鈴江英一著『キリスト教解禁以前』
評者・山崎渾子 掲載紙・キリスト教史学No.55(2001)



 本著は、近現代キリスト教史の代表的研究者の一人である著者が、高札撤去にからむキリスト教解禁問題という多様な学説をもつ課題に関して、徹底した研究史の検討と、永年の多面的史料探索の実績を踏まえた周到緻密な究明によって、明快に一つの解答とも言える筋道を開示してくれたものである。
 著者は、まず本著が国文学研究資料館編「セミナー原典を読む」シリーズの刊行という出版事情があったこと、そのため文体も講義形式であること、そしてその後、後の研究成果を盛り込むという構成を取った意図をはしがきで述べている。「ですます」調の文体と平明な叙述に親しみを持ちつつ、一気に読破してしまえるが、読者をひき込む理由は、著者の自負する「その研究の発展のおもしろさ」をわかり易く追究・提示しているところにある。以上の意味から学問研究を志す初学者に特に裨益するところ大きい好著となっている。
 研究の中心は、「切支丹禁制高札」がキリスト教の解禁または黙許につながるものであるかどうか、という課題である。
 本著の構成は次の通りである。
(目次省略)
 以下、大きな区分としての三講と終章の内容を追うことにする。
 第一講では「ハリスト正教」という、一般人にはやや馴染みの薄い名前から始まる洋教事件を扱っていて、これは一八七二(明治五)年の二月初旬、仙台と函館で起こった。修道司祭ニコライの伝道の下でキリスト教を学び信仰した日本人たちが捕縛された事件である。後ろ盾としてのロシア領事の抗議は、開拓使や中央政府と外務省を悩ませることになった。結果としては、詳述されてはいないが長崎近辺の配流キリシタン問題もろとも釈放という「なにやら副島外務卿の工作のためか正院内達によって全面解決になったかのようであった」とし、事件の発端と結着までの経緯を関係史料の整理紹介と共に述べている。
 第二講では、著者にとって発端となった事件の究明以来、三五年の空白があったが、再考の結果、史料利用の機会は太巾に拡大されたこと、それによる研究の進歩はまた史料環境を変え、この史料環境の進歩が研究の質量を変化させたと言う。具体的には「高札撤去」が意図した史料の拡大と累積効果から解明されたこと、外務省の見解、洋教対策としての教導職との衝突、法令公布方式の転換との関係、これに対するキリスト教会の反応、諸外国の解釈、国内の反響などを取り上げている。そして問題の太政官布告第六八号「高札撒去」は何を意図しているのか、その多様な諸説を紹介している。
 第三講では問題の「高札撤去」布告論争に焦点が当てられている。まず研究史、学説史の検討、研究の視点を開拓使文書から全国の問題として置き直したこと、史料の範囲の拡大と目配りのし直し、外務省や開拓使の立場、そして「内面の自由、外形の取り締まり」ヘの転換を述べる。高札撤去布告の諸史料の弁別の結果、「あくまでも禁教継続をおろさない政府の説明、解禁だと理解した欧米外交官・キリスト教側の解釈」を見た上で、実際は「禁教堅持と寛宥とが両立していた」ことを指摘している。
 そして終章では課題追究を省察しながら史料論を展開している。著者の忍耐強い長期的史料探索を踏まえた上でも、「史料をすべて見尽くした」などと思ってはいけないこと、一方、近代的件名目録やコンピューターにも限界があること、近代的公文書制度や史料の社会的背景への理解の必要性を説く。
 著者の主張をまとめるとすれば、「政府がキリスト教禁制を表明することをやめ、地方官でも取締りを行わない状態」の黙許の時期は、「高札撤去」の時ではなく、特定できないとしつつも、一八七六〜八四年に置いたことであり、説得力のある新見解となっている。
 あとがきで批判を受けた筆者の拙論は、この「高札撤去」の意図と「黙許」の時期を充分に検討しきれなかった点が問題である。この指摘は大変ありがたく、再考の力になったことを感謝し、ここに紹介させていただいた。

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