立花京子著『信長権力と朝廷』
掲載紙・朝日新聞(夕刊)2001.9.14

 史料に基づく「謀議説」相次ぐ 歴史小説も敏感に反応
「本能寺の変」は偶発的か、計画的か−天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が織田信長を討った事件は日本史のなぞだが、朝廷や足利義昭の関与を説く新説が現れ、研究書や謀議説を踏まえた小説の刊行が相次いでいる。いま歴史学と歴史小説のダイナミズムが面白い。
 変の原因には江戸初期から諸説がある。俗説による人物論的な分析がほとんどで、憶測の域を出ない。学界では桑田忠親の怨恨説と高柳光寿の野望説が有名だが、いずれも光秀単独説。
 朝廷関与説で注目されたのは歴史研究家の立花京子氏が91年に発表した論文「信長への三職推任について」。50代からカルチャーセンターで古文書解読を学び、織豊期の公武関係論に取り組んだ。昨年11月には67歳で初の論文集『信長権力と朝廷』(岩田書院)を出した。
 三職推任とは変の1カ月前、朝廷が信長に将軍など三職いずれかへの就任を要請した史実を指す。立花氏は、天皇の秘書官・勧修寺(かしゅうじ)晴豊の日記のうち、68年に存在が判明した「天正十年夏記」を解読。信長京都奉行村井貞勝を通して推任を朝廷に強要したと定説を覆した。
 決め手は晴豊が貞勝を訪ねた折の記述〈太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候〉(「(信長を)太政大臣か関白か将軍かに御推任下さって然るべし」と申された)のくだり。尊敬の助動詞「被」に気づき、晴豊が自分に敬語を使うことはないから「申された」の主語は貞勝と断じた。しみのようにかすかなくずし字だった。
 立花氏は、推任事件などで朝廷が屈服を強いられたため、誠仁(さねひと)親王や前(さきの)関白近衛前久(さきひさ)らが光秀を巻き込んだとする。「信長は天皇にツルを献上した翌日、礼状の勅書を要求するなど、朝廷を利用した。変は追い詰められた側の必死の反撃だった」
立花説を「コペルニクス的転回」と呼ぶ藤田達生・三重大学助教授も謀議説を採る。(以下略)                          
(白石明彦)


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