森田清美著『ダンナドン信仰』
掲載紙・南日本新聞(2001.9.20)

 
<「ダンナドン信仰」に見る儀礼―呪術に南東と共通性 修験道と念仏が混合>
 今から百年ほど前、宗教施設がない隔絶されたへき遠の地で死者が出た場合の葬儀や供養はどうしたのだろう。彼岸やお盆、農耕・建築儀礼はだれが取り仕切ったのか。さつま山伏など鹿児島の民俗を研究する森田清美さん(62)=鹿児島実高教論=が、串木野市荒川・羽島地区の調査を基に「ダンナドン信仰」を出版した。地域の有力者や巫女、盲僧らを中心にした民俗宗教は、トカラや奄美など南島との共通性も浮き彫りにする。

 ダンナドンは内寺などをもつ家で、葬儀や供養のぼだい寺となる。そこで儀礼を司祭するのがトイナモン(年の者)。死者が出ると駆け付け、お経を唱える。硬直した死体を柔らかくするホネナヤマカシ(骨萎やまかし)という呪術(じゅじゅつ)も使う。巫女や盲僧は、遺族や集落民に死霊の災厄が及ばないように、カゼタテ(風立て)という滅罪の儀式を行う。
 藩政期に浄土真宗系の隠れ念仏(禁制の一向宗)を信仰した鹿児島で、禅宗が盛んだったという荒川・羽島地区。だが一八六九(明治二)年の廃仏棄釈で禅寺が打ち壊され、羽島では九四年まで四半世紀もぼだい寺がなかったらしい。この間に伝播(でんぱ)したとされるのがダンナドン信仰だ。
 森田さんは「禅宗系のお寺が再建されるのは廃仏棄釈から約三十年後。死者があっでも一般民衆は僧りょを頼む経済的な余裕がなかった。そこにダンナドンが生まれる素地があったのでは」とみる。
 経文が似ていることから、伝播ルートの一つに霧島山ろくの在来宗教カヤカべを挙げる。それを伝えたのが「串木野夫」や「串木野仕明人(あしけにん)」と呼ばれた人々。藩政時代から農閑期に県内外の田畑造成や道路工事などの土木作業に携わり、文化の伝播者でもあったという推定だ。
荒川・羽島の調査は、串木野高在任時に荒川に住み、六年に及んだ。強く感じたのは「日本人の死霊に対する古来からの恐怖感」だった。「一般的に死者は不浄とされる。その中心に死霊への恐れがあった」
ダンナドン信仰では、死者が出るとすぐトイナモンの駆け付けがある。お経を唱え、納棺しやすいようにホネナヤマカシを行っておん霊を慰め、この世への未練を断ち切る。巫女や盲僧のカゼタテで死霊の不浄をはらう。年忌や盆、彼岸で供養を重ねると、怖かった死霊が家々の先祖霊化し、守護霊になっていく。呪術の修験道的な部分と念仏信仰が混合した教義ゆえ、隠れ念仏のような秘儀性をもつ。だが、一向宗のように弾圧された形跡はない。
 森田さんは住民たちが「マブイ(霊魂)」という奄美・沖縄方言を日常的に使うことや、巫女や盲僧が死霊を呼び出しで語る口寄せのトカラ・奄美の巫者(ふしゃ)との類似性に注目する。「海を介しての交流の結果だろうか、マブイという言葉は南九州でも生きている。巫女たちの口寄せは奄美などのマブリワカシ(霊魂別かし)が基底にあるのでは」
 ダンナドン信仰は一九六○年代以降の高度成長期を経て衰退の一途らしい。過疎・高齢化に、科学思考の発達で俗信を排除する風潮が追い打ちをかける。森田さんは「ダンナドン信仰は廃れても、祖霊や高齢者、親を敬い、仲間を大事にする信仰の核の部分は、まだこの地域に根強く残っている」と語った。

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