奥野義雄著『祈願・祭祀習俗の文化史』
評者・西海賢二 掲載誌・日本民俗学226(2001.5)

 古代・中世に息づいていた人の生死にかかわる「まじない」や、まつりに関わる「まじない」を軸に、これらの習俗を流布させた担い手にも視点をあて、あわせて現行習俗にみられる「まじない」の諸相を宗教文化史から考察し、人と「まじない」が織り成す習俗文化の実態を明らかにした前著『まじない習俗の文化史』(一九九七年・岩田書院)に続いて、神仏への祈り(願い)と祭り(祀り)の習俗を、文献史料や考古資料・民俗資料を援用しながら、明らかにした本書が上梓されたことは、近年の世相を反映しての祈願・祭祀を通じ的にまとめる著作や展示が多いなかで今後の学会の共有財産になるような重厚な論文集として評価されるであろう。
 さて、前著が刊行されるのと相前後して「まじない」の諸相を陰陽道などと絡めて考察する論集が多く刊行されるにいたった、いわば奥野の著作がその火付け役になったわけである。それが
(1)中村璋八『日本陰陽道書の研究』(汲古書院・一九八五年・一九九三年再版)
(2)山下克明『平安時代の宗教文化と陰陽道』(岩田書院・一九九六年)
(3)三橋正『平安時代の信仰と宗教儀礼』(続群書類従完成会・二○○○年)
(4)山田雄司『崇徳院怨霊の研究』(思文閣出版・二○○一年)
などである。
(1)は陰陽道は、上代・中古は固より近世に至るまでのわが国の思想や文学など広い範囲に亙る文化に多大の影響を及ぼし、その残痕が現代社会にも迷信という形で存していることは周知の事実である。このようにわが国の文化・社会の中にあって重要な地位をしめていた陰陽道に対する研究は、まだ端緒の段階にあり、今後の考察を待たなければならない問題を多く存している。さらに陰陽道は、中国の陰陽五行説・讖緯思想・道教・それに仏教、とくに密教の影響を受けながら日本の古代からの民間信仰の上に成り立っている。併し、陰陽道とは何か、という概念も必ずしも明確ではない。そのためまず陰陽の中心的担い手であった安倍(土御門)・加茂(幸徳井)両家の人々の手になり、両家の人々に重用され、それらの人々に拠って伝えられてきた「陰陽道書」のうち占事略決ほか七種の陰陽道書の検討をしている。
(2)は、近年、日本史だけでなく国文学や宗教学などの分野からも注目されている陰陽道。日本の宗教文化、とくに平安時代のそれを考えるさい、陰陽道は不可欠な存在であるが、その実態は必ずしも充分に把握されていないのが現状であるとしている。そこで本書では陰陽道およびその周辺に位置する暦道・天文道や、密教の一流である宿曜道の存在を明確にするために、加茂氏や安倍氏などの陰陽師、宿曜師といった専門家に焦点をあて、その特質や貴族社会における機能の検討を通して、陰陽道の実態の解明を試みている。
(3)は平安時代の貴族の信仰と宗教儀礼に関する研究を古記録の綿密な分析を中核に据え、儀礼書・漢詩・和歌・願文・宣命・歴史物語・説話集なども用い、従来の神道史、仏教史、陰陽道史の枠を超え、当時の信仰意識や精神にせまることによって、日本宗教全体を総合的に捉えようとした。
(4)は院政期において怨霊こそ世の動きを左右する存在であったことを基礎にしつつ、怨霊が国家と密接に関わるかたちで語られ、国家を根底から突き動かす存在として意識されたとしている。これまでの日本史の方面からほとんど研究されてこなかった崇徳院怨霊を時代背景の中で位置付け、日本史上最大の怨霊とされる崇徳院怨霊が、「いつ」「誰によって」「いかなる状況下で」語られるようになったのか、そして崇徳院怨霊の跳梁を記す『保元物語』がいかにして纏め上げられていったのかを、文書・記録・物語の相互関係を細部にわたって検討することにより解明している。

 近年の研究成果の一部をあげたのは奥野の研究スタンスが何処にあるのかという問題を戦後の民俗宗教研究の再検討を考える上であえて紹介したのである。
 次に、本書の構成を(項目次)を掲げておく。
(目次省略)
 第一編の一章は前著の古代・中世の補論をなすべきものであり、かつ本書の導入部分となっている。古代における畿内の都市貴族や村人の仏教的な祭りごとは、諸文献でみる限り神祇的祭りごととともに次第に受け入れられていったことを検討している。
 二章・三章は、明治維新後の仏教抑圧と神社合祀の宗教統制下の習俗禁制、すなわち習俗への禁令発布によって生活や生業に根ざした「習俗」が明治時代以降消滅してしまったのかということを、大正時代を経て昭和期の戦前戦後に至っても種々の習俗が継承されていることを、文献史料より提示している。
 第二編では、新年を迎える行事や祖先祭祀の行事に関わる習俗は人々にとって大切なものであり、かつ「家」にとっても重用な行事習俗である。しかし行事内容には大きな変化が今日みられることを指摘し、その例として「削り花」と「左義長」を紹介しながら、その行事が他の習俗と相関性を持つことを検討している。
 また大和=奈良に地域を限定しながらも曽爾村の門僕神社と山添村の神波多神社の獅子舞を題材にして、他の祭礼にみる獅子舞の習俗伝承も事例紹介に加えつつその過程で、村落内の宮座とのかかわりによって存在してきた祭礼の獅子舞のありかた、村落に定着した時期を検討している。
 第三編では祖先祭祀の習俗として盂蘭盆をめぐる諸習俗に着目し、とくにお茶湯、客棚、初棚、生き御魂、迎え火、餓鬼棚をモノという視点だけでなく、現行習俗の伝承を踏まえながら葬家の初棚とともに葬家と濃い家で祀られる「客棚」先祖の精霊を家に迎え入れ、かつ送る「迎え火、送り火」そして健在な両親に対して祀る「生き御魂」に関する習俗から検討し、これらの諸習俗の変貌を余儀なくさせた要因として麻や麦などの畑作が重用であったことを指摘している。
 二章、三章では大和を中心とした六斎念仏を中心と、念仏講と地蔵盆における念仏講の実態を村や町の民衆の相互扶助的な要素と信仰を表現するものとして把握している。とくに地蔵盆本来の形態が一般にいわれている地蔵祭りとの結びつきで見るのではなく、念仏講との一環(年齢・階層別)として見ることの重要性を指摘している。
 第四編、五編がまさに本書の中心的課題であるまじない習俗にみられる祈願内容の民俗事象の紹介と、伝承習俗を文献からどのように読みこむかを掲げたものである。さらにこのなかでも、民俗学者がこれまで比較的手薄というか立ち入ることのなかった呪符・呪文の世界を具体的に呪文を紹介するだけでなく、呪符、呪文が、家伝として一部の宗教的職能者によって伝承されてきたことを報告しており「まじない」というものを伝承習俗としてのみ視野におくべきものではなく、歴史的結果として息づいていることを明示していることは特筆される。
 また、伝承習俗の断絶と不安では、現代社会で次第に消失しつつある習俗伝承の多くが古代、中世にあらわれ、今日まで伝承されてきているが、その中には、古代以前に現れて、古代後半から中世後半にかけて様々な習俗伝承は付加されながら伝承が形成されていくといういわば習俗の歴史的経緯の重要性を強調している。
 さらに本書の白眉は「歴史の眼を携えた伝承習俗の研究者の語り」であろう。章立て構成からすれば本来、序章に来るべきものをあえて終章にもってきているところにも本書が民俗学もっといえば戦後の民俗宗教研究の今日的課題を提示していることにもなるであろう。
 奥野は結びに「柳田國男の意識は、彼の晩年になって、皇族を含んだ日本国民を対象にした伝承習俗の調査研究が<民俗学>であることを明示し、かつ歴史学と民俗学がいずれ一つのものになることを予知して、民俗学が文化史として展望していくことを語りはじめていた。」(三五○頁)として、さらに柳田自身が平山敏治郎宛の書簡に認めたという「古記録の中から民俗学の問題をさがすのハ一つの仕事で、自分もやりたい」をもって、まとめ、かつ本書の意図すべき点であったことを掲げている。
 その点に着目して、戦後の宗教史研究、民俗宗教研究の再検討を通じて、奥野の学問的スタンスを見てみよう。戦後の民俗宗教研究の再検討は、近年宗教学の林淳によって『宗教研究』『愛知学院大学人間文化研究所報』などに度々論じられ、民俗学内部に少なからず影響していることは周知の事実であろう。林は「事情もわからないままに民俗学者の仕事を見よう見真似で真似してきた者にとっては、研究史のなかに自分を位置づけることでしか」と謙遜されでいるが、むしろ隣接する宗教学から民俗学を見ることによって、民俗宗教研究の流れを的確にいい当てている。さらに林は宗教史研究会の月例会(二○○○年十二月二十三日)で、戦後の宗教史研究、民俗宗教研究を以下のようにまとめている。
(1)日本仏教
@国立大学系印度哲学―中村元の比較論、田村芳朗の本覚思想論
A宗門大学の宗学研究
B日本史からの研究―辻善之助・家永三郎・井上光貞・笠原一男・赤松俊秀
(2)神道―東京大学神道学講座、神宮皇学館などの閉鎖―神道の民俗学・宗教学化
(3)キリスト教―キリスト教系大学(京都大学宗教学・東大西洋古典学)
(4)民俗宗教
@京都文化史学の流れ―柴田実・竹田聴洲・五来重・村山修一・高取正男
A東京教育大学の民俗学―和歌森太郎・直江広治・櫻井徳太郎・宮田登・福田アジオ
B東京大学の宗教学―原田敏明・堀一郎・宮家準
・ 仏教にも神道にも分類しがたい、民俗宗教(民間信仰)神仏習合、修験道、陰陽道などを対象化
・ 文化史の流れと東京教育大学の民俗学は、日本史学出身者による「もう一つの日本史」であった。しだいに文化史・民俗学と日本史学との分離
・民俗学の心意現象、信仰の偏重、戦後マルクス主義。歴史学の宗教無関心。

(5)民俗宗教研究と日本史学との現時点での接点をもとめる努力が必要―黒田俊雄・安丸良夫・高埜利彦の仕事
と興味深い報告であるとともに、隣接学問であるがゆえに見えてくる研究史の経緯である。さて、この林の指摘からすれば奥野のスタンスはどのような立場にあるのであろうか、(1)では宗門大学の宗教研究の流れを汲み、日本史からの研究で赤松俊秀に師事している。(2)と(3)は知見では比較的希薄であるが、(4)の民俗宗教では@の京都文化史学の流れで柴田実・竹田聴洲・五来重・高取正男・平山敏治郎らへの師事もしくは影響下にあると思われる。前著さらに本書に貫かれているのは柳田國男の影響が多大のように見えるが、その切り口には、京都文化史学の流れにあることは明白である。しかし、奥野の方法論は民俗学・歴史学・考古学・民具学がベースになっているとはいえ、民俗学を標榜するよりも、明らかに考古学をべースにその延長線上に、古代・中世を中心とした宗教文化史学の流れに、さらに民俗学による伝承習俗へと展開している。その上、方法論の最大武器は物質文化(民具)地域文化(大和)を丹念なフィールド調査によって積み上げられた諸史資料によって位置づけていることであろう。さらに勤務先の博物館展示においてすでに前著と本書に関わるテーマを何度となく研究者のみならず一般の人々に対して理解しやすく紹介してきたことを考慮すれば、奥野は一つの枠組みの中でくくれる学問体系ではなく氏独自の確立したものであり今後こうした学問体系が民俗学の一つの潮流となることが切に望まれる。ところが近年の民俗学は、この方向性を提示しているとは言いがたい。先日ある新聞記事に『文化という劇場―変容する民俗学』として「都市対地方の明治から歴史・考古学と協同ヘ」とあってそれによれば、今民俗学が変わろうとしている。いや、民俗学という学問をめぐる状況に大きな変動の波が押し寄せ対応を追られているという。変化の兆しが見え始めたのは昨秋、季刊誌『東北学』(東北芸術工科大学東北文化研究センター、作品社)を創刊した赤坂憲雄の活躍に負うところが大きい。
 二○○○年四月に出た2号の小特集は「考古学と民俗学のあいだ」であり、この春創刊の季刊誌『環』(藤原書店)でも座談会「歴史学と民俗学」に赤坂が登場している。民俗学と考古学、民俗学と歴史学、これらは元来近接した学問体系であり相互の問われるのも今に始まったことではない。とある。大井浩一と明記されているが面識もなくどのような人であるのか知るよしもないが、これが今の民俗学の現況だと一般の読者が思ったらとくに東北の歴史学者や地域史研究を標榜する人たちの意見を機会あるごとにきくにつけ本書がひときわ光彩をはなって見えてくるのは私だけであろうか。
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