北川直利著『ミッション・スクールとは何か―教会と学校の間』
評者・田畑邦治 掲載誌・カトリック教育研究第18号(2001.8)

 著者北川直利氏は本学会の会員であり,本書の中のいくつかのテーマについてはすでに全国大会においても発表されたことがあった。今回,氏が15年間におよぶミッション・スクールの宗教社会学研究の成果を一書にまとめて公表されたことによって,その全貌が見渡せることになった。
 著者は1978(昭和53)年から秋田市にある聖霊女子短期大学付属中・高等学校の教員であり,同時に宗教社会学の研究者である。本書が画期的な意味を持つと思われるのは,氏がこうした経歴に身をおき,同時に未信者教員という立場から,ミッション・スクールとりわけカトリック中学・高校が持つ問題点に学問的かつ対話的な姿勢で深く切り込んだことにある。本書を読んで何よりもまず感じたことは,非信者の立場にあってこれほど強い情熱を傾けてカトリック学校のもつ意義と,その中で働く教員(信者・非信者)の存在の意味を追求されてきた真摯な姿勢である。
 カトリック系の学校に勤務する人間にはすでに経験済みのことだが,現在のミッション・スクールが抱える諸問題について,教員同士では何かと話されているものの,それが愚痴や陰口のレベルで終わってしまい,建設的な方向に進んでいかず,そのために学校にはいわく言い難いよどんだ空気が蔓延するということが少なくない。その要因は,教員の意見を適切に汲み上げようとしない経営者側の問題である場合と,主体的に問題に迫ろうとしない教員側のありかたそれ自身に帰せられる場合があって,容易には判断できないが,著者は公平な目でこの問題に踏み込んでいる。
全体は,第1部「教会と学校」,第2部「カトリック学校の教職員の意識謂査」,第3部「カトリック学校の課題」となっており,それぞれが4−5章に詳説される。第1部では,昭和56年に来日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に対して,昭和天皇が,カトリック教会が日本における教育と福祉の分野で貢献していることに感謝の意を述べた,との伝聞と,のちに濱尾司教がカトリック学校の教員研修会の席上,このことに触れて,「カトリック学校がやはり教会の仕事として見られている」と述べたこと,の意味を問うところから論を起こしている。日本では一般的理解になっている「カトリック学校は教会の仕事」ということはしかし,北川氏にとって「実態とかけ離れた誤解と言っても過言ではない」(15‐16頁)。
カトリック学校が広い意味では「教会から派遣されている」としても,修道会という自立性をもった宗教法人が間に存在し,また,「学校」であるかぎり,日本の法の下にあって,その存在を保障されまた規制されている機関である。そうした無視しがたい「制度」上の問題とともに,カトリック学校で「教えられる側」(生徒)の実態として非信者が圧倒的多数(95%)であること,また,「教える側」(教職員)の構成としてほぼ3分の2が教会の外部の人間によって占められているという,教育の実質に関わる「体制」上の事実に照らしてみると,宗教を根本に据える学校の宗教教育のありようや,著者のような非信者教員の位置は根本的に問われてくるだろう。それゆえ,このような固有の問題領域が存在するミッション・スクールについての客観的な研究は,いろいろな理由から等閑視されてきた(第2章「宗教学校論の現況」)。
北川氏は第1部第4章「伝道と教育」において,改めて「ミッション」の意味を主題として詳細に探究しているが,これは本書の白眉というべき力作である。この章の初めに著者は「ミッション・スクールの教師は,植民地主義の走狗か」という刺激的な項目を立てている。過去の宣教の歴史に見られたそうした植民地主義的傾向は,現代の日本における宣教姿勢とは同一に論じられないということを認めた上で,だが著者は「植民地主義の残像」を感じざるを得ないのである。
校内の宗教行事などへ生徒を参加させる「強制力」の背後に,「宣教する側」の植民地主義・帝国主義支配を感じ取る傾向が今でも潜在的に根強くあるように思われる(43-44頁)。
 非信者教員にあっては,こうした反感を抱きながら,職業的身分としては「宣教する側」に身をおくことを「強制されている」という矛盾からくる「心理的屈折」が避けられない。そこで,「ミッション・スクールにとって緊急の課題となるのは,ミッションそれ自体が背負っている負のイメージを拭い去ることである。そのためには,教職員の心理の裡でミッションに関して屈折している部位と程度が的確に把握されなければならない。……ミッションに対して言語化されない反感が職員室に沈殿しているのならば,その情念を論理的に汲み出し,理性的に浄化することが急務となる。もし少なくない数の教職員がミッションの基本的な意義について蟠りを抱えたままでいるとすれば,その学校での宗教教育は不可能だからである」(44-45頁)。
 この著者のスタンスが第2部での意識調査への動機となり,また実を結んでいくのであるが,その前に著者は「ミッション」の新たな意味を「異教徒をキリスト教の教えに引き込むのではなく,異教の中に既に存在しているものの中からキリスト教的福音と共鳴し合うものを引き出すこと」と述べ,そうであるならば,「ミッション・スクールにおいて宗教心の涵養を目指して行われる宗教教育は,まさに現代の福音宣教の最前線という意義を帯びてくると言っても過言ではない」と結論づけている(66頁)。妥当かつ積極的な提言であると思われる。
 第2部の冒頭で著者は「ミッション・スクール」を定義して「プロテスタント系・カトリック系を問わず,キリスト教系の教会・教派・修道会を母体として設立され,主として非キリスト教地域において,何らかの宗教的使命に基づいて一般信者および非信者を対象に教育活動を行う小学校・中学校・高等学校」であると述べている(86-87頁)。このミッション・スクールは社会学的に見れば,「決して調和に満ちた静態的な場」ではなく,むしろ「キリスト教に基づく教育理念を軸に,(経営主体の法人・修道会,一般教職員,生徒,保護者などの)構成要素のそれぞれの理念・思惑・感情・利害などが様々に絡み合い,共鳴したり衝突したりしながら,緊張をはらんだ動態的な場を形成している」(92頁)。その動態的な「場」にあって,「宗教」と「社会」が接する「場」により近く位置しているのは一般教職員であるから,著者の意識調査の対象がそこに優先的に向けられたのである。
 昭和63年から平成元年に全国のカトリック学校36校において,教員を対象にして行われたアンケート方式による意識調査は,「カトリック学校における教育共同体の構成原理の探究と,その形成に向けた教育現場での研究実践」であった(99頁)。
 分析結果の詳細は第3章および第4章に詳しいが,紙幅の関係上,教職員の「宗教意識・行動」に関する調査結果から本書全体の意図に即したポイントのみに限定したい。
 アニミズム的な感覚に関する質問(32)「山川草木に霊が宿ると感じるか」において,全国調査では75%ほどの高率で「感じる」があるのに対して,カトリック学校では,キリスト教信者教師は27%,非キリスト教信者でも37%と有意の差が見られることについて,著者は「これは,日本人の平均的感受性からカトリック学校の教職員の意識がどれだけ偏位しているかを示している」とし,また「「伝統からの離反」の距離を示す指標とも見られる」と述べている(116頁)。しかし,「宗教心は大切か」という質問に対しては,全国調査よりもかなり高い数値を示しているから,「山川草木」に対する「感覚」の結果のみをもって反宗教的だとは結論できない。
 一方,質問(32)の問いに対して,非信者では「霊が宿ると感じる」者が,「感じない」者に比べて,「カトリック学校」を構成する諸要素により受容的・好意的である,という結果から,著者は「カトリック学校の「宗教教育」の質を決定する大きな要因は,日本人の中で比較的宗教意識の高い「仏教・神道的意識」の教員層をどれだけ厚くできるかという点にある」と述べている(第4章「カトリック学校の類型化」149頁)。北川氏はこの点にくり返し注意を促している。「仏教的,神道的意識」の教員層の厚い教師集団が比較的多い日本のカトリック学校においては,この非信者教師層といかに対話し,人事においても彼等をカトリック教育のパートナーとして取り組む努力と工夫が不可欠である。
 著者のこの見解が第3部「カトリック学校の課題」においてより説得力のある仕方で詳述されていく。第4章「非信者教師の意味」という本書の主題とも言うべき論考の中で述べられる次の意見は傾聴に値するものであろう。
 「要するに,非信者ならば,カトリシズムとの対話の圏内に入ってくれそうな人材を選抜することが肝心なのである。それには,(アンケート結果からも明らかなように)仏教的であれ,神道的であれ日本人として宗教意識の濃い層に属するかどうかが一つの重要な目安となる。この教員層こそが『キリスト教の文化内開花(inculturation)』に最も適した苗床であり,カトリック学校において福音宣教の成果が開花するか否かの鍵を握っているからである」(203頁,157頁も参照)。
 本書にはほかにも注目すべき見解,提言が多いが,冒頭にも述べたように,著者の姿勢は一貫して「対話的」であり,カトリック学校の課題としてかかげる最大の強調点も「対話」である(特に第3部第4章「カトリック学校における「対話」の可能性」)。著者がたびたび強調しているように,これまでのカトリック学校には「宣教」という大義の名のもとに非対話的な姿勢がみられたことは否定できない事実である。しかし,宣教は人間の宗教心に訴えるだけではなく,真理を探究する理性へのはたらきかけでもあるかぎり,本質的に相手の人格や理性への尊敬を前提するものでなければならないはずであり,したがってまた,対話的な姿勢が不可欠である。この点でも,北川氏のようなカトリック学校の将来を真剣に考えておられる教職員の発言や問題提起に対して,学校経営者や管理的立場にある者,信者教職員は真摯に耳を傾けるべきであろう。
ところで,北川氏の「宗教教育」に対する考え方は極めて肯定的かつ積極的であるが,若干つけくわえたいと思うことは,「ミッションスクール」の使命は,ただ,宗教的教育や福音宣教の理念だけを一般的な教育に折り込むことにあるのではなく,「学校法人」として,つまり日本の法制下にある学校として求められるいろいろな水準を一般の学校以上に良心的に追求することではないか,ということである。それは何がなんでも受験校を志向するということではもちろんない。たとえば,教職員に対する対話的な姿勢や雇用関係や待遇の改善,生徒ひとりひとりに対する尊敬,一般教科の教育内容や方法の充実,といったことの重視である。そうした側面での「正義」「真理」をひとつひとつ大切にすることそれ自体が,福音的な姿勢であり,「神を愛し,隣人を愛する」というキリスト教の基本的な生き方ではないかと思う。
(たばた くにはる 白百合女子大学)
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