福江 充著 『立山信仰と立山曼荼羅 -芦峅寺衆徒の勧進活動-』
評者・脊古真哉 掲載紙(宗教研究73-1(320)99.6 )


本書は、日本宗教民俗学研究会の日本宗教民俗学叢書4 として出版されたものである。著者の福江充氏は、立山信仰についての調査・研究に精力的に取り組み、幾多の論考を発表してきたが、今回それらを加筆・修正し、標題にも見えるように、「立山曼荼羅」の図版および立山信仰史研究文献目録を加えて、一書に纏めた。近世から近代の立山信仰について、文献資料と絵画資料とを駆使し、通覧した内容となっている。
日本宗教史には、近年様々なアプローチの方法が見られ、伝統的な仏教史研究、神道史研究以外に、多くの立場からの研究が行なわれるようになってきている。個々の仏教史や神道史、またこれらを基礎とした、それぞれの立場からの神仏交渉史研究では、捉えきれない多くの宗教現象について、従来の枠組みを乗り越えた研究が見られるようになってきている。例えば、修験道史や陰陽道史の研究なども、それぞれに進展し、多くの成果が見られる。また、民俗宗教研究や宗教民俗学研究の立場でも、従来の集落の中の宗教的な年中行事等に注自するだけでなく、葬祭仏教に付随する民俗宗教的な行事・儀礼、他所から集落の中にやってくる宗教者・芸能者の活動などをも広く取り上げるようになってきている。このように、日本宗教史に関する研究は、ある意味では、百花繚乱とも見える状況となってきているのであるが、個々の局面で明らかにされた事実それぞれが、どのように関わるのか、あるいは関わらないのか、という点では、未だ不明の点が多い。このことは、多くの近年の成果を含んだ日本宗教史全体の見取図が示されていないことによるのであろう。
本書を通読すると、近世から近代にかけての立山信仰史について、史料にもとづき、多くの新見解が示され、これによって、通説を訂正することも少なくない。漠然と考えられていた立山衆徒の勧進活動の実態や、布橋灌頂会の歴史についての考察など、大きな成果が示された。
山岳霊場であり、地方霊山である立山信仰の、他の霊山と比較しての特色の一つは、本書の各章で明らかにされているように、広範な信仰の拡がりと、この背景にある加賀藩の立山に対する意識であろう。欲を言えば、本書全体をまとめた総論的な文章が加えられていれば、立山信仰の特色について、さらに理解しやすく、明らかとなったのではないか。立山と各地の地方霊山との相異点・共通点、立山衆徒と他の宗教者の活動との相異点・共通点などについて考慮した総論的文章が求められるのである。近世宗教史の中での、立山信仰の位置付けをおこなっておく必要があるのではないか。このような位置付けがあってこそ、一書にまとまった個別研究は全体の中での意味を持つものとなろう。
失礼を顧みない言を弄したが、本書は膨大な文字資料・絵画資料の提示・解析を行ないつつ、同時に立山信仰の諸相を解明するという困難な作業を実現しているのであって、立山信仰研究の画期的成果であることは疑いえない。今後の立山信仰研究の基礎となるものであろう。
以下、評者の能力と関心の範囲で、本書の紹介をおこなう。本書は、次のような構成になっている。
(目次省略)
最初の口絵写真は、巻末の口絵写真解説と一体となるものであり、「立山曼荼羅」のカラー図版八点、モノクローム図版三三点を収め、解説を付したものである。解説は所蔵者、形態(絹本か紙本か・何幅本であるのか)、法量、系統(芦峅寺系・岩峅寺系・その他)を示し、その後に要点がまとめられている。著者の立山信仰研究は、各地の「立山曼荼羅」の探索、綿密な調査に基づくものであり、個々の論文と同様、あるいはそれ以上に、本書の重要な部分である。
文字資料には、古文書学、古記録学などの史料論があるが、絵画資料をもって、歴史の材料とする時には、絵画を対象とした史料論が必要となろう。近年、これまであまり顧みられなかった、中世後期以降の宗教的な絵画資料が、多く研究の対象とされるようになってきている。
しかしながら、絵画資料でもって、何かを語ること、「絵画を読む」こと、に踏み込むのに熱心なあまり、絵画資料そのものについての史料論が、ややなおざりになっている現状がある。「立山曼荼羅」も絵解き研究の方面から取り上げられてきているが、個々の「立山曼荼羅」そのものの把握・紹介といった点では、不充分な状況であった。著者の勤務する富山県「立山博物館」の開館記念展「立山のこころとカタチ-立山曼荼羅の世界-」(一九九一年一一月)で、その段階で知られていた「立山曼荼羅」が一堂に展観された。同展覧会の図録にすべての資料のカラー図版が掲載され、解説が付された。その後も、同博物館で新出の資料の展観が実施されたが、今回の著書の口絵写真・解説は、これらを踏まえた、現時点で知られる「立山曼荼羅」についての基礎資料の役割を果たすものとなっている。
解説の中で、法量について、「内寸」(料絹・料紙の寸法)だけでなく、「外寸」(表装を含めた全体の寸法)を示しているのは、著者の博物館人としてのきめの細かさである。これは重要なことで、実際に「立山曼荼羅」が使用される場面を想定してみる時、どれくらいの空間なら、個々の「立山曼荼羅」を懸けることが可能なのか、といった点を「外寸」の表示によって知ることができよう。一般的な寺院什物と比べると、「立山曼荼羅」は、絵画の料絹・料紙に対して、小さ目の表装が施されていることが多い。寺院本堂などとは異なる空間が、「立山曼荼羅」を懸ける場所として意識されているからであろう。絵画資料調査の際の評者の経験では、どうせ表装は製作当初のものではないのだからと、表装を含めた全体の法量を採寸することはほとんどない。著者の綿密さに学び、反省すべき点である。
個々の「立山曼荼羅」の軸裏に記された文字資料について、口絵写真では、一点、第四章で一点(これの一部は、第一章・第四章でおこしのかたちでも提示されている)、第六章で三点、第七章で一点、第十章で一点の写真が提示されている。残念ながらこれらの写真は記載内容を知るには小さすぎ、文字の読み取りがたいものもある。紙幅の都合もあろうが、巻末の解説の中で、これらの文字資料を翻刻することはできなかったのであろうか。
前述の、近年の絵画資料に対する関心の高まりの中でも、絵画に付随する文字資料については、等閑視される場合が少なくない。ここまで、「立山曼荼羅」と括弧付きで表記してきたが、軸裏の文字資料では、これらの絵画資料は「立山縁起」「立山絵伝」などと記されることが多く、果たして「立山曼荼羅」という名称が妥当なものか否か、という問題もある。これは単に名称の問題だけでなく、「立山曼荼羅」の成立に影響を与えた、先行する絵画資料を考察するためのヒントを含んでいるものと評者は考えている。もっとも述語として「立山曼荼羅」が定着してしまっている現状では、この名称に異を唱えることは、却って混乱を招くもととなるかもしれないが、この名称について、再考の余地はあろう。「立山曼荼羅」以外にも不適切な名称で通用してしまっている絵画資料は少なくないが、このことの原因の一つとして、付随する文字資料が軽視されてきたことが指摘できよう。
著者は、この軸裏に記された文字資料について「裏書」の語を用いているが、これは如何なものか。確かに、裏に書いているのだから、「裏書」で何ら誤りではない。ところで「裏書」の語は、浄土真宗の絵画資料では、絵画に付随する文書の一種を指す用語として、位置付けられ、使用されている。評者は、軸裏の文字資料について、個々の性格・機能を吟味し、造像銘の類のものか、文書としての機能を持っているものなのか、を判断して、銘と文書とは別に扱い、双方に同じ用語を使用するのを避けた方が良いと考えている。中世後期以降の宗教的な絵画資料としては、もっとも研究の進展している浄土真宗の絵画資料に倣い、文書としての機能を持つものを「裏書」とし、「立山曼荼羅」に見られるものは、「銘」とした方が適切ではなかろうか。表の絵画の中に記されるものを含めて、研究分野、論者ごとに、ばらばらに用いられている文字資料の名称について、今後の検討・議論が必要であろう。
第一章から第三章では、近世の芦峅寺を中心とする立山信仰の状況を、加賀藩との関係を軸に考察している。この際のキイマンとなる人物として、高野山出身の学侶龍淵(一七七二〜一八三七)の存在を指摘している。第四章では、その龍淵が修復、「補筆」を実施した「立山曼荼羅」坪井龍童氏本についての綿密な考察をおこなっている。
第一章では、従来「謎の人物」とされてきた龍淵の出自・経歴、芦峅寺での活動を、史料を綿密に検討し、加賀藩との関わりの中で、宗教活動を展開した人物として明らかにしている。
高野山と加賀藩を結ぶ人物として、師命により派遣された龍淵が、加賀藩の意向を背景に、芦峅寺での活動を通じて、立山信仰に大きな影響をおよぼしたことが指摘されている。著者は真言僧であり、藩との関わりを強く持つ人物である龍淵に、また一面、「聖的」「遊行宗教者的」な性格が見られることに注意している。ただ、著者の指摘するこの性格は、龍淵自身の回顧的な文章の中で述べられていることであり、実際の他の活動と比較すれば、やや違和感があるのではないか。あまり、この性格を重視し、龍淵の宗教活動の二面性と捉えるのは如何であろうか。第二章では、近世初期以来の加賀藩の立山信仰に対する庇護的な態度が、参詣道や山麓の施設の整備を活性化させ、立山信仰の興隆していく状況を年代順に見ている。一九世紀以降の全国的な寺社・霊山参詣の隆盛の中で、立山では文化・文政期以降、参詣者が急増したことを指摘している。さらに、女人禁制や立地・気候的な条件から、立山山頂へ登拝することは、すべての参詣者にとって、いつも可能なことではないため、山麓の霊場が発展し、山麓で実施される祭礼が重視されるようになったことが示されている。
第三章では、山麓で実施される祭礼の中心となる布橋灌頂会の変遷が取り上げられている。
著者は「現存する史料で確認できうる範囲内での考察」とことわった上で、布橋灌頂会の原初形態は、「江戸時代初期に加賀藩の夫人たちによって行なわれた、プライベート性の強い、橋渡りの逆修儀礼」であったものが、文政三(一八二○)年の布橋架け替えを期に次第に変化し、龍淵の影響もあって、結縁灌頂の思想・作法が取り込まれ、庶民の結縁に主眼をおくようになり、「イベント性の強い法会」となったとしている。従来言われてきた布橋灌頂会の成立についての説とは、まったく異なる見解であるが、実証的な手続きを踏んだ論であり、従うべきであろう。なお、従来、この立山の布橋灌頂会の成立を中世に逆らせ、各地の民俗宗教に見られる類似の儀礼を、布橋灌頂会を媒介として解釈することが行なわれてきているが、このような立場も再検討を迫られていることは言うまでもない。
第四章から第七章には、「立山曼荼羅」についての論考が収められている。第四章は、「立山曼荼羅」坪井龍童氏本についての個別研究。第五章・第六章では、「立山曼荼羅」による布教が、主に芦峅寺の衆徒によって担当されたこと、芦峅寺系の「立山曼荼羅」相互の模写関係、について述べられている。第七章では、「立山曼荼羅」に描かれる地獄の風景の検討を行なつている。
第四章では、名古屋市坪井龍童家に所蔵される「立山曼荼羅」についての史料論的考察が行なわれている。論述は多岐にわたっているが、ここで注目しておきたいのは、前述の龍淵が、この絵画の修復を行なっており、その際に、布橋灌頂会の場面が龍淵の意向に従って、書き改められていることが指摘されている。修復時期が龍淵の活動から、天保元(一八三○)年から天保八年までの間と推定されていることから、修復以前の図像は、それ以前の「立山曼荼羅」の実態を知る貴重な資料であり、修復された後の図像は、龍淵の布橋灌頂会に対する意識が窺えるものとなる。成立時期の明確な「立山曼荼羅」はほとんど知られておらず、坪井龍童氏本の発見と紹介は、「立山曼荼羅」研究の基礎的な資料を提示したものである。
第五章は、立山衆徒の二つの勢力である、芦峅寺と岩峅寺の双方の勧進活動における職掌区分が加賀藩によって定められ、岩峅寺衆徒は、立山の山自体に関わる勧進活動を中核とし、芦峅寺衆徒は、藩領国内外での廻檀配札活動を中核としたため、芦峅寺では、「立山曼荼羅」を用いた布教が盛んとなった状況について述べている。著者によると、現存の「立山曼荼羅」は、現在の所蔵者が衆徒との関係が明確でないものも含めて、図様により分類すると、芦峅寺系二三点、岩峅寺系五点、その他系一二点となっている。
第六章では、芦峅寺系「立山曼荼羅」相互の転写関係について述べている。「立山曼荼羅」は多数が一度に同一本から模写されるという方法で製作されたものではなく、「ある作品を参考にして部分的に模写し新たな一本の作品ができあが」るといった製作法であったであろうとしている。宗教絵画としての「立山曼荼羅」の大きな特色は、ほとんど同一といってよい図様のものが、まず見当らないことである。これは、観心十界曼荼羅などの、他の勧進活動に用いられたとされる絵画資料と大きく異なる点である。同一の下絵をもとに多数が製作される絵画と、「立山曼荼羅」のようにそうではないものとに、性格のちがいがあるのであろう。
第七章では、「立山曼荼羅」の中に描かれる五つの要素、@立山開山縁起、A立山地獄、B立山浄土、C立山禅定案内、D布橋灌頂会の中から、地獄の図像に注目して分析を加えている。大部分の「立山曼荼羅」が近世後期以降の成立という条件を踏まえて、実際の図像からも、日本における地獄絵の系譜の最後尾に位置するものとしている。確かに、これも大部分が近世中期以降のものである観心十界曼荼羅に描かれる地獄の図像と共通するものも多く、日本人の地獄についてのイメージの集大成の観を呈している。もっとも実際に、立山を訪れて感じるのは、「立山曼荼羅」に描かれた地獄の図像と案外似通った現実の風景である。他の地獄絵と異なり、「立山曼荼羅」の地獄の図像には、現実の風景の投影も少なからずあるのであろう。
第八章から第十章は、立山衆徒の廻檀配札活動を、現存する護符の版木、檀那帳から分析したもの、および立山衆徒の近代における模索を扱ったものである。これらの論考は、立山衆徒の活動の中核的な部分を取り上げたもので、宗教史あるいは山岳宗教研究などの立場では、とかく宗教思想や儀礼などに関心が向いがちで、なおざりにされてきた分野に光を当てたものである。近世の宗教者の勧進活動は決まった檀那場とスケジュールによるものであった。これを犯せば、様々な紛争の原因ともなるものであった。かつての一部の民俗学で説かれた、放浪の宗教者・芸能者などというものの正体は、実は、ここに述べられたような決まった場所・時期に訪れる、免許なり許可を与えられた宗教者等の活動であったのである。近世の宗教者の実態については、修験や陰陽師について、その組織・統制の研究が進んでおり、伊勢の御師についても研究の蓄積がある。著者の示した立山の衆徒の例も、これら一連の研究にあらたに加えられた大きな成果である。

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