森田清美著『ダンナドン信仰―薩摩修験と隠れ念仏の地域民俗学的研究―』
評者・古賀和則 掲載誌・宗教研究330(75-3)(2001.12)

 一 本書の構成
 鹿児島県串木野市の北西部に位置する荒川地区と羽島地区にダンナドンをめぐる信仰が秘密裏に伝承されてきた。本書は、このダンナドン信仰を軸とした同地域の宗教民俗に関するモノグラフである。
 副題に「隠れ念仏」とあるが、ダンナドン信仰が秘匿されてさた念仏信仰であることを本書の記述から直ちに理解することは難しいかもしれない。しかし、霧島東麓・都城盆地のテラモト・シント(評者の仮称。なお、本書は「カヤカベ類似の宗教」とする)や霧島南西麓のカヤカベといった秘匿されてきた念仏集団を訪ねた評者にはダンナドン信仰が秘匿されてきた念仏信仰であることを容易に推察する。
 秘匿してきた信仰が部外者に語られる場合、まず伝承者と部外者の間の信頼関係が必要であろう。著者は、六年間この地区に居住して地区の共同生活を送り、さらに教師として教育に関わり、村の祭りの復活に努めたり、地元の自然と歴史の魅力について紹介役を担ってきた。こうした活動のなかで、地区の人々は、著者に心を開き、ダンナドンの秘儀の存在を語るようになった(本書二頁。以下、同じ)。こうして旧薩摩藩域の個性あふれる宗教民俗に関する貴重な資料が公開されることになった。
 本書の構成は、次の通りである。
 (目次省略)

 二 ダンナドン信仰
 本書がダンナドンという在地信仰を中心とするモノグラフであるので、ここでは本書に依拠してこの信仰を紹介しつつ、評者の若干の解説あるいはコメントを付していくことにする。
 ダンナドン 本書は、荒川地区と羽島地区の両地区の二一のダンナドンを紹介している(一○九頁)。ダンナドンは、山岳信仰の流れをくむ「隠れガン(神)」と呼ばれる「隠れの阿弥陀」である。ダンナドンは、テラ(寺)あるいはウチデラ(内寺)ともいわれ、葬送・滅罪儀礼、追善供養等を行う菩提寺である。本書は、「檀那殿」を当てている(一頁)。
 ダンナドンの在家の菩提寺的性格は、薩摩藩時代からの真宗講社の里寺(内寺、小寺、社頭寺などと呼称される)、テラモト・シントのテラモト、カヤカベのコイオヤに類似する。里寺・テラモト・コイは一つの宗教講であり、里寺・テラモト・コイオヤ宅には講仏が奉安され、彼らが日常的に奉仕し、また講仏前が儀礼の場である。彼らは、儀礼を主宰し、カケツケ(駆け付け)に始まる葬送儀礼を司る。こうした宗教講の形態は、中世の道場に酷似すると考えられる。近世初期においてこうした道場のほとんどは寺院化し、道場主は職業僧化したといわれる。しかし、薩摩藩領においては真宗寺院が成立しなかったし、存在した仏寺の民衆への影響も希薄であったとされる。こうした環境のもと民衆が自ら葬祭を実施する独特の宗教講が結成されていた。ダンナドンは、そうした在地の宗教講の亜種とみなされよう。
 なお、「隠れの阿弥陀」や「檀那殿」という語が信者固有のものであるか、それとも著者が選定したものか定かでない。同様の不明瞭さが本書には散見される。報告者が意向を込めて選定した語が独歩し、信者の語として理解される恐れもある。たとえば、この地域についていえば、カヤカベとか「かくれ念仏」といった語がそれである。本書は、貴重な報告であるだけに記述にあたって精細な言及が求められよう。
 象徴体系 ダンナドンに奉安されている実在は、オヤサマと称される。本書は、「御祖様」を当てている。ダンナドンという語がオヤサマを指すこともある。本書は、オヤサマを阿弥陀如来としている(一四頁)。しかし、ダンナドンをめぐる信仰には大日如来、不動明王、役行者なども現れ、多神教的である(二六八頁)。そのことは、著者が採取したトイナモンの秘密口伝の経文にもみられ、浄土教、密教、修験道、神道の影響がうかがえる(一四○頁)。ちなみに、著者は、オヤサマを示す祭神像の九例を紹介しているが、阿弥陀三尊像もあるがその数は少なく、鶴亀立像が最も多い。その他、柄鏡、円鏡、長刀の刃、宝剣、長刀、短刀、観音像がみられる(一一一―一二二頁)。
 では、ダンナドン信仰は、念仏信仰といえるであろうか。評者は、同じく習合的で多神教的なテラモト・シントの信仰活動全般を@キョウモン(経文)を暗唱し祭祀に参加する資格をもつ者の祭祀集団、A祭祀集団を取り巻く平信徒であるモントの信仰集団、Bテラモトらが担う機能で広がる@A以外の外延に区別した。もちろんテラモト・シントとしては、@が核心にあると考えられる。彼らは儀礼と精進をともに実践し、キョウモンでは念仏が唱えられる。象徴体系では浄土が強調され、阿弥陀仏が中心となる。その意味においてテラモト・シントは念仏信仰であると評者は考えている。同様のことがダンナドン信仰にも当てはまりそうである。
 宗教組織 ダンナドン信仰における宗教的階層は、トイナモンと彼らに葬祭や祈祷などを依頼する平信徒からなる。本書は、トイナモンに「年の者」を当て、平信徒を門徒と称している。トイナモンとはただ単に年寄りとか年長者を意味するだけでなく、秘密口伝の経文を完全に記憶し、葬儀などを完璧に執行する能力を持ってダンナドンを祭祀する者として集落の人々から敬意を表されている者をいう。一つのダンナドン集団にトイナモンは複数存在する。彼らは、ダンナドンの正統な継承者としてのトイナモンと、トイナモンが執行する葬送儀礼を支え、祭事に集うトイナモンに区別される。本書は、前者をトイナモン、後者を類似トイナモンと呼称する(一二頁、二○五頁)。トイナモンと類似トイナモンは、トイナモン講あるいはトイナモンノヨリカタ(トイナモンの寄り方)と称される講を恒例的に開催し、唱経の練習を行い、会食している(二二○頁)。
 類似トイナモンという語は、おそらく名辞がみあたらないなかでの著者の苦心の作であろうが、違和感を禁じ得ない。また、類似トイナモンという語は、その存在が広義のトイナモンでもないと受け止められるおそれがある。
 本書は、トイナモンたちの講をトイナモンや類似トイナモンを養成する信仰組織としているが、ダンナドン信仰におけるこの講の意義は、さらに追求されるべきではないだろうか。かつて評者は、カヤカベの葬祭を含む講儀礼や信者の精進的生活実践を浄土志向の視点から検討したことがある。それは、カヤカべの祭祀集団の相、浄土を志向する行者集団としての理解である(古賀和則「在地の浄土志向教団としてのカヤカベ」(龍谷大学社会学部創設一○周年記念事業委員会編『社会・宗教・福祉』法律文化社、一九九九、一四七―一六四頁))。そこでは諸儀礼は浄土志向というモチーフが浮かび上がる。同様の相がテラモト・シントにもみられるものと考えている。ダンナドン信仰においてはダンナドンたちの講がその相を示しているのではないだろうか。
 本書は、平石家や松崎家のダンナドンにおいて実施されている生キタモンノ供養あるいはトイナモンノユエ(トイナモンの祝い)と称される生存するトイナモンや類似トイナモンの三年忌、七年忌、一三年忌などの供養に注目している。本書は、この供養の意義について、苦難の多い唱経修行を忍耐強く継続させるために、各人の生霊を供養して、元気をつけ活性化するため、いわゆる生きた「マブイ(霊魂)」を活気づけ、奮い起こさせることが目的であるとしている(二二一―二二三頁)。
 その側面は理解できる。しかし、潜在的なものではないだろうか。故人を対象とする年忌が死霊の段階的安定化と関わるとするならば、生者を対象とする年忌は、生霊の段階的安定化と関わるものとなる。その過程は、乳幼児、子供そして大人への自然的な生長ではなく、選択的なもので特別の意味をもつ段階と考えられる。評者は、その過程を浄土を志向する聖なる過程ではないのかと考えている。加入者は、定められた実践を重ね、理想への段階を上昇する。生者の年忌供養は、一定の段階到達を祝うものではないか。本書が指摘する活気づけ機能は、養成機能と共に副次的なものではないのか。ちなみに、生者を対象とする年忌は、テラモト・シントのいくつかの講にも見られる。三三年忌を弔い上げとして家の跡継ぎにその役を譲るという講もある。
 その他、本書ではこの地域の職能者として巫女(二二三―二三六頁、二七五―二八一頁)と地神盲僧(二三六―二四五頁)をあげ、詳細に記述している。旧薩摩藩域の宗教民俗においては、彼らの活動は見逃せない。しかし、彼らのダンナドン信仰における位置づけは明らかではない。B外延集団の関心に機能的に対応するものではないか。
 宗教的行動 ダンナドンの儀礼群では葬送儀礼と年忌供養が中心を占める。葬送儀礼は、死直後のカケツケ(駆け付け)がトイナモンによってダンナドンで行われる。その後、トイナモンは、喪家に向かい、死体を柔軟にするホネナヤマカシ(骨萎やまかし)という秘儀や納棺を行い、埋葬を執行する。また、年忌供養も司り、三三年忌には弔い上げとなる(一四三―一五一頁)。
 同様の葬送儀礼の段階は、テラモト・シントやカヤカベにおいても存在するが、ホネナヤマカシに相当する過程はなお明かされることはなかった。本書の詳細な記述は、貴重な報告として特記すべきであろう。
 ダンナドン信仰の主な年中行事として正月、春祈祷、二三夜待、彼岸、六月灯、盆、ホゼ祭り、霜月祭り、煤払いが挙げられている(一五一―一六○頁)。これらの儀礼をトイナモンは司る。また、トイナモンは、臨時的に加持・祈祷を依頼されることもある。
 各儀礼には唱えるべき独特の経文がある。ダンナドンの経文は、テラモト・シントの経文に酷似している。経文はダンナドンにおいても秘密口伝であり、著者は苦心して収集し、本書の巻末に掲載している。経文は、秘密口伝という伝達もあってか、各々恣意的な解釈が重なったところもある。伝承者自身が経文の意味を理解できないところもあり、現状では内容理解が困難である。今後、これらの経文の研究が進めば、信仰の内実と発祥が明らかになる可能性もある。
 さらに、本書は、カゼタテ(風立て)の儀礼に注目する。カゼタテは、カゼタチ、「後清め」とか「不浄払い」ともいわれ、禅寺では「厄払い」といわれる死後三日ないし七日以内に行われる「新口寄せ」の儀礼である。両地区ではトイナモン、巫女、地神盲僧、山伏系の人物、禅僧、神官が登場し、二人であるいは単独で行っている(一七四―一八七頁)。
 カゼタテがダンナドン信仰に固有の領域であるか不明だが、カゼタテが信者の浄土志向と関わることは明らかである。生前の信仰と生活態度及び死後の葬送は、浄土往生の前提であり、カゼタテは、その後の往生確認への強い関心に応える儀礼とみなされる。同様のことがテラモト・シント区域におけるオザにもいえる。また、カヤカベにおけるツンノドキ(罪除き)やオンヨロコビノ(御喜びの御座)に通じる。
 なお、本書ではダンナドン信仰の生活実践についての記述は少ないが、その中でもトイナモンや類似トイナモンの肉食禁忌を指摘している。本書は、肉食禁忌の理由として俗信や浄土真宗以前の古い仏教の戒律や神道の旧習をあげている(二一九頁)。肉食禁忌は、カヤカベに顕著であるが、テラモト・シントにもみられる。評者は、前掲論文において、カヤカベにおける肉食禁忌の意味を浄土志向の象徴体系と関連づけた。ダンナドン信仰にとってどのように意味づけられるのだろうか。俗信や旧習のみで説明されるものであろうか。
 社会との関わり ダンナドンは、旧ミョウトウ(名頭)家に祀られている例が多い(七五頁)。名頭家は、薩摩藩によるカドワリ(門割)制において、門の長としてナゴ(名子)を支配し、門に関する責任を負った家である。門は、串木野では「屋敷」と呼ばれる農業経営体と混在している(八九―九○頁)。そうするとダンナドン信仰は、本来、「屋敷」を単位とし、「屋敷」の名頭家に鎮座するオヤサマを祀る信仰であったことになる(八九頁)。同時に各々のダンナドン集団は、霧島神宮代参講である霧島講の末端単位を土台としていた。この単位は、葬式組の性格をもち、さらに公的な校区公民館組織の単位でもある(七八―七九頁、八二―八三頁)。この単位組織は、「村組」という近隣結合に相当すると考えられる。そうすると個々のダンナドン信仰集団が「屋敷」、霧島講、葬式組、「村組」と重複する構図が浮かび上がる。しかし、本書においてこの関連が積極的に論じられているわけではない。
 ダンナドン信仰の由来について本書は、「廃仏毀釈以降、藩政時代に屋敷の中で政治的・経済的あるいは精神的な核となっていた名頭家にダンナドンを鎮座し、そこの当主が「トイナモン」となって、屋敷内に死者が出たときには「カケツケ」をし、葬儀を取り仕切り、「ダンナドン」の司祭をしていたことが分かってくる。」(一一一頁)としている。この判断の背景には、ダンナドンが名頭家に祀られていること、集団が「屋敷」を土台とすること、そしてダンナドン信仰の発祥が明治維新前後と推定される伝承があることによるものであろう。社会変動のなかで旧体制が揺らぐ時期に旧体制の維持と関わって秘密結社が結成されるという事例は存在する。この地域でも幕末維新期の変動期に従来の信仰が新たに展開した例として、カヤカベやテラモト・シントの山田町田中の講をあげることができる。しかし、それらの展開は、カリスマ的な人物が核となった再編成である。ダンナドン信仰は、名頭家に分散して受容されている。それは、カヤカベやテラモト・シントの例からすると再編以前の形態のように思えるが、ダンナドン勧請は、どのような経緯によるものであろうか。
 最後に、ダンナドン信仰の「かくれ」あるいは「かくし」的性格について著者は、ダンナドン信仰が教義上では「隠し」の性格をもち、明治二年の廃仏毀釈以降、「隠れ」の性格を帯びてきたのではないか。そして、隠れる必要のなくなった現在では、「疑似隠れ」の信仰の色合いを有していると解釈したいとしている(二二頁)。すなわち、廃仏毀釈以降、かくし的性格の教義が変更されてかくれの性格を帯びるに至ったと云おうとしているが、ダンナドン信仰の教義の変更の内実と経緯は定かにされてはいない。「かくれ念仏」あるいは「かくし念仏」は、宗教史上の実在でなく宗教史研究上の語である。たしかに、この語は、宗教集団の特性を記述するのに有効な場含もあろう。しかし、宗教集団のいずれの次元において捉えるのか、課題は多い。

 本書に記述されたダンナドン信仰を紹介しつつ、若干のコメントを付した。ダンナドン信仰は、秘匿されてきたし、しかも希薄化しつつある。本書は、この困難な対象についての調査報告である。評者のコメントや注文が難題であることは評者自身が認めるところである。
南九州とくに旧薩摩藩域の宗教民俗は個性的である。その実情の背景に同地域の独特の宗教制度があろう。制度的には薩摩藩時代には民衆とはいささか疎遠な寺院制度があり、明治初年に徹底した廃仏毀釈が行われ、その後に仏教寺院が進出した。この地域の独特の寺檀関係はつとに有名であるが、その実態は、制度の背後において展開してきた実に多彩で個性的な宗教民俗を基盤としている。本書は、この地域の宗教民俗の底流をなす重要な一面―葬祭をモチーフとする宗教講、後世への関心、シャマニスティックな霊術への関心、おそらく門に由来すると思われる地縁・血縁的社会組織と宗教との係わり―を明らかにしたものである。

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