横山 篤夫著『戦時下の社会−大阪の一隅から−』
評者:小山 仁示
掲載誌:部落解放研究第142号(2001.10)


 動員中学生の傷害事故

 太平洋戦争末期、私は旧制の中学生だった。三年生になると軍需工場に動員され、ロケット砲の部分品をつくった。空襲で同級生から死者を出した。自分も近く本土決戦で死ぬものと覚悟していた。担任教師からは、陸軍か海軍のいずれかを選ぶよう迫られた。一○代半ばで、死がごく近くにあった。工場動員の直前、アメリカ軍上陸に備えて紀伊半島の陣地構築に動員された。その他、貯水池掘り、防空壕掘り、大豆粕運び、稲刈り、疎開家屋の引き倒しなど、勤労奉仕といわれるものに出かけた経験もある。

 このたび、横山篤夫氏の労作を収録した『戦時下の社会』が岩田書院の「近代史研究叢書」の一冊として刊行された。内容の豊富な本書であるが、学徒動員世代の私としては、まず「旧制岸和田中学校の勤労動員の犠牲者」(第二章第三節)に敬意を表したい。二人の岸中生の命が勤労動員で失われた事実が明らかにされたのである。私は岸中卒業の諸氏に「あなた方、良かったですね。半世紀後の岸高に横山さんのような先生がおられて、級友の死亡の事例と労働災害について調査してくれて良かったですね」と声をかけたい。

 横山氏は動員先での岸中生の傷害事故調査を進める過程で、二人の死者の存在に出会った。同じような調査でも、私などは始めから死者に重点を置く。軽傷者のことなど念頭になく、無視したといってよい。

 大阪府立生野中学校二十四期生卒業三十周年記念として刊行した『朋友の碑』(一九七八年)は、爆死した同期生の鎮魂・慰霊のすぐれた書であると編集を担当した私は自負している。しかし、四人の死者と同じ防空壕にいて、命は助かった級友たちの負傷については、ほとんど問題にしなかった。私たちには、生きているのだから良いではないかとの思いがあったのである。

死者の一人の兄は生野中学の上級生でもあったが、彼は動員先で右手人指し指切断の負傷をした。そのために徴兵逃れを図ったのではないかと疑われたと憤慨していた。『朋友の碑』では、このことにほとんど触れなかった。「右手人指し指切断」にはなぜ「徴兵逃れ」の疑いがかかるのか、誰でも知っている時代だった。残酷な時代だった。その残酷な時代の視点だけでは、命に別状のない事故や病気は調査の対象から欠落する。

 陣地構築作業と動員工場の粗悪な食事(その粗悪さ加減は言語に絶した)のため、私の慢性下痢は戦後一五年間続いた。これなども記録されるべき動員被害の事例なのかも知れない。大いに考えさせられた。

 横山氏は文中に「勤労動員の体験のなかで必ず出てくる、教職員としての体験と学徒としての体験のギャップ」、「付添教員と動員された生徒のトラブル等、勤労動員は多くの岸中生と関係者の心に終生消せない傷を負わせた」と表現している。私より一時代後の横山氏が私たちの世代をよくぞここまで理解して下さったと感謝したい。
 

 少年海員の悲しい史実

 戦時中の新聞広告には興味を引かれる。なかには「最新・除倦覚醒剤」としてのヒロポン(散剤・注射剤)が堂々と広告しているのなど、現在の人たちは驚くのではなかろうか。適応症として「過度の肉体及び精神活動時」「徹宵、夜間作業、その他睡気除去を必要とする時」「各種憂鬱症」などが挙げられている。戦場でも、銃後でも、ヒロポンは必要だったのである。かつての私も、今は犯罪とされる覚醒剤を服用した経験がある。

 話はそれた。戦時中の新聞にこのような広告が見られる。「急げ、一億戦闘配置につけ、船を送れ、木造船を造れ、老も若きも造船報国に挺身応募せよ」。これは造船労働者募集の広告である。ところが船舶には乗組員が必要である。官立・私立普通海員養成所の生徒を大量に採用しなければならない。たとえば毎日新聞の一九四三年一一月一三日の朝刊掲載の広告の大要を記そう。「敵は船員をドシドシ作ってる。十月廿七日夜、大本営海軍報道部 富永少佐は其放送に『あらゆる戦力の前提条件は海運力つまり船と船員の増強にある』と叫んだ。今その船員が足らぬ、後日ではない、今だ。国家は船員に論功行賞を行う。また船員掖済援護会も出来た。満十四歳以上の青少年は直ぐにこの恩恵を受けよ。父兄指導者殊に婦人方の理解を期待す」。

 横山氏は「僅かの教育で死闘の海に送り出された青少年たち」(第二章第一節)において、泉佐野の第一短期高等海員養成所と岸和田の官立普通海員養成所の実態を明らかにされた。このうち、普通海員養成所は小学校(国民学校)高等科終了以上だから、満十四歳で応募資格がある。海軍特別年少兵、予科練、満蒙開拓青少年義勇軍、陸軍幼年学校など、そして日赤乙種救護看護婦養成に至るまで、十四歳が狙い撃ちにされたといってよい。

 いかに普通海員=下級船員とはいえ、三カ月や二カ月の訓練で一人前の船乗りが養成出来るはずはない。甲板掃除、マスト登り、石炭撒き。殴られながら雑役を覚えさせられた。

 夜になると、部屋のあちこちからすすり泣く声が聞こえた。着衣にはシラミがびっしり。岸和田で養成された少年海員は五一三九人。彼らは粗製乱造の船に乗せられ、戦場の海に投入された。ほとんどはアメリカ軍の攻撃で海に沈められた。横山氏は、辛うじて生き残った少年海員出身者を探し出し、悲しい史実を浮かび上がらせた。


 在阪朝鮮人と住宅

 「男は猪飼野、女は岸和田」といわれた。一九二一年(大正一○)以降、大阪府は全国の道府県の中で、常に朝鮮人が最も多く住む地域となった。男たちは新興工業地として中小・零細規模工場が発達した大阪市東部(現在の生野区・東成区)に多く住み着いた。これが「男は猪飼野」である。一方、若い女性たちは岸和田紡績などの低賃金労働力として導入された。これが「女は岸和田」である。

 一九二○年(大正九)、朴春琴・李起東らによって、東京で在日朝鮮人労働者の相互扶助団体として、相救会が設立された。翌二一年、前朝鮮総督府警務局長丸山鶴吉の支援を受けて、相救会は親日融和団体相愛会に改組された。以後、相愛会は在日朝鮮人の労働運動や民族運動に敵対する御用団体の役割を果たした。一九二○年代から三○年代初期にかけて、相愛会の組織は日本全国および朝鮮に拡大した。とくに西日本地方、なかでも大阪には相愛会の本部・支部を名乗る組織が多く出現した。朝鮮人が多く住んでいる大阪には、相愛会が根を下ろした。

 大阪府内の相愛会の中で最も大きかったのは、岸和田市とその周辺の朝鮮人を会員とする和泉本部(一九二三年九月設立)であった。一九三○年一○月末現在、大阪の相愛会全会員数三八八三人のうち、和泉本部は二一○○人であり、五四・一%を占めていた。和泉本部が勢力を増大したのは、岸和田紡績などの朝鮮人女性労働者の労務管理を受け持ったこと、朝鮮人にとって深刻であった住宅問題に取り組んだことなどによる。

本書では「戦前の在阪朝鮮人の住宅問題と財団法人大阪啓明会」(第四章第二節)において、朝鮮人の住宅問題が究明されている。「一九四五年以前の泉南地方の在日朝鮮人の定住と労働」(第四章第一節)と合わせて、在日朝鮮人問題研究のすぐれた業績である。

 一九三二年、相愛会和泉本部は大阪本部となり、在阪相愛会全組織を統括するようになった。そして、朝鮮人のための簡易住宅をつくったり、住宅の斡旋や管理代行を事業とした。朝鮮人女性労働者の労務管理を請け負い、同胞女性たちを残酷に取り扱った相愛会大阪本部は、朝鮮人のための住宅確保を通じて、同化政策の一端をになった。一九三七年、相愛会大阪本部は大阪啓明会と改称した。一九三九年の中央協和会成立後、各地の相愛会組織は消滅していった。それでもなお、大阪啓明会は存続し続けた。相愛会和泉本部=相愛会大阪本部=大阪啓明会は、少なくとも一九四四年段階まで存続した。このことと朝鮮人住宅問題の深刻性、重要性との関連について考えさせられる。


 陸軍佐野飛行場

 旧陸軍の佐野飛行場は全く利用されないまま終戦を迎えたと、私は思っていた。ところが、横山氏から樋野修司氏の調査により、戦時中に飛行場として機能していたことが明らかになっていると教えられた。これには驚いた。学徒出身の特攻隊員だった松浦喜一氏の『昭和は遠く』(径書房、一九九四年)に、特攻出撃の途次、佐野飛行場に立ち寄ったことが回想されている。これにも驚いた。

 「明野陸軍飛行学校佐野分教所と陸軍佐野飛行場」(第二章第二節)は、前述の「僅かの教育で死闘の海に送り出された青少年たち」の、とくに普通海員養成所の部分と並んで、本書の最も注目の部分、感動的な部分である。

 この佐野飛行場に関する研究でも、徹底的な聞き取り、気が遠くなりそうな資料収集、それらすべてについての多角的検討、そして省略がないといってよい綿密な叙述が行われている。紙面の関係でここで取り上げられなかった幾つもの労作を含めて、本書は日本現代史研究のあり方に大きな示唆を与える著作である。


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