池田 昭著『ヴェーバーの日本近代化論と宗教―宗教と政治の視座から―』
評者:笠谷 和比古
掲載誌:歴史学研究754(2001.10)


 宗教社会学の第一人者である池田昭氏の,マックス・ヴェーバーの日本近代化論をめぐる諸考察をまとめた論集である。本書の構成について言うならば,第二部の第二章でヴェーバーの宗教社会学的な諸著作から得られる前近代日本の宗教像の基本を述ベ,同第三章では戦前の「ひとのみち教団」の宗教活動をとおして近代日本社会における民衆の宗教思想像を分析し,同第一章でこれらを踏まえて日本社会の近代化を中国・インドとの比較の中で概観している。そして本書第一部の六つの章は,この第二部第一章の議論をより一層深めつつ,琉球・奄美の社会分析をも取り入れて敷衍したものである。

 さて,著者は序論の問題提起において,次のようにその基本的視座を設定する。すなわちヴェーバーは歴史的社会的現象を分析するにあたって,宗教および政治の領域における社会的行為の動機の観点からその理解を試みたとして,当該社会に見られる政治権力と宗教的権力との関係性の中に第一義的な重要性を認めるのである。そしてその両者の関係は以下のような三類型をもって表現されるとする。

 一つは,政治権力が宗教権力を掌握し,自己の権力の一時的な発展の基礎として自己の軍事的カリスマを置いている場合。二つには,政治権力が宗教権力を掌握しているが,しかし第一の場合とは異なって宗教権力の平和主義的カリスマをその権力の発展の基礎としている場合。三つ目は,宗教権力と政治権力とが相互に独立し,それぞれの権力が自己のカリスマに基づいているような場合である。

 著者はこのような分析枠組みを用いて,ヴェーバーの日本社会の文化的発展,ことには日本社会の近代化に関する所論を検討していく。すなわち日本近代化と日本の宗教との関係に焦点を合わせた第一部第一章では,ヴェーバーが日本の近代化に適合的な宗教をどのように捉えていたかをめぐる既往の研究を批判的に吟味したうえで,著者はヴェーバーの『ヒンドウー教と仏教』の所説を根拠として次のように述べる。

 日本では貴族教養階層も一般民衆も,種々な神・仏・救難聖人を機能に応じ時宜にかなう形で利用し,習合できる宗教意識をもっていて,インドのヒンドウー教におけるような教権主義的な祭司階層も中国のような儒教主義的官僚階層もこの社会では支配的な力を有することができず,そのことが外国から完成された資本主義を導入するに際して適合的に作用した,と。著者はさらに,このような習合能力を備えた宗教として,古代ギリシアのエレウシス密儀に比する性格を有する神道をヴェーバーは考慮していたと指摘するのである。

 宗教権力と政治権力との関係性に関する如上の三類型では,日本社会は明らかにその第三の形,すなわち双頭性の権力形態を有していたのであるが,しかしそれはインドのように両権力がそれぞれ独立している二元性とは異なり,日本では両者は独特の関係をもって相互依存的に存在している点が指摘される(第二部第一章124頁)。

 天皇と将軍との関係を論じた第二章では,著者はヴェーバーの天皇論を否定したうえで,天皇は将軍に宗教的に奉仕する存在であって君主などではなく,それゆえに徳川幕藩体制は将軍の政治権力・宗教権威によって強力に支配することができたとする。そして著者は,ヴェーバーが正しく主張しているように,日本においては封建制の発展が「国民的」共同体意識の萌芽をもたらすこととなり,家産官僚の強固な儒教文化が支配的であった中国とも,また多くの生き神のグル崇拝をともなうヒンドウー教の儀礼文化が分立するインドとも異なって,統一的な近代国民国家がいち早く形成されえたと評価するのである。

 さらにまた日本では,将軍のみならず大名(藩の長),代官(農民撫育の執行者)および村落共同体の長である庄屋が救済者宗教意識によって崇拝されることで個人カリスマもしくは世襲カリスマを有することで,これらの行政単位がそれぞれ自律性をもち,封建的機構が柔軟性をもっていたことが,倒幕と明治維新をもたらしえた基本的な要因であったこと。そして幕藩体制下の武士のエートスは武士道であって,儒教でも仏教でもなかったこと。そこでは名誉感情を基本としつつ,戦士の態度にふさわしく状況の変化に対して臨機応変に行動したのであり,中国の普遍的な「天」の儒教的規範とは異なり,神道の「時・処・位」の原理の方がより強く作用していたこと,これらが日本社会の近代化にとって適合的であったという点が指摘される。

 この問題はさらに幕藩制下の「従士的封建制」の特質を論じた第六章において詳述される。ヨーロッパ中世のレーエン封建制に対して,幕藩制における主従関係の政治システムは「強度の騎士的ピエテート感情」を基礎としプフリュンデ取得によって特徴づけられる「従士的封建制」としてウェーバーは規定しているとする。著者は,騎士的ピエテートとは契約の点で「目的契約」ではなく,「身分契約」の支配する「仲間」の忠誠感情に他ならなかったが,他面では将軍は大名に対して,大名は家臣に対して権力優位の特徴をもちつつも,そこには「解約可能の,固定した契約的法関係」があり,一種の目的合理性と個人主義的な性格が存在したこと。

 そして「仲間」集団における忠誠感情は,藩という集団を維持させようとする功利的現世主義を志向することから,時として当該秩序を逸脱する暴君を「押込」に処するという自律的な抵抗行動にでることもあった。すなわち体制の維持のための積極的な忠誠のエートスが,「変革」の精神を導き出すという逆説が作用することとなるのであり,幕末・維新期において薩長の中堅層の武士が倒幕運動に動いたのも,この忠誠のエートスによっていたものという認識が示されるのである。

 日本社会の近代化をめぐるヴェーバーの所説と,それを整序し体系化して論じた著者の見解は大要以上のとおりである。戦後より近年にいたる宗教学・民俗学・社会学・歴史学の研究成果を広く取り入れつつ,ヴェーバーの概念および理論枠組みをもって首尾一貫した形で日本社会の近代化の特質を論究した著者の功績は高く評価されるべきであると考える。

 そのことを確認したうえでのことであるが,評者が気になった点を少し立ち入って吟味してみたい。それは他ならぬ徳川幕藩体制における天皇と将軍との関係をめぐる問題であり,これに関する議論は第一部第二章から第五章におよび,実に本書の半分近くを占める重要な部分をなしている。

 天皇は政治的には無力であるが神の化身として神政政治の元首であり,そしてその自立的カリスマの弱さゆえに,天皇は真の支配者である宮宰=将軍によって支持されねばならなかった。他方,将軍は世襲的な軍事的カリスマを有するものの,それだけでは自己の権力の唯一の発展の基礎とはなし得なかったがゆえに,政治的権力としては無力であるが宗教権力としての君主である天皇の政権委任が必要であったとするのがヴェーバーの見解であるとされる。

 しかしながら著者は,すなわちヴェーバーが天皇をもって宗教権力を基礎とする君主であり,将軍をもって天皇に仕える最高の家臣としての宮宰と見なしたのは誤りであるとするのである。

 日光東照宮に神として祀られた家康,およびその末裔たる代々の徳川将軍は宗教的カリスマを軍事的カリスマ=武威とともにあわせもっており,ここでは現世利益の観点から武威が宗教権威として立ち現れることとなっている。天皇は君主などではなく,そのような将軍に対して下位にある存在であり,将軍に奉仕する存在であるというのである。

 江戸城中において執り行われる将軍宣下の儀式では,将軍は大広間上段に終始着座して,天皇の勅使はその下座(中段の間の左方)に位置する。すなわち,ここでは任命権者が被任命者に従属しているという姿が示されることになるのであるが,著者はこれこそ日本社会に広く見られる宗教権力と政治権力との特殊な関係の表現の一つと指摘する。

 この将軍宣下の儀式においては,陰陽道の土御門氏が将軍の身体に対して加持祈祷を施し,将軍の身が清められたのち使者のひとり告使が庭前に出て将軍成りを声高に宣するのであるが,著者によれば,この行為は将軍に言霊というマナを付与する儀礼として捉えることができるとする。これすなわち,シャーマニズムの儀礼に基礎づけられた王権神授の日本的特質の謂に他ならないとされるのである。

 宗教権力と政治権力とのこのような関係は,本書第三章の琉球王国における国王と聞得大君との関係の問題として展開され,かつそれによって裏づけられる。国王の后にして神女組織の頂点に位置する聞得大君は「天女の子」の血統を受け継ぐ者として聖化され,その宗教的権威に基づいて国王に対してマナ=セジを与える。国王の政治的権威はこれによって宗教的に正当化されることとなるのである。

 このような関係性は日本の村落における宗教と政治の関係を分析した第四章において,より一般化した形で論ぜられる。「宮座」を中心に共同体の秩序が構成される日本の伝統的村落は,ヴェーバーのいう伝統的支配の第一的類型としての長老制として把握をされ,そこでは村落の政治は最長老にして宮座の座順の最上席者によって差配される。しかし京都八瀬の事例では,これと別に村民の中から輪番で選ばれる神主,一年神主があって,彼は年の始めの儀式において村落長老に餅を与えてマナを授ける。このマナの授与は,ときに憑依によるエクスタシー的状態のもとでなされ(第五章100頁),村落共同体の首長=政治的指導者は,このような一代神主を通して神意と霊威を伝達されることで宗教的な次元での正当性を獲得していくと指摘されるのである。

 天皇と将軍との関係性の問題を,このように民俗学・宗教社会学の視点から総合的に把握するという試みはかつて見られなかったところであり,今後ともにこのような分析視角をもって当該方面の研究が進められるべきかと思う。たしかに天皇の存在とその機能性については,このような村落共同体における宗教権力のそれとの相同性の観点において充分に考慮されるべきであろうが,しかし他方,天皇という存在はそれだけにとどまらない,独自の政治的・宗教的性格を有している点もまた見逃されてはならない。

 徳川将軍が天皇に対して,礼的秩序のレベルでも優位に立つ存在であったと認定するのは最近の歴史学界の潮流になっているかにも見えるのであるが,ことに江戸城中における将軍宣下の形態の分析に基づく渡辺浩氏らの議論を,著者は援用して如上の議論を展開しているのである。

 しかしながらこの議論は重要なものであるだけに,その誤りを明確に指摘しておく必要があるであろう。天皇の勅使が将軍任官の宣旨を持参して将軍の居所に赴き,これを伝達するというのは,本来的には将軍宣下の儀式の一部でしかない。その続きが,この種の議論では見落とされているのである。

 すなわち任官宣旨を受領した将軍は,それより衣服を改め行装を整えて御所に参内し,天皇に拝謁して将軍任官の御礼を行うというのが本来の形なのである。これを「任官拝賀の儀式」と称し,将軍は天皇から三献の天盃を賜り,これをもって将軍任官の儀式が滞り無く完了するのである。

 これまでの研究では,将軍居所に勅使が赴いて宣旨を伝達する局面だけに目がむけられてきたことからこのような誤認を犯すことともなったのであるが,将軍任官拝賀の儀式次第を検討するならば,上記のごとき議論が成り立ちうべくもないことは明白なのである。なおこの問題については,評者の近著『関ケ原合戦と近世の国制』(思文閤出版,2000年)の最終章で詳述しているので参看いただければ幸いである。

 家康・秀忠・家光と初期三代にわたって行われてきた任官拝賀の儀式も,四代将軍家綱が病弱で上洛の機会がなく,江戸城に勅使を迎えて宣旨を伝達するという将軍任官儀式の前半だけに省略されてしまったことから,先のような誤認を生じることともなったのである。

 天皇と将軍との関係を琉球国の聞得大君と国王とのそれに比定することは,宗教的なある側面については正しくとも,政治的な問題を含む全体的な観点からするならば妥当とは言い難い。聞得大君はあくまで国王の后という立場であるのに対して,徳川将軍は従一位ないし正二位という天皇の臣下としての位階を有する存在なのである。このような臣下の位階の保有を明示した存在が,身分関係ないし礼的秩序において天皇より上位にあるという論定は根本的に成り立ちえないのである。

 位階という点で言うならば宗教的問題についても,やはり同様に自家撞着に陥ることを免れ得ないであろう。本書では曽根原理氏,菅原信海氏らの所説を引きつつ,日光の東照権現をもって,単に関東八州にとどまることなく,日本全土に威光を及ぼす最高神としてあったという認識が示されている。

 しかしここでも,日光の東照権現は正一位という神階を朝廷より授与されている存在であるという事実が想起されなければならない。それは朝廷の祖神たる伊勢の天照大神とは決して対等であるのではなく,神格においてあくまでその臣下であり,ただ臣下の中にあって最上であるというに過ぎないのである。

 前近代社会において身分秩序を決定する第一原理として作用しているのは,朝廷の定める位階制度なのであり,徳川将軍もまたこの朝廷位階制度を受容し,臣下としての位階およぴ臣下の神階を受理したことによって,政治的実力はともあれ,自らが天皇の臣下であることを内外に明示することとなる。また実際にも,どのような機会にであれ天皇と対面するときには,いささかの例外もなく臣下として恭敬の態度を取り続けたのである。

 徳川時代における天皇と将軍との関係について,いささか立ち入って評者の見解を述べた。評者の観点からするならば,本書における両者の政治的関係性の論定には批判的にならざるを得ないのであるが,しかしながら新将軍に対して,天皇が宗教カリスマとしての立場においてマナ=神力を授けるという宗教的機能については,評者は本書の見解に賛意を示すのに躊躇するところはない。それらの議論はそのほとんどが首肯されるものと考えている。

 このような天皇制の政治的権能をめぐる認識の若干の是正は,宗教学・民俗学・社会学・歴史学の研究成果をはば広く取り入れ,統合的な視野のもとに日本社会の近代化のあり方を追究した本書の価値を決して損なうものではない。そのことを改めて強調して,この拙い書評を閉じることとしたい。


*本書評に対しては、池田氏の以下の反論がある。
『歴史学研究』769(2002.11)「笠谷和比古氏の書評に答える」


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