笹本 正治著『山に生きる
掲載紙:山梨日日新聞(2001.8.29)


 山村学の確立めざす
 <消えゆく文化に焦点―民衆主役の歴史叙述>


 山梨は総面積の八割以上を山間地で占める。戦後、山梨に限らず山村には過疎化の波が押し寄せた。林業の衰退とともに、多くの山林が荒廃した。自然保護の観点から山の重要性や有効活用があらためて見直されることは多い。だが山に住む人々の生活や歴史、文化を顧みようとする機会は、政治や経済の主な舞台となる平野部に比して少なく、歴史学は平地中心の研究がいまだ主流である。

 信州大教授の笹本正治さんは一九五一年、甲府市北部の山間部、敷島町神戸(ごうど)に生まれ、育った。笹本さんにとって故郷の山は学問の出発点。山村の過疎化と山の荒廃は笹本さんが身近に直視してきた実感である。

 笹本さんは、顧みられない山村生活や、社会とのかかわりを歴史学と民俗学の二領域から追求。師の網野善彦さん(御坂町出身、山梨県史編さん専門委員)と同様、農業仲心の歴史叙述に疑問を抱き、自らのテリトリーである学問世界の中で"山村の復権"を目指している。


 祖先の労苦たどる

 最新刊の「山に生きる―山村史の多様性を求めて」には、四半世紀にわたって山村の多様性を掘り起こした笹本さんの代表的な講演・論文十四が収められた。江戸時代後期に自らの故郷の斜面をぬってつくられた「神戸堰(せぎ)」を現地踏査と古文書解読を行いながら、難工事を進めた祖先の労苦を実証的に再検討した書き下ろし論文なども所収された。

 本著の中で、笹本さんは、平地中心の歴史学や考古学、水田中心史観で叙述される歴史に対して、おざなりにされてきた山村や漁村など平地周縁へ目を向ける多様な研究視点の重要性を繰り返し述べている。「木を伐る仕事」のみでとらえられてしまう林業の一元的理解を改め、その多様性を歴史文脈の中に明らかにした。

 山には、中世・近世を中心に近代以前まで、キノコや堅果類、山菜など豊かな林産物、曲物や漆器など林産加工品などに支えられた非農業民や商人が集住、他国からも多くの商人が入り込む交通の要所も多かった。そこでは、林産物との現金取引が行われ、貨幣経済の流通拠点でもあった。

 金峰山を中心とする「御岳」の山岳部には町が開け、富士北ろくには富士参詣にかかわる人々が集まり、それぞれが「宗教都市」を形成。黒川、湯之奥をはじめ金山のふもとには金山町が栄えた。

 これらは過疎化が進み、さびれた現在の「山村」のイメージにはほど遠い「繁栄した都市」だった。笹本さんは、かつて総合歴史雑誌「信濃」で、富士吉田が中世に水田を持った平地の町ではなく、富士参詣の基地として栄えた自治都市だっだことを指摘。「非農業社会」の中に存在する都市機造を解明したこともある。


「英雄史観」に疑問

 従来、金山は武田氏が開発、勢力伸長の具とした、ととらえられてきた。しかし、笹本さんは、金山町は各地域で独自に発展してきたもので、武田はこれを利用したに過ぎないことを論証。金山を武田中心の英雄論的な歴史学の傍証資料とする方向性に見直しを迫り、金山衆の自立性に主眼を置く視点を示した。

 山深い「九一色郷」に住んだ「九一色衆」は、富士山ろくの豊富な林産資源をもとにした材木伐採、駿河と甲斐を結ぶ物資流通、国境警備などを担った。信玄や家康はこうした「九一色郷」の産業面、流通面での拠点的性格を重視、さまざまな税金の免除を「九一色衆」に対して行い優遇した。

 金山衆や九一色衆の研究はいずれも「歴史は民衆が主役である」という笹本さんの持論を裏付ける作業でもある。笹本さんは機会あるたびにこう言う。「歴史は一人の英雄がつくるわけではない。一人一人の名もなき個人がつくっていく。逆に、足元の歴史をたどっていく。すると『私とは何か』という問いに対する答えが見えてくる」(中)


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