渡辺尚志著『近世地域社会論―幕領天草の大庄屋・地役人と百姓相続―』
評者・町田 哲 掲載誌・歴史学研究750(2001.6)


 T 基本構成
 本書は,渡辺尚志氏を中心とする若手研究者が,地域社会論の方法的課題を模索しながら,肥後国天草郡地域を共同研究した成果である。構成は以下の通り。
(目次省略)
 本書で目をひくのは,大庄屋・庄屋,小前百姓,銀主,地役人といった地域社会を構成するいくつかの主要な要素に着目し,その関係を多角的に分析している点である。この点に注目しつつ,要約する(第1期は今後の課題とされている)。
第2期(18世紀中頃〜):天草の大庄屋層の経営は,狭小な耕地・過剰な人口という天草の条件の中で,一方で新開地の分与により下人の自立化を進めながらも,他方で質地小作関係を未だ展開せず三日夫慣行などを利用した手作経営が主体の名田地主型経営であった@B(1章、3章、を示す。以下同じ)。この時点で大庄屋と庄屋との間に経営上の格差はみられない。大庄屋の選任には基本的に組中と村百姓の合意が必要で,しかも大庄屋には多額の資金力をもつことが村方百姓から期待され,村の利害とも密接不可分な存在であった@。18世紀後半には,銀主(ぎんし)(商人地主高利貸)ヘの土地の質入れが進み,同時に無年季請戻慣行という小作権を伴いつつ質地直小作関係が展開するD。寛政期には郡中の高請地の三分の二が銀主の手にわたったF。
第3期(19世紀〜幕末)に入ると,全戸数の内本百姓は五分の一以下,名子が大半を占めるという極度な階層分解状況が展開,郡外を対象とする出稼・薪漁獲物販売・食料買入が必要といった,地域的経済圏に組み込まれた状況となるCD。商品経済が浸透しながらも従来からの「古い」生産関係(名子が多数存在)が残る,異なる二つの生産関係が並存する独特の構造であるC。銀主は,所持する新田等の小作地の管理を地元の小作世話人や村方地主である庄屋層に委ねCEG,直接その経営に関与せず上米だけを確保してCDE,村方地主を凌駕する経済力を獲得。銀主一小作人間の矛盾は,直接対する小作人や地元村役人層に転嫁されたC。しかも,銀主間では投資目的(貨幣獲得のために土地を質入れするなど)の土地の物件化の現象も頻繁にみられ,金融ネットが広範に展開CE,それは銀主同士の族縁という点にも現れる。これは第1期での大庄屋などの村役人でもみられる族縁とは異なる新たなグループの形成であり,同時に政治的側面でも発揮されるFG。幕末期には大庄屋・庄屋とは経済的には懸隔の巨大な「銀主」が出現CG,さらに明治初年には,大庄屋・庄屋までもが銀主側の利害を受け止め,従来の小前百姓擁護の百姓相続仕法と決別する仕法を主張,公布をみるE。

 U 大庄屋・庄屋への着目
 第一編は,大庄屋などのいわゆる「中間支配機構」に比重がおかれている。一見,前著『近世米作単作地帯の村落社会』(岩田書院,1995年)に比べ内容に偏りがあるが,これは史料状況に規定されているからだろう。むしろそうした条件を逆手にとり,天草の大庄屋制の実態を社会構造との関連から迫ろうとする。
 本編の成果の第一は,大庄屋制の変容を,長期的にしかも他の中間支配機構との関連を通じて描いた点である。
 天草の大庄屋の職務は,法令伝達・願書取次・普請監督など他地域と共通するものに加え,往来手形の発行・転類族帳提出など天草独自のものがあったが,@では大庄屋が職権を拡大していこうとする動向と,近似した職務をもつ庄屋や地役人とのせめぎあいを併せてみる点が興味深い。
 また,天草で大庄屋廃止令後,従来庄屋層が携わっていた年貢保管に加えて触の伝達・願書の上達を遂行してきたのが蔵元である。天明1年(1781)に,蔵元が郡中入用の不正を契機に廃止され,その後,郡会所(在富岡町)のもとに各組大庄屋が組ごとに年番で郡会所詰を勤める体制が同6年(1786)に形成される。それ以降は,蔵元が遂行してきた事務を郡会所詰大庄屋とその組下庄屋が継承するA。つまり大庄屋に,本来大庄屋が管掌してこなかった年貢米保管などの新しい役務などが追加され,同時にさまざまな機構がこれに関与している。Aでこの転換期について分析的論述がないのは残念だが,第一編を通じて,2期以降の大庄屋の機能が複層的に形成されてくることを明らかにした点は評価されよう。
 第二に,天草の場合,大庄屋・庄屋を一つの層として捉えることができるという指摘も重要である。郡中の運営という点でも,年番大庄屋は大庄屋としてだけでなく組全体で引き受け,郡中・組中各レベルで入用割や相談に庄屋層も参加するBが,何よりも大庄屋・庄屋は経済的にみても「銀主」層には属さなかった。一方それ以外との差という点では,年寄役以下の村役人が年番であるのに対し,世襲が主である庄屋とは明確に区別され,その差は所持石高や村入用への関与の仕方にもみられたC。大庄屋と庄屋をその職階の違いからアプリオリに差のみをみるのでなく,存立基盤等も含めて評価しているのである。この点は,大庄屋を代官的存在として切り離して論じることに対する批判にも通じた重要な指摘である。
 気になるのは,大庄屋の存立基盤となる「基礎構造」をみることと,大庄屋を中心とした「中間支配機構」とが,どのようにリンクしているのかが明示的でない点である。これは「基礎構造」の分析がやや淡泊なためではないか。Cで指摘された「組合村惣代庄屋の形式的平等性と豪農の実質的支配という,次元の異なる二問題をいかに有機的に関連づけて説明するか」という今後の課題にむけて,この点をクリアにすることがまず求められよう。また,大庄屋・庄屋層の間で職務内容における微妙な認識の差や,文久期の郡中争論等における独自の行動・利害など,両者の関係の変化を異なる方向性の萌芽として鮮明にみているが(Cや終章),それがいかなる意味を持ったのか,第2編との関連も含めた説明が欲しいところである。

 V 銀主と「百姓相続方仕法」への着目
 銀主については,CGもふれているが,むしろ,寛政5・同8・弘化3・明治初年に4回発布された天草郡独自の「百姓相続方仕法」(年季切の質地の請戻を条件付で許可する領主法)の意義と,これをめぐる銀主―小前百姓間の関係を論じる第二編(とりわけE)が,より銀主の実態に肉薄している。
 年季切れでも質地請戻可能という認識や,村民による土地所持の保全機能など「間接的共同所持」とみられる認識・行為が,18世紀半ば以降にも,小前百姓の中に潜在し(仕法制定の背景とする点は要検討)D,寛政8仕法では質年季・年季明各10年の請戻権が保証される。a仕法制定で小前百姓は請戻権を自覚化するが,逆に,請戻期間の限定をうけるなど,土地所有権喪失を確定する限界があった,という矛盾拡大の側面の指摘Dは,請戻一辺倒でない点で新鮮。b一方銀主にとって,仕法制定は質地を流地する法的根拠を得たことになり,質地が土地資産として安定した投資先となっていき,銀主同士の売買とそれに伴う土地の物件化という状況に結果するDE。重要なのは,第一に,銀主・小前百姓それぞれにとっての意義と限界を明らかにしながら,質入の拡大と請戻をめぐる相互の対抗関係の展開をみる視点である。この点を敷衍すれば,bは,銀主がより村方地主と一線を画した存在へと転化していく性格変化を示す一つの事実としても理解できないだろうか。仕法制定以前は,自村外の銀主に売り渡せば小前百姓が耕作権を確保できる可能性も高かったが,制定以後「銀主え之手筋有之者」による別小作化が進展,直小作が減少し請戻が一層困難になることを恐れ,耕地所有権の安定化が百姓株維持を可能とするとの論理を構築するという事実も,銀主の性格変化とそれに対する小前の対応として理解できるのではなかろうか。
 第二に,無年季的質地請戻は否定されたにもかかわらず在地に根強く存在していた事実の発見DE,とりわけ,従来は効果なしとされていた弘化・明治の仕法でも,仕法を契機に相当数の土地の請戻が実現され,融通・請戻が証文内容とは異なったレベルで機能するという指摘Eは,請地出入の実態分析からはじめて明らかになる点であり,研究状況を一気に飛躍させている。
 さらに第三に,銀主と小前百姓との地主小作関係が,全くの個別直接的な関係ではなく,質地請戻や銀子借用・小作米取立において,村を媒介して相対している点が注目される。小前側からすれば,村の関与なくして請地は不可能であり,一方銀主側も百姓の再生産を維持する対応(棄捐・返済期限延期・村慣行の尊重)をし,小前百姓に敵対してまで経営拡大を目指すことはないのである。このように,銀主・村・百姓の関係により,実態差が地域の中で生じているという指摘も興味深い。さらにいえば,第一に述べた仕法をめぐる銀主と小前層とのせめぎあいが激しかった理由も,銀主側による個々の対応では差や限界があったがゆえに,仕法という公的な位置づけをまといつつ,天草の銀主の総体的な対応の道をとったからと説明できないだろうか。
 庄屋の評価が,「小前百姓の要求をうけた庄屋」「村百姓を保護する庄屋」一辺倒になりがちなのが気になるが,第二編は総じて,「質地請戻慣行」の議論を地域の社会構造の間題として,つまり実態的な「百姓的世界」の問題として捉えることに道を拓いたといえる。

 W 地役人江間家への着目
 地付きの役人(武士身分)で,各種運上銀の中でもっとも比重の高い山方分―運上銀の取立を主役とする山方役に着目したのが第三編である。地役人は,大庄屋などとは異なり代官の家臣を先祖とし,18世紀後半からは村役人や銀主とも親類関係を結び,さらに他藩と館入関係を展開H,郡中のさまざまな場面で暗躍する存在となる。本論と結論との関係がやや難解な部分もあるが,以下の点が注目される。
 第一に,第三編の優れている点は,地役人一般ではなく,富岡(陣屋)附地役人であり,町の顔役でかつ大銀主である江間家の諸側面をトータルに把握しようとした点にある。これが以下の論点を浮き彫りにする前提となっている。
 第二に,地役人以外には公的位置づけがない江間が,弘化仕法制定の際にも銀主の利害をうけて,郡中全体に精通しない大庄屋に対し,独自の判断に基づいて発言し影響を及ぼしている点から,江間の暗躍する場は,大庄屋・庄屋の認識レベル=「百姓的世界」を超えた「政治社会」の領域であるとする指摘が注目される。さらにこうした江間の領域は,従来のような村の行政システムの延長では捉えきれないとして,地域の政治史分析の必要性を説く。これは,何も社会構造分析と切り離して展開すべきという意味ではなく,江間のような存在を捉えていくには,その特徴を社会構造との関連で捉えていくことが前提であることはいうまでもない。一方で,彼らの政治的行動が単なる階層の反映ではなく,それぞれ固有の政治的利害を内包したグループとして郡中に展開していたという指摘も特筆される。
 第三に,いわゆる「御用」請負人には,畿内で指摘される用聞・用達だけではなく,天草のように地域によっては蔵元・郷宿・地役人・掛屋などさまざまな存在に機能が分化した形態があることを指摘し,前者を集中型,後者を分散型と類型化しているが,当否も含めて今後検討すべき論点だろう。

 X 若干の疑問点
 このように,論点が豊富な本書であるが,読んでいてたえず頭をよぎるのは,天草という地域において「社会構造を明らかにする」にはどうしたらよいのか,という点である。というのも,本書では,天草地域の構造が,主要には天草全体=郡中レベルの,しかも郡中の諸要素の"構図"として描かれているからである。
 第一に,問題となるのは,大庄屋と銀主の関係の位置づけ方である。本書では,地域・村落行政を主導する大庄屋・庄屋層と,圧倒的経済力を誇る「銀主」は別個の存在であるとして,その存在形態に大きな差があるということが説得的に示されている。ただし,そこの差を社会的権力の「政治的ヘゲモ二ー」と「経済的へゲモニー」の分離として捉えようとする点には,やはり違和感が残る。吉田伸之氏のいう社会的権力の捉え方を進展させようという意図なのかもしれないが,むしろ第三編での地役人江間家の例がその両面を備えていたこと,あるいは銀主自身が公的な政治社会に位置づくことはなかったが地役人江間らと結びつくことで,郡中一揆に対する政治的立場を明確にしていた点などを想起すると,大庄屋や銀主を政治的・経済的と範疇的に区別していくのでなく,重複する性格の存在をそれ自体として位置づける方法が必要ではなかろうか。また,銀主と大序屋との分離をいうのであれば,銀主の発生とその後の変化の契機がどこにあったのか明確にすべきだろう。銀主の本質は長崎と天草での換銀過程に吸着し利潤を得る銀商人的な活動だという指摘Cがあり,一方で,第2期の名田地主経営の中から「銀主」が分出されてくるコースを想定しているようだが,そうした属性が何を契機に形成・変化し,村方地主と区別されていくのか理解しにくかった。
 第二。天草地域と一口にいっても均一な村に構成されるのではなく,町方・在方の差もあれば,銀主や大庄屋のいる村いない村もあろう。村ごとに村落構成員のおかれる状況は異なるはずである。また,町方富岡町の大銀主(村方地主の側面は持たない)かつ地役人である江間家と,村方の大銀主とは性格が異なったし,同じ富岡町の銀主であっても道田家と江間家のそれぞれの経営内容には違いがみられる。これらを総体として捉える場含,支配・領域的に包括している郡中・大庄屋・組を軸に捉えるだけでなく,その内部に存在する起伏に固有の意味を与えつつ捉えていく,その方法を鍛えることも今後必要となろう(この点は,EGでは自覚化されていた)。「村の内部構造は今後の課題」としているが,村の内部構造とは,何も「基礎構造」だとか「地域論を遊離させないため」といった,消極的留意にとどまらない意味をもつと評者は考える。そのためにも,(第一の点とも関わって)やはり,一つの村や,社会的権力を中核とする一つの地域や,〆切新田などの具体的「場」の中で,それぞれ性格の異なる銀主・庄屋・小前百姓・日用層とが,生産・労働と生活の両面においていかなる社会関係を結び,いかなる秩序を成り立たせていたのか,その構造自体を具体的に描く論考が一つでもあれば,各章がもっと活きたのではなかろうか。
 とはいえ,3年間でこれだけの内容を一気に分析し成果を出す集団的力量には頭が下がる。本書の成果・分析方法・問題意識をふまえつつ,社会構造分析を通して地域の歴史に肉薄する研究が,各地であらたに推し進められることが期待される。

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