横山 篤夫著『戦時下の社会』
評者:萩原 俊彦
掲載誌:大阪民衆史研究第49号(2001.9)

         一

 本書は一九九三年以降、九九年までの間、現代史、それも、泉州南部をフィールドに戦時社会の研究を積み重ねてきた著者が著した名著である。定年が近い著者にとっては、現場教師・兼研究者人生を総括する貴重な作品といえる。泉南の戦時社会に関して、はじめて論じられた話題も多く、出版の意義は大きい。本書の構成は以下のようである。

 (目次省略)
 はしがきでは著者は、各章の概略を紹介すると共に、戦時社会史研究に関する著者の分析視角を記している。現代史研究の成果を自虐史観と誹謗する傾向に対し、著者は、戦時体験の希薄化を防ぐため、一九八○年代から泉南で、聞き取り調査をはじめ、漸く、空襲体験の全体像を掌握出来たこと、また一五年戦争下、泉南地域社会の変貌を明らかに出来たと述べている。
 
         二 

 第一章は、一節 泉南地方の空襲 二節 一五年戦争と岸和田地車 三節 被差別部落と空襲 より構成されている。一節で著者は中村隆一郎の言葉「どこの、どんな空襲でも一冊の本にできる。なくなったどの一人をとっても、一種のドラマとなる」を引用している。最高のドラマこそ、泉南空襲の研究成果であろう。著者は空襲が非戦闘員を対象とした無差別機銃攻撃であり、国際法違反行為であったと指摘する。米国第二○航空軍の記録と大阪府警察局資料を照合し、さらに、聞き取り証言で史実を補強、確認し、正確に歴史を叙述する。緻密の上にも緻密な史料考証は著者の探求心、学問を愛する人の良心と言えよう。ささやかな史実であっても、それを確認するために、想像を絶する努力を蓄積されてきたことが本書の価値を高めてくれる。放置された朝鮮人の遺体、被差別部落の空襲、戦争犠牲者続出などの紹介は、著者の執拗さなしには語れまい。二節で著者は地域社会の伝統文化行事、地車と戦時体制について述べている。一九三二年、満州国承認の祝賀行事の際、日満国旗を掲げて地車曳行、以来、国策に協力し、戦意高揚の為に、地車曳行は認められた。戦局が険しくなると曳行禁止、だが、岸和田の民衆は地車小屋付近で太鼓を叩き祭りを守る。巡査もそれを黙認した。時に地車が出征兵士を乗せて岸和田駅まで引かれたこともある。地車に寄せる民衆の心が伝わってくる。三節は被差別部落と空襲である。著者は七月一○日の貝塚空襲を掘り起こし、当時の地方官庁資料・警察記録・米軍記録・新聞資料に加え、空襲体験者の証言を重視する。其の際、著者は『貝塚の空襲記録』『戦争と東の人々』など貝塚の市民運動で刊行された双書を参照、本書に多くそれを引用している。ゆえに、空襲の実像にせまることが出来る。特に貝塚遊郭の罹災と被差別部落の空襲の箇所で、警察資料の不正確さを指摘。遊郭は三○%を焼いたが幸い死者はなかったこと。空襲の死者の六四%、焼失家屋の五○%は被差別部落、その周辺に居住する朝鮮人多数も罹災した。底辺の民衆こそ、戦争犠牲者であると著者は確認する。また空襲の際、警察の救護活動はお涙程度、知人、親戚を頼って、民衆は救護に当たったと記し、行政当局のズサンな態度をよく現わしている。

 第二章、戦時動員と教育に移ろう。本章は、一節 僅かの教育で死闘の海に送り出された青少年たち、二節 明野飛行学校佐野分教所と陸軍佐野飛行場、三節 旧制岸和田中学校の勤労動員の犠牲者 たちで構成されている。戦時下の教育史とでも申すべきであろう。一節は、従来放置されてきた海員養成に関する研究業績である。著者は、海軍士官、下士官資格取得との関連を密に海員養成課程を紹介、逓信省の所管になる短期高等海員養成所が泉佐野に設立、従来の五年制高等商船学校を二年半に短縮、准士官に任命、高等商船学校同様に二等航海士、機関士の資格を与えたこと。しかも、この制度は戦時体制下の沈没船舶、船員の犠牲者を補強する速成教育で、海軍式の厳しい教育を徹底した。一学年定員八○名。三期生まで二四○名の殆どは戦死したと記している。一九四二年には普通船員養成所が岸和田紡績本社跡に開校、小学校高等科卒一四才の少年が全国より応募、僅か二カ月の猛訓練で海上勤務、魚雷を受けて死亡。著者は「多くの少年が海に沈んだ」「遺骨も収集出来ず沈んだまま」と記している。教育現場て同世代の生徒と共に暮らす著者の少年を悼む慟哭が伝わり、海鳴りと共に死者の望郷詩が響いてこよう。資料とて殆どなく、手探りで証言者を探し、貴重な写真資料を探し求めた著者の努力には頭が下がる。二節は佐野飛行場、飛行学校分教所に関する一文である。ただし、飛行学校の教育より、飛行場用地買収に抵抗した民衆の動き、私服憲兵を投入し、内偵をせねば土地接収をなし得なかったこと、建設作業には、強制連行された朝鮮人労働力が投入されたことなどが記されている。それに、飛行場建設で農地を奪われ、満州移民を強いられた農民は「軍事棄民」とでも称すべきか。さらに戦争末期、ここで三カ月の余命を過ごし特攻出撃した若者もいたことや、ここの主力、陸士五七期一二七人中、五三人。四一・七%が殉職したことなどが記されている。阪和線砂川駅前、旅館花房は特攻隊員の宿舎。現存するのか否か、教えて欲しかった。本節にも、多くの証言、年表、「航空勤務者養成コース」「佐野分校略年表」など多数の資料が網羅され、戦争末期に軍事施設と化した泉佐野を再現しているようだ。三節は岸和田中学校の勤労動員犠牲者に関する叙述である。著者の勤務校のことであり、創立一○○年史編集に携わった為か、詳細な校史資料を駆使し、豊富な話題を提供してくれる。本書の中核、圧巻とでも申すべきであろう。戦時下、徴兵による、軍需産業労働力の不足を補充するため、政府は一九三八年一月、軍需動員法を、同年四月一日に国家総動員法を制定、軍需産業労働力を確保する。この為、農山漁村で労働力が不足、そこで、自発的な、勤労動員体制が生まれ、学徒は軍需工場を始め、出征兵士の家などで、勤労奉仕をすることになった。既に、岸和田中学校では、一九三四年以来、落合校長の提唱で、「作業教育」を実施、師弟が相互に人格の陶冶を目指す、塾風の教育がなされていた。応召農家への奉仕作業もこの一環として始められた。

 一九四一年には大阪中等学校報告団本部の結成。労務動員の柱が出来た。以来、一九四三年六月二五日、学徒戦時動員体制確立要綱が制定され、有事即応、勤労動員の強化が決定される。中学生の修業年限一年短縮実施、二倍の兵力確保の為、徴兵年齢一年引き下げ、一九四四年四月一日から学徒勤労動員は年間を通じて実施。軍隊が学校駐屯し、学校の機能は麻痺、一九四五年三月一八日閣議は決戦教育処置要綱を発表、授業は一年間停止、志願者全員入学、同年三月二九日、四・五年生徒が一緒に卒業式、ただし、軍人学校進学者以外は六月まで、勤労動員。五月二二日、戦時教育令により、生徒を学徒隊に編成、沖縄並みの挙国一致体制となる。七月二八日、岸和田中学校義勇戦闘隊が結成される。本土決戦に備えての肉弾部隊とでもいえよう。以上の経緯を踏まえ、岸和田中学校の変貌を詳細に記している。この間、岸和旧中学生は川崎重工泉州工場、佐野飛行場などで、朝鮮人、米軍捕虜と共に勤労動員、危険な作業場で事故続発、岸和田中学生の事故死者二名が生じた。かつての岸和田中学・高校では、学徒動員中の事故なしと言われ、地域社会の住民もそう信じていた。それは、国家や企業が災害事故を「名誉の為に」隠してきた為である。著者は、そのベールを剥ぐのみか、中学生が死の床で「天皇陛下万歳」を叫び、絶命したとの史実を発見、軍国主義、国家主義教育の極致を教えて呉れる。ただこれが創作神話であることを願うのは私だけだろうか。なお、過酷な勤労動員でも、学校の取り組み、教師の姿勢で多少修正が出来たとの指摘は注目に値する。著者は女子経済専門付属高等女学校、高津中学校の例を紹介する。聖戦の美名に振り回されず、生命の尊厳を守った努力を著者は評価しているようだ。それだけに、高津中学校が東京府立五中(現小石川高校)市立一中(現九段高校)に学び、自由主義教育の実践校であったこととの関連で、勤労動員批判の動きが説明出来れば、この指摘は飛躍したであろう。

 第三章は真田山陸軍墓地に関する論文で、第一節 真田山墓地の成立と女学生、第二節 旧陸軍墓地に建設された野田村遺族会の墓碑 の二節で構成されている。最初の鎮台を大阪に設置、日本陸軍の創設である。兵学寮もでき、辛未徴兵で兵卒数千人が同地に結集、政府は、病死者、戦死者がでることを想定して真田山に墓地と祭魂社を設定。間もなく、追悼行事施設は移転、以来ここは、陸軍墓地として純化、西南戦争以来、太平洋戦争に至る戦死者を埋葬した。この付近にある清水谷高等女学校は大阪の代表校、学校行事に墓参を組み込み、賢母教育を実施、将来の軍人の妻、有名夫人の育成に励んだ。そのため、同校は養徳歴史教科書作成、忠孝日、公益日、恭倹日、義勇日には、全校で真田山墓参を実行。女学校の愛国主義教育を徹底し、注目されてきた。近年、原田敬一氏が軍人墓地研究で斬新的な成果をあげているだけに、競合関係を深めて欲しいものである。

 二節は野田村墓碑建設に関する論文である。本書に網羅された論文が、太平洋戦争期、またはそれ以前の時代を対象としたのに対し、本論のみが、戦後史に関するものである。一九四八年に野田村は「名誉の戦死者墓地」を一括、真田山に移転建立したとのこと、その経緯は不明であると述べている。従来の墓地と異なり、軍人の身分、階級に関係なく、墓碑が乱立、海軍軍人の墓碑まで建立されているのは、戦後の混乱した社会事情の表現であろう。講和条約締結以前に墓地移転がなされた事情は今後研究をされるであろう。遺族との対話が可能であれば、遺族の墓相観、靖国観、聖戦観などを学び、将来、一文を寄せて戴きたい。

 第四章 在阪朝鮮人の強制労働に移ろう。一節で著著は一九四五年以前、泉南在日朝鮮人の定住と労働を取り上げる。安価で良質な朝鮮人労働力に岸和田紡績は注目する。一九二四年、同社の男子工六一名、女子工員七二六名が朝鮮人労働者となった。労働者の待遇は冷遇され、一九三○年に有名な、岸紡争議が発生、農民組合、水平社の支援を得たが敗北した。以後、女子労働者は増加せず、男子単身労働者、家族グルミの定住労働者が増加、一九四二年には一万人の労働者が、泉南で働いた。川崎重工、飛島組、佐野飛行場建設現場など、主として軍需関係の土木建設現場で働く朝鮮人が多く、苛酷で非人間的な労働条件下で彼らは働いた。太平洋戦争が始まると、強制連行者も増え、中には中学生もいた。著者は労働現場で朝鮮人労働者のみが搾取されたのではなく、日本人の強制労働の実態も判明したと記し、異常な事態の元で、二国の民衆が共感しえた事態もあったと指摘する。特に、空襲で戦死した朝鮮人の遺骨を被差別部落の寺が預かったことなどは、民衆の連帯を示すものであろう。国際化、グローバリゼイションが話題になる今日、泉南で強制連行の掘り起こしを進める人々、地域民衆史を学ぶ市民サークル、日本人・韓国・朝鮮人が共同参加して「朝鮮人戦争犠牲者追悼岬町集会」を開催した。国際連帯・被差別共闘とでも申すべきであろう。著者は、朝鮮人虐待の残酷史に終わらせることなく、泉南地域民衆の労働者と国際連帯史を求めて研究活動を継続しているようである。ただそれだけに、この地域で働いた労働者の慰安施設は存在したのか、否か、貝塚遊郭のみで、性欲を処理したとは思えぬし、広い意味での娯楽施設の存在もきになるものである。

 二節は在阪朝鮮人の住宅問題、大阪啓明会など融和団体に関する論文である。地域改善事業に着手する以前、被差別部落の住環境は劣悪であった。その周囲などに韓国・朝鮮人は住みスラムを形成していた。一九二四年の住宅事情によれば、一畳当たりに、二・一七人が住む状態で、単身労働者はそれに耐えたであろうが、所帯をもつ移住者が増加すると、住宅問題は社会問題化した。一九二九年には在日朝鮮人労働総同盟の指導による、住宅争議が発生する。家賃の支払い能力がなく、収入に的応した住宅が保障されぬまま、群居、スラム、通称「朝鮮町」が造られた。一○家族の住居に五○家族が住む状態を改善するのは当然の要求であった。在日朝鮮人社会史で、著者ほど、住宅問題を掘り下げ、資料を収集、分析、点検した研究者はいない。著者は岸和田在住朝鮮人の証言、議会資料、行政文書、警察資料を参照し、さらには、スラムの跡地、「朝鮮町」のあった河川敷などを細かく歩き、住環境の酷さを確認している。そのうえで、住宅問題解決への動きを説明してくれる。しかし、会社の朝鮮人労務係で構成された親日融和団体、相愛会(後身、啓明会)が民族分断政策にのり、自民族の要求実現を妨害したことが、問題の解決を停滞させたと大胆に述ベ、さらに、地方行政が生活改善政策の一環として住宅問題を解決しようとしても、岸和田警察署特高・内鮮係が在日朝鮮人組織・協和会を結成。戦時体制に彼らを組み込む為、歪曲した形でしか、住宅問題は改善されなかった。和風住宅の提供は、臣民としての納税協力、勤労奉仕、朝鮮人美談すなわち現代創作神話、国歌斉唱、国旗掲揚、和服着用など民族抹殺・同化策が日々の生活の隅々にまで押し付けられたことを叙述。祖国の独立と民族の解放を求める泉南の在日朝鮮人は、しばし、慎重な抵抗と忍従の生活を強いられたのである。著者は在日朝鮮人の住宅問題を現代史研究の課題に据えた希有の人物である。日本現代史研究、特に民衆社会史研究は著者の問題提起をもって、新たな視点を与えられた。融和政策、同化政策の実態につき、これ程克明に掘り下げた文献に初めて出会った。

         三

 本論は書評として筆をとった。しかし、力量不足のゆえ、その任務を果たしたか、否か疑問である。著者はこれまでも、地域現代史に関する論文を発表、精力的な研究活動を行ってきた。精緻にして正確な実証主義の方法には感心する。とりわけ、本書は秀でた研究書である。しかも著者は視点を底辺の民衆に置いて研究を進めている。被差別部落、強制連行朝鮮人の蠢きなどを重視して地域社会史を構築してきた。ましてや、朝鮮人の住環境を研究対象に設定するなど、現代史研究者として、類いまれな問題関心の持ち主であろう。さらに、中学生の事故死、戦死した少年船員に、追悼の気持ちを滲ませるなど、教育者ならではの発想が豊かである。今後も、本書で課題とした戦時下の地域社会史を中核に据えて、多くの分野への研究に飛躍されることを期待して、結びとする。 (同志社大学人文科学研究所嘱託研究員)


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