鈴木哲雄著『社会史と歴史教育』
評者・今野日出晴 掲載誌・史海(東京学芸大学史学会)46(1999.06)


 「鈴木哲雄『社会史と歴史教育』によせて」
 現在、歴史研究と、歴史教育の授業実践は、相互に関連性のない領域として「分業」化されてしまい、刺激を与えながら通じあえるような脈絡が見いだされることは少ない。こうしたなかで、鈴木哲雄氏は、歴史研究と教育実践の両者を追求してきた数少ない実践的研究者の一人である。本書には、鈴木氏の歴史教育の優れた実践者としての側面を浮き彫りにする論考が収められている。
 本書は、大きく分けて、歴史教育をめぐる、いわば、理論的な提言部分と、それを具体的に展開した実践部分から成り立っている。序章「社会史と歴史教育」と終章「中世社会像の再構成をめざして」が、理論的な提言部分にあたり、序章では、子どもの生活実感に根ざした歴史教育として、社会史の可能性が語られ、終章では、荘園公領制を中世社会のしくみとして位置づけるための教科書編成プランが提言される。
 そして、それにはさまれた実践部分は、二つの主題によって構成されている。まず、第I部では、紀伊国梓田荘の荘園絵図などを教材にして、荘園公領制という「しくみ」がイメージ豊かに展開されている。同時に、教えにくいとされる古代から中世への土地制度の変遷が、明瞭な見取り図として示される。そして、第U部では、『一遍聖絵』の備前福岡市などの著名な絵巻物を教材にしながら、中世の身分制や子ども論に迫り、加藤公明氏の「討論学習」をめぐる論争に新たな論点を付け加えたものになっている。
 本書については、すでに、丁寧に内容を紹介しながら検討した戸川点氏の書評があり、鈴木実践が「現在の研究水準を取り入れた上での刺激的な実践」であることが明らかにされている(1)。戸川氏の書評は、付け加えるべき論点を見いだすのが難しいと感じられるほど、行き届いたもので、後述するように、鈴木実践の問題、というより、現在の歴史教育が抱える課題をも的確に指摘している。そこでここでは、いささか、異例かもしれないが、私にとって、本書はどのような意味をもっていたかという、私的で限られた視点から記述することで、書評にかえたいと思う。ご海容を乞う。

まず、最初に、第I部の荘園公領制に関しての実践に関わる部分について、考えてみたい。これらの実践記録の起点となる報告は、一九八九年の歴史教育者協議会の岐阜大会でのものであるが、私は、その報告を共感をもって聞いた。それは、やっと研究水準に切り結ぶことのできる本格的な実践が登場したという思いを伴うものであった。
すでに、小山靖憲氏は、一九八一年の時点で、荘園を古代の土地制度の脈絡のなかで説明するようなあり方に対して、歴史教育においても、中世の根幹をなす制度として、荘園を位置づけるべきではないかと提言されていた。それにも関わらず、それに見合うような実践記録が一○年近くも公表されていないという状況にあった。それゆえに、摂関期の荘園想定図として鈴木氏が作図された概念図(本書六三頁参照、以下本書からの引用は頁数のみ記す)と*田荘絵図とを比較しながら、中世社会のしくみとして荘園公領制を位置づけようという実践は、清新なものに思えた。鈴木氏の問題意識と共通するような課題を感じ、教材開発に頭を悩ましていたこともあって、私には、ここでの報告が一つの方向を指し示すものに感じられたのである。
 しかし、同時に、荘園公領制が形成される過程において、民衆の動向はどのようなものであったのか、必ずしも明瞭に示されていないということに、ある種の物足りなさも感じた。それが、鈴木報告に対して、「免田型荘園」の提示だけでは、「当該期の民衆運動としての寄人化運動を評価することができず、村落を支配の基礎として成立する荘園公領制を理解させることはできない」(七○頁)という私の舌足らずな指摘の理由であった。
 それは、摂関期の荘園では、荘園と公領の両方に属する「諸方兼作」の田堵の動向が、その制度自体の形成を考える際に重要な役割を果たすのではないかという認識を前提にしていた。「諸方兼作」という状況で、田堵らは、公領での課役拒否や公領の耕作放棄などの抵抗を通じて、より有利な条件を引き出そうとする。そうした民衆運動のしたたかさと、そのなかから生まれてくる中世村落、そしてそれを基盤にする荘園公領制、という脈絡を大事にしたいと考えていた。特に、生産と民衆闘争の基盤である中世村落を具体的に描く必要を感じていた。教科書では惣村が描かれるが、それだけでは、それ以前の村落とどのように異なるのかが理解されず、惣村を基盤にする土一揆も、それのみでは孤立した民衆運動になってしまうのではないかと考えていた(2)。そして、それは、その村落における生活の具体相(生産であったり、労働であったり、闘いであったり、祭りであったり、遊びであったり)を必然的にともなうものとして構想したいということでもあった(3)。
 課題意識だけが先行したような、私の指摘にもかかわらず、鈴木氏は、それを一つの論点として組み込み、次の新しい実践を展開されたように思われる。そこでは、班田制から公田制ヘ、そして公田制から荘園公領制へという「授業の軸」が示され、特に、公田制から荘園公領制の形成という流れでは、中世村落の成立を中心に据えられたのであった。実際の授業では、〈山城国玉井荘住人等解〉の史料が教材として見いだされ、「用水の確保を目的とした住人等の結合」を基盤にした「住人等解闘争」という闘争形態が抽出される。そして、それを可能にする政治的共同組織を、新たな中世村落を展望するものとして意義づけたのである。こうした「授業の軸」と、「住人等」の政治的結合の様相は、鈴木実践の着実な前進と可能性をあらわし、荘園公領制に関する授業実践としては、高校の歴史教育における現在の到達点を示すものと言って良いと思う。
 しかし、一方で、戸川氏は、民衆の動きから荘園公領制を解こうとした鈴木氏の意図を了解したうえで、次のように指摘する。「荘園公領制という概念自体、荘園の持つ」「国家的性格に注目して提出されたもの」てあり、「国家や荘園領主による働きかけという側面を抜きに民衆の動きのみでは荘園公領制については解ききれない」。この戸川氏の指摘は、全く正当なものであり、さきに述べた私の授業構想に対しても、練り直しを迫るような重要な批判となっている。これは、荘園公領制の成立という問題だけにとどまらず、国家の公権的性格はどのようなものとして想定されるのか、あるいは、国家の「公共性」をどのように通史像に組み込んでいくのかという、私にとって容易に解くことのできない難問に連なっている。そして、この難問は、今後の歴史教育の一つの焦点となっていくように思われる。
 坂本多加雄氏は、「階級」や「民衆」や、「住民」あるいは「民族」を主人公とするような物語とは別の、「国民の物語」として歴史を構成すべきだと主張する(4)。そして、江戸時代において、公的支配者である征夷大将軍が天皇に任命されて支配の正当性が保持されたように、公的システムは基本的に律令制を前提に連続しているのであり、天皇こそが公共性のシンボルであるとされる。そして、「公地公民制で、天皇と、公的支配と公民という概念が」「ドッキングしている」から、近代の国民意識の形成は、天皇をシンボルとしておこなわれたと敷衍する。こうした筋立てのなかで、国民は、「天皇の民」として公共性を維持してきたという物語が描かれようとしている。
 また、坂本氏は、荘園制度によって私的に領地を支配するものになり、公地公民制は崩壊したようにみえるが、「網野善彦理論」から、公的支配は残っているのであり、天皇は公共性のシンボルとして位置づいているとする。「荘園制はあくまで私的な支配にすぎない」として、公地公民制の対極に荘園制をおくような古風な理解を示してもいるが、これも早晩、手直しされて、「近年の研究では、私的な支配と思われていた荘園制であっても、国家的な性格が明らかにされ、公地として位置づけることができる」とでも主張するであろう。公地公民制が一貫して日本の公的システムであったという構想がより一層補強されていくのである。
 このような状況は、鈴木氏の到達点と戸川氏の指摘とを活かしながら、次の段階をめざしていくことに、恣意的で政治的なヴァイアスをかけるように思う。しかし、それゆえに、「住人等解闘争」を可能にした政治的共同組織、いわば、下からの自立的な公共性の積み上げと、上からの「国家や荘園領主のはたらきかけ」とが、緊張と対抗と、そして統合をともないながら、荘園公領制の形成へとすすんでいくこと、その様相を具体的に提示して丁寧に議論することが求められると思う。そして、それは、通史のなかで、自治と公共性とを考えていくことに繋がっているのであり、現在の課題とも直接に結んでいる。
 次に、第U部での一連の論考であるが、私には、とても刺激的で多くのことを考えさせられるものであった。「備前福岡市」の教材化をめぐってのこれまでの論争を振り返りながら、特に加藤公明実践を新しく位置づけなおした点が重要であり、今後、加藤実践を言及する際に、避けては通れない論点を示したように思う。
 鈴木氏は、加藤実践の評価すべき点として、「討論授業」にむけた下準備の巧みさ、複数の授業時間にわたるすぐれた全体構造、生徒へのすぐれた発問づけ、そして「討論」におけるまとめ役としての教師の役割にあるとする(一七四頁)。そして、「討論」という方法は加藤実践の一部分であるにもかかわらず、「加藤実践のもつ意義が、『討論授業』としてゆがめられて評価されたために、加藤氏自身もみずからの実践を『討論授業』と誤認している」。そして、「そのため、加藤実践にたいする今野氏らの批判も、架空の『討論授業』論に対する批判となり、加藤氏の反批判も建設的にはなされていない」(二二九頁)とされるのである。
 評価すべき点と批判すべき点とを柔らかな語り口で切り分けながら、鈴木氏は、これまで「討論授業」として高く評価されてきた加藤実践に対して根底的な疑義を提出している。ここでの一連の検討によって、これまで転倒していた加籐実践が正当に定立されたように思う。加藤実践は、宮原武夫氏などによって、賞賛とともに、精力的に「討論授業」の典型として位置づけられ、喧伝されてきた。それが、「架空の『討論授業』論」として、ある種の虚構性が明示されたのである。そして、同時に、批判者であるはずの私も、その架空の「討論授業」としての枠組みを共有していたと批判されることになる。それを了解したうえで、それでは、なぜ、「加藤実践のもつ意義が、『討論授業』としてゆがめられて評価された」かということを解き明かさなければならないと思う。それがその枠組みを共有していたとされる者の責任であろうし、また、鈴木氏の回答も望まれるところである。
 鈴木氏は、加藤実践では、「討論授業」の前提となる〈事実認識の段階〉の具体的な授業のようすが示されていないとしたあとに、この段階で相当の知識・理解が深められているはずであり「この点をおとして、加藤実践を評価することは正しくない」(一七三頁)とされる。確かに、その通りなのだが、しかし、〈事実認識の段階〉を加藤氏自身が、「実践報告にのせない」状況で、検討せざるを得なかったという点は留意されなければならないように思う。それは、当初から加藤実践の分析には大きな制約と困難があったということをも意味している。歴教協の大会などでの加藤氏の報告に対する議論でも、再三、その点が問題になったし、坂本昇氏も、加藤実践のなかで討論と講義がどう位置づけられているのか不鮮明であろとしたうえで、自らの「講義のところはあまり強調しないで、討論が成り立っているところだけを強調される」(5)と指摘していた。
 それでは、なぜ、加藤氏は、生徒たちが「討論」の前提となる知識や概念を獲得できたのかという、授業分析にとっても重要であるはずの部分を記述しなかったのであろうか。もっといえば、技術論的には、最も核心的な部分が、なぜ、秘匿されていたのであろうか。
 加藤氏は、「科学的な歴史像であっても、教師という権威からの教え込みによって身につくものではない」、すぐれた講義式授業でも、「生徒は講義を受容する客体」であり、「教師の歴史観や歴史像を一方的に押しつけられる存在」でしかない、という枠組みをつくりあげた。そして、「生徒に歴史認識の主体性を持たせ自由に歴史を考えさせ、討論を通じて各自の認識の発達を促す授業を実現すること」をめざして、「討論授業」を練り上げようとしてきた。私には、こうした枠組みそのものが、知識獲得のための講義などの手だても、教師による知識注入として指弾することにつながり、逆に、それが加藤氏自身をも制約してしまい、自らの講義や説明の部分をきちんと実践記録に記さない状況を生んでしまったように思う。「生徒を主体に」というような、誰もが反対や批判が難しいような言葉を「お守り」にして、「授業観の転換」という枠組みに囚われてしまったために、加藤氏自身が「討論授業」をゆがめて評価してしまったといえるかもしれない(6)。
 しかし、加藤実践が、講義、問題提起、討論、発表などなど、総合的な授業の営みとして、きちんと定立されるようになれば、相互の議論の共通の基盤ができ、教師の指導性を発揮していくなかで、生徒の主体性を尊重していくような道筋が見えてくるということも意味している。そして鈴木氏のこの著書が、そのための重要な前提をつくりあげたことは明らかなのである。私にとっても、そして、加藤氏にとっても、「討論授業」をめぐる論争を建設的で実りのあるものにするためには、この地点から出発することが必要なことだと思う。

(l)戸川点「書評 鈴木哲雄著『社会史と歴史教育』」(『人民の歴史学』第一三九号、一九九九年三月)。
(2)「荘園公領制をどう教えるか」(『人民の歴史学』第一○七号、一九九一年三月)参照。それは、七○年代の人民闘争史で議論された論点を、どう継承するべきなのかということも意味していた。入間田宣夫氏は、「逃散の作法」に関する研究が、鈴木氏によって狭義の社会史の文脈からのみ位置づけられたことに対し、「主観的には」「人民闘争史研究の延長」と反論していることは興味深い(三三頁)。
(3)こうした観点から、農民の一年の祭礼や農作業などを暦として教材化し、あわせて、逃散などの闘いを考えようとした(「荘園の四季」『歴史地理教育』第四九二号、一九九二年一○月)。
(4)坂本多加雄「歴史教科書はいかに書かれるべきか」及び「討論『教科書をつくる会』はどういう教科書をつくりたいか」(新しい歴史教科書をつくる会編『新しい日本の歴史が始まる』幻冬社、一九九七年)。なお、池享氏は、この主張の問題点を簡潔に指摘している(「教科書裁判の争点と今日の歴史学」『歴史評論』第五八二号、一九九八年一○月)。
(5)「座談会 加藤公明実践を検討する」(『歴史地理教育』第四八八号、一九九二年六月)での発言。
(6)拙稿「疎外される歴史教育」(『歴史評論』第五八二号、一九九八年一○月)参照。

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