末永恵子著『烏伝神道の基礎的研究』
評者・神田秀雄 掲載誌・日本思想史学33(2001.9)


 本書は、京都上賀茂社の神官出身の梅辻規清(一七九八〜一八六一)が創始した烏伝神道について、その思想内容を広く分析するとともに、幕末・明治期におけるその歴史的位置を解明しようとした試みである。著者は、東北大学附属図書館狩野文庫に所蔵されている烏伝神道関係の写本類を、一九九○年代を通じて一つ一つ翻刻してきており、別にその成果を『続神道大系 論説編 烏伝神道(一)』(二○○一年一月、財団法人神道大系編纂会)として刊行している。本書は、そうしたテクスト校訂の作業と並行して執筆してきたいくつかの論考に新稿を加えて再構成し、烏伝神道に関する現時点での著者の見解をおおやけにしようとした書物だと言えよう。本書の全体は次のように構成されている。
 (目次省略)
 序章の「一 課題と方法」で著者はまず、「従来の幕末期の神道思想研究では、尊皇攘夷運動や近代天皇制イデオロギーの支柱となった国体論や尊王論の思想的源流である後期水戸学と幕末国学とが、主たる対象になっていた」とし、「この二大潮流の陰に覆われて、同時期の烏伝神道に関する研究は、決定的に立ちおくれている」と述べている。そして、その「立ちおくれ」の原因を、「二大潮流に比して社会的影響力の点では劣ること」と「思想としての画期性や問題点の見えにくさ」に求めつつ、戦前・戦後を通じた研究の問題点として、研究蓄積の不十分さと、二十九年にわたる規清の著作期間の全体を見通して思想の変化を追究した研究がないこと、同時代および後世における思想の受容が主題化されていないこと、の三点を挙げている。そのうえで著者は、烏伝神道の「体系的かつ構造的把握」(基礎的な考察)の実行、「規清の思想の、同時代および後世における受容」に関する分析の実行、の二つを本書の課題だと記している。
 ところで、序章における右のような説明は、本書の構成に関する著者の自覚をほぼ忠実に伝えたものとして差し支えあるまい。しかし、本書を読み進むうちに、評者は、著者がテクストを読み取る筋道を辿ることと、読者の一人として烏伝神道の全体像を読み取ることとが、かなり大きく乖離していくという感覚を覚えるようになった。それは評者の非力にもよるだろうが、本書の構成や叙述の特徴に大きく由来している。そこで、特にその叙述の特徴にあらかじめふれ、あわせて以下の論評の方針を示しておきたい。
 本書における叙述の最大の特徴は、烏伝神道という対象について、著者が一貫して「内在的理解」を果たそうとしていることにある。著作の全貌を俯瞰した研究がない対象を研究する場合、その全貌を視野に収めた研究を試みようとすることは研究者として当然であり、その意味では、多くのテクストを丹念に読み込んだ著者の努力は高く評価されるべきである。ただ、対象とする思想をトータルに把握するためには、一方で、時代状況や同時代の諸思想を広く視野に入れながら対象の位置を測定することが重要であり、そのこととテクストを「内在的」に理解することとの間に緊張関係があることは言うまでもない。その点、後述するように著者は、主に第一編でかなり広いバックグラウンドに論及してはいる。しかし、主題と背景との関係について著者が結論的な見解の提示をしばしば留保していることもあって、個々の章(論文)における著者の見解を順次読み取っていっても、その延長上に烏伝神道の全体像をつかみ取り、それを著者と共有することはかなり困難だと思われる。そしてそのことは、基本的には独立論文を集めた書物であるという本書の性格に由来すると同時に、著者が過度に「内在的」なテクストの読み方をした結果だとも言えるように思われる。そこで以下では、きわめて異例な論じ方になるが、本書の分析から評者が読み取った梅辻規清の思想ないし烏伝神道の歴史的特徴をまず掲げ、著者が本書で展開している議論にふれながら、各特徴点に関連する問題を論じることにしたい。
 * * *
 梅辻規清の思想ないし烏伝神道に関して、本書の分析から評者が読み取ったイメージのあらましは次のようなものである(傍線部は著者の見解をかなり超える部分)。
 A.梅辻規清は、近世後期の社会に民間から現れた経世思想家の一人であり、烏伝神道は、彼がその経世思想の具体的展開と不可分に形成していった、形而上学の体系ないし哲学的信念体系として理解すべきものである。
 B.烏伝神道には幕末期の民衆が抱える生活上の諾問題を直接的に引き受ける宗教思想という性格はかなり薄く、それはむしろ、人間の本質と政治の理想的なあり方を日本の神典(主に『日本書紀』)にまで遡って思弁的に構成した内容から成っている。したがってそれは、思想の社会的性格という側面からいえば、天理教や金光教等に代表される民衆宗教よりも、はるかに平田派国学に接近する性格を持っている。
 C.烏伝神道は、朱子学が為政者階級のみならず民間にも広く浸透していた、という日本近世社会の歴史的特徴をつぶさに体現する思想の一つであり、上賀茂社に伝わる古伝承と烏伝神道との関係は、むしろ規清自身の自己規定と解すべきである。陰陽生成論を基本的な枠組みとし、「人ハ小天地」だとする烏伝神道には、石門心学とも用語上で共通する部分があるが、石門心学が持つ宗教的「回心」の要素を、烏伝神道はまったく持たない点に固有の特徴がある。
D.規清は、『蟻之念(ありのおもい)』(一八四三年成立)と『和軍蜻蛉備(やまといくさあきつそなえ)』(一八四六年成立)という名称の上書と上申書を幕府に提出し(後者の提出は逮捕の翌年か)、二度にわたって国家祭祀の構想をまとめている。両者の内容は、前者が、江戸下層民の生活実態(町共同体の実状や死後祭祀問題等)を視野に入れつつ、社会秩序の視覚化と墓地問題の解決等を目的とする「忠孝山」の建設構想であるのに対し、後者では、明治維新期に現実に執行された政策を思わせるような、国教創出を含む政治体制の抜本的変革構想となっており、その間の規清に急速な思想の深化があったことを確認できる。
E.規清は、一八四六年、寺社奉行所に捕縛され、四八年以降、八丈島流謫の身となった。彼はその後も著作活動を続けて在島のまま没したが、最晩年にあたる一八六○年に著した『烏伝白銅鏡』では、死生観や「天」観を大きく転回させている。その転回は、人間の死を気の飄散であるとする朱子学説のそれにちかい死生観から、生前に道徳的行為を実践した者は、死後、その霊魂が「天」に止まり、子孫や同様の道徳的実践者に幸いを施し続けるという死生観への、ほぼ一八○度の大転回であった。(この項に関する理解は仮に著者のそれに従った。)
 まず、評者のAの理解は、序章における、規清の出自と生涯に関する著者の分析から導き出したものである(「二 賀茂規清の事績」)。あまり本文の叙述には生かされていないその分析のうち、規清の思想形成を理解する上で特に注目しておくべきだと思われるのは、伊勢・石清水とともに格別な扱いを受けていた上賀茂社が、近世期には多数の社家を持ち、その多くが相当な経済的困難を抱えていたことや、その一下級社家に生まれた規清が、血脈に対する思い入れと強いプライドを持ちながら、現実には非常に困窮していたこと等である。また「修行及び教化活動期」に関する分析によれば、一八三二(天保三)年以降の十二年間にわたって行った東国の廻国修行に際し、規清は、通常考えられるような宗教的修行を実践していたというよりも、むしろ儒者を中心とする地方の文人や剣客、藩校等を訪ね歩いていたらしい。さらに、江戸在住中の規清が、おそらくは糊口の手段として製薬を行っていたことや、天保十年代に二度にわたる幕府への献策を行っていたこと等も、彼の活動を具体的に伝える事実として注目されよう。
 右のような事績から、経済的に恵まれない出自を持ち、活躍の場を獲得しにくい事情の中に成人しつつ、社会への発言・参画の機会を求めて彷徨した人物としての梅辻規清というイメージを導き出すことは、決して拙速ではないであろう。そしてそうした規清像に大筋で誤りがないのだとすれば、規清は、思想家としての出発点において、むしろ平田篤胤や佐藤信淵らとかなり似通った動機を持っていたと見ることも可能だろう。すなわち評者は、ひとまず規清を、身分制的な近世社会の枠組みから逸脱した中間層の一人として理解したいのであり、その点を明確にすることが烏伝神道理解の第一歩だと考えるのである。
 ところで著者は、「烏伝神道は、近世前期の儒教的神道の単なる焼き直しやリバイバルではなく、国学出現後の幕末期固有の新しい思想的課題を担って登場した思想である」という、序章で自らが提起した見通しをめぐって、第一編第一章できわめて詳細な分析・論証を行っている。本書全体のコンテクストにつながると考えられる論点だけを敢えて抜き出すと、それらはおよそ次のようになろう。
 @『日本書紀』神代巻の解釈は、儒教的神道が国学と対峙しつつ具体的な問題に踏み込んで議論を展開する際の共通の土俵であった。A国学者が記紀の神々の実在を主張し、その記述を無条件に受け入れるべきだと主張したのに対して、規清は、非合理主義的な解釈に反対し、神代巻の記述をあくまでも「今日に活用」可能な比喩だと解釈した。B規清は、神代七代章における十一神に、母胎内で胎児を形成・成長させてゆくはたらきを月ごとに配当し、そこに登場する他の神々についても生殖作用に結びつけて解釈したが、それらの解釈は、天と人とが根元的に一致する(「天人唯一」)との観念に則って、「万人」が等しく道徳的可能性を保持することを示そうとするものだった。C規清は、書紀に一カ所だけ登場する「羽明玉(はかるたま)」を主人公に据え(書紀では素戔嗚尊に八坂瓊之曲玉を奉った神だとされる)、大八州生成章以下の神代巻を、その「羽明玉」の稀なる徳による日本建国の物語(誕生、救世の思いの成熟、人心教化と理想的小国家建設等々を述べた一代記。「羽明玉」は天皇家の始祖だとされる)として解釈したが、そうした規清の解釈は、「理外ノ神変」に期待する習俗に反対して「修身斉家治国平天下ノ道」を直接に説く神道を目指すもので、国学とは異なった方向から記紀や天皇を積極的に照射するものだった。なお、以上のような神代巻解釈の中で規清は、「羽明玉」とその三十二臣のみを実在の神だとしているが、著者はそれを、規清が、複数の神典の記事にもとづいて、賀茂縣主は天孫に供奉した三十二神中の一神の末裔である、という自意識を持っていたことと深く関連すると見ている。
 大略右のような第一章の分析には、著者がテクストを「内在的」に理解しようとする理由の一端がよく現れている。つまりそれは、丹念に固有の論理を追跡しなければその意味するところが到底汲み取れない性格を、規清のテクスト自体が備えているということであり、ここではひとまず、著者の努力に敬意を表しておきたいと思う。ただし、思想の全貌を客観的に捉えようとする立場に立つかぎり、右のような神代巻解釈には、何よりも、規清の思想における最大のナラティヴという位置づけを与えておくべきだと思われる(なお、敢えて付言しておくと、この章で著者は、『日本書紀神代巻根国史』と『根国史人間開闢系図之弁』を主な典拠にしつつ論を組み立てているのだが、これらの著作の成立年代や成立事情にはほとんどふれていない。そしてその結果、あたかも、両書がともに、第二章以下で取り上げられる諸著作に先立って成立していたような印象を与えていることも、実は大いに気になるところである)。
 それに対し、第一編の第二章から第四章までは、より広い視野の中で烏伝神道のテクストを分析した論考が並べられており、その内容は評者のB、C、Eの理解と関係している。そのうちの第二章と第三章で著者は、規清の『大山論』(一八三二年序の最初の著書)と『陰陽外伝磐戸開』(一八四八年)を直接の素材としながら、西洋天文学・梵暦運動・後期水戸学・平田派国学・民俗信仰・民衆宗教等に言及しており、第四章でも平田派国学や民俗信仰との比較を念頭に置いた分析をしているのだが、これらの三つの章には、テクストの読み込み方に関わって、およそ以下のような問題が現れていると評者は考える。
 気付きやすい問題点から指摘すると、ここにおける著者の分析は、規清の思想に関しては形而上学的なレベルに深く立ち入って行われているのに対し、同時に論究する他の思想に関しては、ほぼ外面的な特徴を取り上げるに留まっている。つまり、対象と背景のそれぞれの論じ方に大きなアンバランスが認められるのである。具体的事実を挙げながら言い換えると、まず著者は、第二章で『陰陽外伝磐戸開』を分析し、規清が、「天と心との原理的一致の根拠を宇宙の構造の中に設定する」ために、地球を取り巻く物理的空間の一つとして「冷際天」の実在を主張したことを取りあげている。またその際に著者は、同じく規清が、その「冷際天」を、高天原、無、誠という神仏儒三教の理想的精神の境地で、かつ万物の本元、「天地ノ心」であるとも主張し、「冷際天」と人間の心が一致する原理を「感」(感応)に見出していったこと等を詳細に論じている。そして、三つの章における議論の前提になっているそうした著者の分析は、形而上学の分析としては相当に精密なものだと考えられる。しかしその一方、第三章で著者は、烏伝神道に「「心」の尊重を主張する思想」というあまり厳密でない規定を与えており、その間の精粗がかなり対照的である。しかも、右の規定を与えた箇所で著者は、後期水戸学は民衆を操縦・支配の対象としてしか捉えない思想であり、平田派国学は、「心」自体の絶対性を主張せず、「心」は神から与えられたが故に尊いとする思想である。その点で両者はともに、「心」尊重の思想を視野の外に置くものだったと述べ、烏伝神道に関する自己の理解との対照性に限定された、きわめて外面的な評価を下しているのである。
 ところで「「心」の尊重を主張する思想」という規定は、実は著者が、安丸良夫氏の「通俗道徳」論は「「心」の哲学」による呪術的世界の否定という筋道に偏して展開されてきている、と捉えたことに由来している。著者は、烏伝神道が「「心」の哲学」の範疇に属することを一方で承認しつつ、烏伝神道は単純な呪術否定の思想でないことを論証しようとして右のような概念規定を持ち出したらしい。そして、規清の形而上学に沿った著者の分析を読むかぎり、そこにはたしかに、天人合一的な「「心」の尊重」と呼べる内容が豊富に含まれている。しかし、一方できわめて特徴的であるのは、規清は自己や民衆の置かれている歴史的・社会的な状況をどのように捉え、そこにどんな問題を見出し、それらにどのように対処しようとして思想を形成していったのか、また形而上学的な性格の強い彼の思想は民衆の抱える問題とどのようにリンクしているのかいないのか、といったことがらが、著者の分析や叙述からは容易に読み取れないという事実である(後述するように、第五章の分析はやや例外)。つまり著者には、動機やその生産過程・社会的機能等を含めた意味で思想を分析・解明しようとする発想がかなり希薄なのであり、そのことが、他の思想との比較に関しても、思想の成り立ちに踏み込んだ検討から著者を遠ざけているように思われる。
 ここで、本書のテーマにとって重要問題である烏伝神道と平田派国学との比較に絞り、著者の分析の問題点を改めて示してみよう(民衆宗教や石門心学と烏伝神道との比較に関する評者の見解の一端は、前掲の評者の理解B、Cに記した)。両者の相違に関する著者の基本的な見解は、第三章の末尾に記されている、「『陰陽外伝磐戸開』は単なる啓蒙書ではなく、当時隆盛の平田派国学に対する「心」尊重の思想からの挑戦状だった」というものである。そして、本書の全体にも貫かれているそうした著者の見解では、平田派国学は神の実在を認め、死後の世界を想定する特徴を持っている、それに対し、規清の思想はそれらを認めない特徴を持っている、ゆえに両者は「対極的な位置」にあったという理解が大前提となっている。しかし、平田派国学と烏伝神道との比較はそうした観点からのみなされるべきではないだろう。むしろその比較は、たとえば、篤胤が『古史成文』や『古史伝』を纏めた事実と規清が独自の神代巻解釈を行った事実との同質性いかん、といった角度からなされてもよいはずなのである。
 やや別の問題になるが、第四章で著者は、規清最晩年の著作『烏伝白銅鏡』(一八六○年)の中に、死生観の大転回を認めており(超越者と霊魂の実在という観念を受け入れることに接近する転回。前掲の評者の理解Eを参照)、その思想転回の最大の背景として、規清が「理論的限界を自覚した」ことを挙げている。しかし、そこでも主にテクストの論理を追っている著者の説明は、あまり歯切れのよくないものになっている。次にふれる第五章では、すでに天保末年、規清が死後祭祀をめぐる民間の動向に関心を寄せていたことが明らかにされているのだから、第四章の分析もそのことを踏まえてなされるべきなのだが、今はそのことは問わないとしよう。だが、規清には一八六○年に「死生観の大転回」があったという捉え方は、そもそも、生成原理にもとづく現世中心主義の思想としての一貫性という点に過剰に集中してなされた、著者の烏伝神道理解(テクストの信憑性に対する判断を含む)に由来している側面があると思われる。そしてそこには、死後の世界の有無や所在の明確化に関する民衆の欲求、またそれを踏まえた平田派国学の展開に、規清がもっと早い時期から対応しようとしていた可能性を、より適切に追跡できる分析視角が求められていると思われる。
 およそ以上のような特徴のもとに叙述されている第一編の中で、第五章は特異な性格を持っている。それは、分析の対象とされているのが、幕府へ規清が提出した上書の類であり、形而上学的な性格の薄い史料であることにも由来するが、著者はこの章で、すでに藤田覚氏が取りあげている『蟻之念』に加えて、三年後に執筆された『和軍蜻蛉備』を新たな分析対象とし、きわめて興味深い分析を行っている(その概要は前掲の評者の理解Dを参照)。この章の分析について充分な論評をする余裕はないが、一八四六年成立の『和軍蜻蛉備』には、同年に規清が捕縛される一因になったことを充分に推測できる体制変革論が広く展開されており、そこには次のような事実が含まれていることだけをここでは指摘しておこう。すなわち、この上申書には国民国家の形成にも寄与しそうな議論が広く展開されているものの、明治維新後の政治過程で構成されていったような現実的な統治者像(天皇像)は直接準備されていない。そしてその意味で、規清の経世思想の到達点には、最近、国家神道との直結性が否定的に再検討されつつある平田派国学〔桂島宣弘『思想史の十九世紀』(ぺりかん社、一九九九年)を参照〕の性格にも接近する側面が含まれていると考えられるのである。なお、烏伝神道における国家的な祭祀構想をそうした視点からの考察を含めて検討することは、そこから近代天皇制国家の成り立ちを逆照射することにもつながってゆくと考えられる。
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「規清の思想の、同時代および後生における受容」に関する分析が意図されている本書第二編については、もはや、個々の論考の内容紹介を割愛せざるをえないが、著者は、規清との出会いがこれまでも知られていた民衆運動家菅野八郎のほかに、野州黒羽藩主の大関増業と、明治期における神習教二葉教会という、二つの受容事例を新たに発掘している。しかし、著者がいう「同時代および後生における受容」の実態を明らかにし(評者は「受容」という用語の使用はあまり適切ではないと思う)、烏伝神道の歴史的性格を明確にするためには、むしろ基本的に、その生涯を通じて規清が、どのような社会階層の人々と関わりを持ち、どのような社会的欲求を自己の問題として捉えていったのか、またどんな人々の支持と援助を得ながら活動を展開していったのか、という問題を広く明らかにしてゆくことが必要だと思われる。それは既述のように、思想の内容を理解する上でも不可欠な手続きだからである。序章には、「上は一品親王より下は奈落の底に至りて乞食非人にも附合、上下の人情に通ずる事、既に東国三十三ケ国に行さる国なく、八宗九宗の蘊奥を探る遍歴十二年」という『和軍蜻蛉備』の一節が紹介されているだけなので、「門人帳」に相当する史料はまだ見出されないのかもしれないが、著者のさらなる探究を期待したい。
(天理大学教授)

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