央線開通にともない,塩山駅周辺は物資流通のセンターとしての機能を高めるとともに,それに付随して繁華街としての外観を整えつつあったことを指摘している(同書152〜161頁)。交通・流通は全体史との結び目の一つになる領域であるかもしれない。三つには,塩山市史の例に見るように町場には谷村とは異なるタイプがありうるのではないかという印象をもった。いくつかのタイプを明らかにすることによって,日本近代史研究に深さと広がりをもたせることができるのではないかと思われる。
 以上の紹介から理解されるように,本書は近代史における地域を考えるうえで興味深い事実関係を明らかにしている。地域の歴史に興味をもつ人だけではなく,日本近代史を民衆の立場から深く捉えようとする人にとっても読まれるべき書であることを確認して書評の責めを塞ぎたい。

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