門馬幸夫著 『差別と穢れの宗教研究』
評者・望月哲也 掲載紙(宗教と社会5 99.6 )

本書は、差別戒名や部落差別の問題に実践的にも深く関わり、かつ宗教社会学者としてそこに研究上の一貫した問題関心を持ち続けてきた著者が、主としてこの10 年ほどの間にさまざまな場で発表した諸論考を収録して一書となしたものであり、4 部15 章で構成されている。形式としては論文形式のもの以外に講演形式のものも含まれ、また、初出の掲載誌も一般の宗教研究者の目に触れにくいものがかなりあり、その意味で、それらがこのように一書にまとめられたことは、宗教と差別・穢れの問題に関心を持つ多くの研究者や学生にとってまさに稗益するところ大であるといってよい。
「T 宗教と差別」を構成する5 つの章においては、仏教の救済の論理が差別イデオロギーとして現象してきた実態を主たる事例にとりつつ、宗教と差別についての一般的理論的考察が展開されている。「U 穢れ」の4 つの章では、民俗宗教や仏教の「穢れ」の観念が取り上げられ、その理論的検討とともに、穢れと部落差別との関わりが中心的な考察の対象としてとりあげられる。「V 差別戒名」は、差別戒名の実態・諸相・歴史の考察にあてられた3 つの章から成っている.最後の「W 被差別民と民俗」の3 つの章は、被差別部落に対する柳田国男の眼差しの変化にスポットをあてた論考と、被差別部落についての2 つのモノグラフで成り立っている。大略として、理論的考察から個別的実証的考察へという流れで全体が構成されていると見てよい。一書としてはまっとうな構成といえよう。しかし巻末の初出一覧を見ると、後半の第V部・第W部所収の諸論考は1987 年から1989 年までの間に発表され、前半の第T部・第U部の諸論考は一つをのぞいて1990 年以降に発表されたものとなっている。一書としての構成とは逆に、著者が当初は差別戒名や被差別部落の問題から出発しつつ、次第に差別や穢れ一般にその関心の射程を広げてきた様子がうかがえる。その意味では「まえがき」にもあるように、日本社会特有の差別としての部落差別の問題、なかんずく差別戒名問題への取り組み、それに対する驚きと憤りが研究者としての著者のあくまで原点を形づくっている。そのうえで、一方ではさらに障害者差別や女性差別にも目を広げ、他方ではそのような差別現象をいったいどう説明するのかという一点に収斂させつつ、さまざまな宗教理論を検討の俎上にのせていくわけであるが、原点が確固たるものであるだけに、そうした著者の歩みはきわめて確信にあふれており、その筆鋒も追カに満ちたものとなっている。
とりわけ本書の最大の特徴をなしていると思われるのは、差別戒名問題にその一端が現われているところの、救済宗教としての仏教が差別現象に深く関わっていることへの容赦なき認識である。俎上にのせられる仏教思想は、業思想や本覚思想のような世界観から、『法華経』、『善悪因果経』、「因果和讃」、「石女地獄和讃」、「血盆経和讃」、「女人往生和讃」といった経典や和讃、さらには曹洞宗の通俗的説教書や切紙の類にまでわたっている。救済の論理はその前提として罪業や穢れの観念をともなうだけに、時と場合によって強力な差別イデオロギーとして機能するということが、多くの頁にわたって生々しくかつ鋭く抉り出されている。本書の圧巻の部分をなすといってよい。
こうして差別戒名の問題から「救済宗教と差別」というより一般的な問題地平へと歩を進めることをとおして、著者は、アジア社会に広く見られる差別現象を、アジア・日本の民俗宗教や民族宗教の基底にある「浄」「不浄」観の文化の上に、仏教などの救済思想がそれを増幅・固定化する差別イデオロギーとして働いてそうなったものという(横井清氏などにその先駆が見られる)歴史認識を説得的に打ち出すとともに、「救済宗教と家父長制」という近年のフェミニズム的宗教研究が開拓した問題地平と通底する地点にも到達している。こうした著者の歩みに対して、評者は満腔の敬意と共感の念を表明するものである。見事というほかはない。そのうえで、著者の思索のさらなる発展を希望する立場から、以下ではいくつかの気になった点を箇条書き的に記すことによって、評者としての責めを果たしたいと思う。
(l)前述したように、著者は差別現象をいったいどう説明するのかという一点に収斂させつつ、さまざまの宗教理論を検討の俎上にのせているが、その一環として日本民俗学や人類学における「穢れ」理論をとり上げている。そして、それらについては結局、価値中立的でスタティックな分析にとどまっており、差別を解明するというよりも、結果的には差別を温存する理論になっていると断ずる。しかし著者自身も了解しているように、穢れが差別と結びつくのは、国家と文明の成立過程における聖と穢れの分化(三橋修氏や竹内芳郎氏の所説)、さらには救済宗教によるその増幅と固定化によるのだとすれば、なおさらに、差別イデオロギー化する以前の穢れ観念の原初的意味は何だったのかということが、それ自体として探求の課題となるはずである。民俗学や人類学の「穢れ」諸理論が焦点に据えようとしていたのは、まさに穢れ観念のそのような側面ではなかったのだろうか。穢れはおそらく原初的には〈秩序〉が〈境界〉に出会う場所であり、〈ノモス〉が〈カオス〉に出会う場所として、神話的意識にはとらえられていたはずである。日本の民俗における死穢・産穢・血穢の原初的シンボリズム もおそらくそれだったのではないか。だとすれば、そこには〈秩序〉を相対化する想像力が存在していたのだともいえよう。差別を説明できるかできないかということだけで一刀両断するのは、いささか早計かと思われる。
(2)前述したように、著者が当初は部落差別や差別戒名の問題から出発しつつ、次第に差別や穢れ一般にその関心の射程を拡大させてきたその知的努力に対して、評者は全面的に敬意を払うものであるが、そうした歩みは、その一般化された枠組のなかで再度、部落差別や差別戒名の問題の個別的位置づけをはかるという相補的作業をともなうことによって、より十全のものとなるはずである。著者自身も、性差別、部落差別、在日韓国・朝鮮人問題、障害者差別といったそれぞれの差別に通底する「普遍性」と、その現出のされ方の「個別性」を区分けしつつ、現象のより明晰な分析や比較研究を蓄積していくことの必要性を指摘している(19 頁)。だとすると、被差別部落問題の発生にはとくに近世的村落共同体の成立過程(荘園制から郷村制へ)が深く関わっているはずであるが、著者の分析は、仏教思想の果たしたイデオロギー作用を強調するあまりか、そうした下部構造的側面には十分な目配りがなされていないように思われる。『差別と穢れの宗教研究』というタイトルではあるが、歴史的特殊性の析出のうえでは、社会経済史的側面からのアプローチも不可欠なのではなかろうか。
(3)アジアや日本の「浄」「不浄」文化の上に、仏教などの救済思想がそれを増幅・固定化する差別イデオロギーとして働いていくメカニズムを説明するうえで、著者はインドのカースト制度研究の知見などからえられた「一時的・個人的な穢れ」と「永続的・集団的穢れ」という考え方を導入している。日本の民俗社会における死穢・産穢・血穢などは一時的な穢れであり、一定の手続きによって祓い・浄化が可能であるのに対して、仏教の業や因果の思想は、現在の被差別的境遇や姿形をすべて過去世の罪業の結果であると説くことによって、それらを永続化する作用を果たしてきたというわけである。ところが他方、著者自身、道元の「業」論に言及しつつ指摘しているように、鎌倉期の宗教者たちの救済思想においては(浄土系のそれを含めて)、他者や客体のなかに個別的穢れを見る意識から、自己自身の実存のなかに普遍的な不浄や悪業を凝視しそれを主体的に自覚することへの転換が、重要な契機をなしていた。この点は、横井清氏の所説に対する池見澄隆氏の批判でも中心的論点をなしていたものであるが、だとすると、救済宗教による民俗宗教の「穢れ」「不浄」観の引照・再解釈には、相 互にパラドキシカルな二つの契機が存在していたということになる。一方は「一時的な穢れ」観から「永続的な穢れ」観へという契機、他方は「客体的不浄」観から「主体的不浄」観へという契機である。
この二つの契機はどのように関係づけられるのであろうか。ことは救済宗教の歴史的性格をどう捉えるかということに関わってくるだろう。このパラドクスを救済宗教の歴史的本質に属するものと見るか(評者自身はこの見方に傾いているが)、それとも前者の契機を後者の通俗化された形と見て、分離可能のものと捉えるのか。著者の鋭い考察をさらに望むところである。
(4)以上のような分析を進めていくうえで、著者は社会学の機能論的用語でこれを説明するということをも試みている。その場合、主としてマートンに依拠しつつ上述のような差別イデオロギーとしての側面を、宗教の統合機能に対する「逆機能」として位置づけようとしている。
評者自身は機能論的用語を用いることにはあまり賛成ではないのだが、仮に用いるとしても、統合機能に対する逆機能をいうのであれば、論理的には非統合的機能、分裂や葛藤を作り出す機能、秩序への挑戦機能などがその内容となるはずである。これに対して差別イデオロギーとしての作用は、「秩序維持」の機能そのものではないのだろうか。もしそれを「逆機能」として位置づけようとするのであれば、統合機能とは別次元の、例えば「救い(ないし癒し)の機能」を概念として立てたうえで、それに対する逆機能をいう方が論理的には一貫するであろう。社会の秩序維持と人間の救済の両方に関わる存在としての宗教(しかもこの両機能はしばしば逆のベクトルを示すことがある)に機能主義的アプローチを試みるにあたっては、少なくともその機能論的用語は一次元的であることはできないはずである。
しかし最後に、このような啓発されるところの大きい本書が、差別研究という分野を超えて広く宗教研究に重要な一石を投ずるものであることは確かであり、その意味でひとりでも多くの研究者や学生に読まれることを望みたい。少々値が張るのが残念ではあるけれども。(立正大学教授)
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