渡邊尚志編『近世地域社会論―幕領天草の大庄屋・地役人と百姓相続―』
評者・戸森麻衣子 掲載紙(論集きんせい21 99.5 )


本書は、渡辺尚志氏を中心に六名のメンバーが集まって研究会を結成し、三年余をかけて研究を進めた成果をまとめたものである。執筆者の内四名は、渡辺尚志編『近世米作単作地帯の村落社会』(岩田書院、一九九五年)に引き続いて参加しており、いわば同書の続編的性格ももっている。前書では、対象を一文書群とし、村落社会の地域・村・家という諸側面を取り上げ、本書では、一定の「地域」(天草郡)を対象とし、その中の複数の文書群を取り上げている点は異なっているが、共同研究によって、より具体的・多角的に地域社会構造を探求していこうという姿勢は同様である。
本書の構成は以下の通りである〔()内は担当者]。
(目次省略)
第一編は、天草の大庄屋制とそれを取り巻く地域社会状況について時代を追って明らかにしたものである。第一章から第三章に分けて近世中期から後期の変質の過程をたどり、第四章では、天草の社会構造とそこにおける大庄屋・地役人・銀主の存在形態について取り上げる。第二編では、天草の近世後期を特徴付ける「百姓相続方仕法」と天草の土地問題について述べる。
仕法の成立期(弘化期まで)と、仕法の変容期(弘化期から明治初年まで)に分けて二章で論じている。第三編は、天草郡の地役人について論じたもので、舟橋明宏氏が序から結まで担当し、本編のみで一つの著作の体裁を成している。このように本書は、副題にもあるように全体で三つの大きなテーマを持っている。
以下では、まず各章ごとの内容を紹介し、その上で論点・問題点に触れ、最後に本書全体について、感想を述べることとしたい。

序章では、「近世九州天草を対象として、地域社会の構造と変容を実証的に解明し、もって近年の地域社会論に若干の問題提起を行」おうという本書の目的を提示する。まず、久留島浩・藪田貫・平川新・吉田伸之の各氏によるこれまでの地域社会論に対して、問題点を指摘し、課題を明らかにする。本書の課題としているのは次の四点である。@地域社会の内部構造分析を踏まえて地域社会の動向を解明する。A地域社会を内実・実態の面で捉える。B地域における社会的権力の実態究明を目指す。C領主権力と地域社会・社会的権力との相互関係を明らかにする。
次に志村氏が、近世大庄屋研究の現状と課題について整理し、加えて全国各藩領の大庄屋制の諸相-全国分布、成立期、職務など七項目について集積したデークを示し、現段階で把握しうる限りの内で大庄屋制のあり方を俯瞰する。これまでこのような試みは行われておらず、大庄屋研究発展のためにも基本的なデータが示されたことは重要である。膨大なデータ収集の労には頭が下がる。
第一章では、全国幕領では例外的に、正徳五年に天草に大庄屋が再設置された経緯を挙げ、寛延から天明期に記された「大庄屋勤方書上」の諸本を比較し、一八世紀半ばの大庄屋の職務や権限について検討する。この段階では、大庄屋の特権性は他領大庄屋より相対的に小さく、実態においてその職務や権限は、地役人や庄屋と境界があいまいな状態であったとする。大庄屋と庄屋では経営規模もそれほど違いはなかったとし、そのような中で、村方百姓は大庄屋を居村庄屋同様に捉える傾向があったことを指摘する。従来の幕領惣代庄屋研究は、史料の残存状況の問題もあって分析が近世後期に片よりがちであったが、本章では近世中期について分析が及んでいる点で興味深い。
第二章では、大庄屋が作成した「御用触写帳」(いわゆる「御用留」)と「万覚」(大庄屋が奥書・添書をして提出した文書の控え等)を典拠に、一八世紀後半の地域支配をめぐる変化について述べる。天明元年、それまで陣屋許において触の伝達や郡中の諸帳簿の集約などの事務を担っていた「蔵元」が廃止され、代替に「郡会所」が置かれる過程、「郡会所」に委ねられた役割などについて述べる。後半部では、郡中入用・組合村入用の算用帳簿の内容、勘定の場についても述べる。
第三章では、文化期から天保期までを扱う。この時期は「百姓相続方仕法」の実施により地域社会が相対的に安定していた状況から、転じて飢饉や一揆の発生により社会状況が揺れ動く、変化の激しい時期である。大庄屋は一八世紀に引き続き多様な機能を果たしていた。ここでは、その大庄屋の関わっていた職務の一つ、「郡割」について取り上げている。郡割の算用は、陣屋(富岡役所)の意向と大庄屋(庄屋)の意向が拮抗する場であったとする。大庄屋・庄屋には郡中入用の立替能力が要求され、その立て替え能力を越える場合には「銀主」(地主兼商業利貸し資本)から借金して郡中入用に充て、銀主が経済的に郡財政を支援するという、銀主と郡中の共生関係が成立していた、と興味深い指摘を行う。当該期には、郡会所を一つの場とした、大庄屋・庄屋層の合議と共同による地域運営と、陣屋による統括が行われていたとする。また、郡割・組割への参加のあり方や格式・特権の面で大庄屋・庄屋と村年寄の間に明確な格差があったことを述べている。最後に、大庄屋の評価は多面的・総合的に行う必要があるとし、制度面についてのみならず、実態との関係や制度の「形骸化」の進行にも目を配 る必要があると主張する。
第四章では「銀主」をめぐる地域社会状況について述べる。「銀主」は村方に金を貸与して質流れとなった田地を集積し、御用金を通じて権力に接近しつつも、幕藩制的な支配機構とはほとんど無縁であるという特徴を持つとする。銀主らは金融ネットを広範囲に展開させ、投資目的の土地売買を行ったり、村方の庄屋や村役人などを集積した小作地の管理者として置き、村方に影響力を及ぼしていた。また、文久三年の山方運上銀取り立てをめぐる郡中争論を通じて、大庄屋・庄屋・地役人の三者の関係を明らかにする。庄屋層は大庄屋層とほぼ同一の権威志向を持ち、小前層対策という課題意識も共に持ち合わせていたが、庄屋層はこの争論に際し、大庄屋のみの役威拡大に反対して大圧屋と異なる対応を取ったことを指摘し、また地役人は陣屋(領主権力)との人的関係をもとに争論の動向に影響を与えていたという状況を明らかにした。志村氏はそこで、政治的側面からは大庄屋・庄屋、経済的側面からは銀主の、両者が相互に絡み合いながら「社会的権力」として在地社会を支配するあり方に注目し、またそのような「社会的権力」と領主権力との関係距離についても議論を投げかけている。
第五章からは転じて天草郡に近世後期、四回(寛政五年、寛政八年、弘化三年、明治元年)
発布された「百姓相続方仕法」を素材として地域社会を論じていく。第五章では、百姓相続方仕法が始めて発布された寛政期を中心に論じる。寛政八年の「百姓相続方仕法」は@質地の請戻しA借金の年賦返済B小作料の免除と半減C「作半」(地主と小作が収穫物を折半する)慣行の改正D自作高の制限、という内容であり、村外銀主から小前百姓を救済する目的を持っていた。天草郡は高に比して人口が多く、持高の零細な、或いは無高の
百姓が圧倒的で、人々は多様な生業によってたつきを得ていたが、それゆえにこそ耕地に対する執着・耕地開発の要求は強かったとする。そこで、自村の富裕者の資金力を利用して耕地開発を行い、それによって村外銀主の資金流入を排除し、耕作地を獲得しようとする村人の志向が存在した、と考える。そして、彼らの中には年季切れとなり流地となった土地でも自らのもとに請戻し得るという意識が存在したとする。しかし仕法中に請地を行えなかった百姓も多く、仕法の質地請戻し期限が切れるころには仕法の設定における問題点が浮き上がることになった。そこで意識として底流にあった無年季質地請戻しを、自分逹の権利として自覚し、在地の法として慣行を確立していく動向が見られるとした。大庄屋・庄屋層はこの時期には小前百姓の利害を代弁せざるを得ない立場にあり、村を維持するため百姓と共に無年季質地請戻し権を形成していったとする。
第六章は、幕末維新期における「百姓相続方仕法」について取り扱っている。幕末期に圧屋は、一般的に村を代表して銀主に相対し、村百姓を擁護する立場にあり、一方銀主は、村との関係を重視して百姓側に譲歩し、百姓経営を援助せざるを得なかったとする。弘化仕法以後から仕法をめぐって請地出入が頻発する状況となっていたが、請地出入は銀主と小前百姓の間ばかりではなく、銀主間の出入も頻発していた。このような中で大庄屋・庄屋層は出入を否定的に感受し、明治元年には請地範囲を限定した仕法案を役所に提出することとなる。それは小前百姓と銀主・大庄屋・庄屋の断絶を表す局面の一つであり、それまでと変わり「百姓相続方仕法」と決別していく様子を見出す。また、明治元年の仕法の際行われた「請地取扱掛」による土地所持者の確定作業は、地租改正に必要な作業を先行したものと位置づける。
第三編「序」では、舟橋氏が地域社会論の研究史に対する認識を、第三編の内容に絡めて表明している。そこでは、「中間層」・豪農・村役人層の「多面性」や「多様性」を組み込んだ議論を展開する必要性を強調する。
第七章では天草の地役人や「船宿」(問屋)らのあり方について明らかにする。天草郡地役人には山方役(職務は山方運上銀の取り立てと山林原野の管理)・遠見番(職務は異国船の通報、抜荷の監視)とがあり、彼らは村役人・大庄屋・銀主らと政治的・経済的関係を持っていた。地役人はもともと代官所手代に近い存在であったが、徐々に在地性が強まり、村役人らとの関係を深めていく。地役人は出入・願筋へ関与し、役所への取次・工作を行ったり、あるいは事前の相談や根回しによって、地役人や大庄屋衆中の意見を調整する機能も果たすなど、地役人は非公式に地域運営に関わっていたとする。
「船宿」は、浦問屋・山方問屋に大別され、浦問屋は遠見番配下で口銭を徴収し、山方問屋は山方役の下で山方銀徴収を行っていた。「船宿」の本質・基盤は村役人であったり、銀主であったり、と多様で、舟橋氏はそれをいくつかの類型に分けて整理している。
第八章からは、具体的に地役人(山方役)の江間家を取り上げて、地域社会との関係のあり方を探る。江間家は地役人でもあり、銀主でもあるという存在である。
まず、弘化三年の「百姓相続方仕法」の内容をめぐる対立から大庄屋・庄屋の内部分裂を見い出す。そして、弘化四年の大一揆の動向を取り上げて、この頃には社会的権力(地役人・大庄屋・銀主)の連合が地主小作関係を通じて小前層と対峙していたことを明らかにする。また、組レベルと郡中の間には、政治的運営能力に大きな差が開いていたことを指摘する。地役人は陰で郡中に影響力を及ぼしており、このような地役人の私的側面を活用した「政治領域」の存在・動向に注目して行く必要があるのではないかと主張する。
第九章では、地役人江間家の「御館入」関係を取り上げる。江間家は古くから島原藩に「御
館入」しており、ときに藩主に御目見えし、扶持を得ていた。そのほか藩士から情報を得たり、地域への助成金を名目として藩から私的な金を引き出すなど、「御館入」関係を江間家の私的利益に利用することもあった。嘉永四年からは肥後藩にも「御館入」している。江間家は、富岡陣屋と肥後藩の間に立ち、問い合わせに回答したり折衝を行ったりと、地域内部で発揮していた「調整機能」を領外に対しても応用していたとする。しかし、「御館入」関係が在地社会へ影響を及ぼすことはなかった、と述べる。
第三編「結」では、地域社会には独自の「政治社会」(政治的な力学が働く関係や場)があり、村役人層の担う「百姓的世界」とは独立して存在していたとし、そのような場のあり方を追求する研究の蓄積を喚起する。
終章では、渡辺氏が現在の地域社会論に提起したい点について述べている。まず@政治的位相と経済的・社会的位相、共存と対抗の関係など、基礎構造の分析を踏まえて地域社会像を提示することの重要性、を指摘し、次にA大庄屋の位置づけの問題について、評価より実証過程に留意し、長い時間軸で多方面から検討する必要性を強調する。次にB制度と運動の関係について、「領主・民衆関係の質と変化を明瞭に検証できる場としての地域」という視角に立って地域社会における最重要の政治課題を捉え、その「展開過程の分析」によって制度面、運動面を加味した地域社会像が提示できるとする。更にC制度論を実態論に高めていくことの必要性について述べる。それには、共通意志形成過程の解明、政治過程の実態分析、諸階層・諸党派への注目、などの方法を例示する。最後にD地役人・問屋・郷宿など、大庄屋・庄屋以外の地域社会構成要素へ着目すること、を提起する。

本書は非常に多彩な論点を含んでおり、内容紹介もおおざっぱとなったが、とりあえずここで紹介は措いておいて、若干の批評を加えることとしたい。なお、本書は何といっても手堅く綿密な実証に特長があり、史料解釈における問題はほとんど見出せないため、無い物ねだり的な批評となってしまうことを予め断っておく。また、評者の関心・能力といった事情により、批評が第一編の内容から取り上げる点に集中してしまったことを、了承いただきたい。
第一編は、天草郡の大庄屋制について扱っているが、やはりその成果は、正徳から近世後期にかけて長い期間を通じて大庄屋制の変化を見据えたことにあろう。また、大庄屋と一般の庄屋の関係や、大庄屋と陣屋(領主)との関係を配慮しながら大庄屋を捉えている点も評価できる。さらに、郡財政における銀主という利貸し資本の役割について明らかにした点は、それまであまり注目されてこなかったもので、興味深い。第三章において「銀主が郡中入用として金子を貸し、郡財政を支援することによって銀主と郡中の共生関係が生じる」というが、その共生関係は、ただ経済的な相互関係にとどまるのではなく、金銭援助を行っているという優越した立場から、銀主が大庄屋・庄屋層の地域運営に口出し(介入)するような面も現れるのではないかと想像される。そのような、金銭貸借関係から派生する関係のあり方へも留意が必要と思われる。
第二章・第三章で扱っている郡割・組合村割については、本書では郡中入用の勘定帳などを史料的典拠としているが、そのような帳簿は入用金割賦の「基準」或いは「理想」を示したものであることにも配慮が望まれる。陣屋の指導性が強い傍らで、陣屋の監査を受けずに大庄屋や庄屋らの判断のみで入用を割賦したケースもあることが指摘されているように、郡中入用は常に正規・通常の方法によって算用されたとは限らないといえよう(臨時割の増加はその反映でもあると考える)。また、勘定帳が作成され、村々に割賦された後も、割賦金の回収が滞ったり、或いは村で調達に困り、銀主の金銭に依存する場面が想定できることから、郡割の過程を最初から最後まで詳細に追っていくと、郡割に関わる大庄屋・銀主らのまた異なる対応や、そこから地域社会の実相が見出せるのではないか、と思われる。経過の不明な部分は仕方ないが、第二章で郡中入用の分析を、単に久留島浩氏が示した指標との比較に終わらせてしまっているのは惜しい。
第二章で、評価がやや性急に過ぎるのではないかと思われる点があるので指摘しておきたい。それは、大庄屋層が庄屋層に会合の参集を呼びかけた際、寄合への不参や遅刻が頻繁に見られる状況について、庄屋は「大庄屋の『権威』に屈していたとまではかんがえられない」と評価している部分である。渡辺氏は、庄屋層の郡中への政治参加に消極的な姿勢について、何らかの(意識的な)理由を考えるべきではないか、と終章で補足を加えているが、評者も同感である。すべての大庄屋・庄屋層・(地役人)が積極的な姿勢で地域社会に臨むのならば、第六章にいう地役人の陰での調整機能の必要性は薄れてしまう。そのような調整機能が要請される裏には、舟橋氏の言う「政治領域」に積極的に関わろうとする者と、「ことを表沙汰にせず、穏便に済ませたい」或いは「郡中のレベルに問題を引き出して時間や手間をかけたくない」などと考えるものとに分化していることを想定すべきだろう。寄合への遅参・不参も同様なところから起こっていると考えられ、大庄屋の強い「権威」で解決するものではないと思われる。
第四章で「銀主」は「幕藩的支配機構とは無縁な」ものであると述べられているが、江間家のように地役人であり銀主であるような存在、或いは大庄屋(庄屋)であり銀主であるようなものも、散見されるようである(家族関係の中で大庄屋・銀主・地役人が結びついているという指摘もある)。それを軽視してよいのであろうか。地域社会における政治的要素と経済的要素について弁別して論じることによって、地域社会構造は明快に説明されるが、複数の要素を共存させた存在が、併せ持つ要素のどちらの利益を優先し、或いはどのように両側面を成り立たせながら地域社会に活動したか、というような様相についても留意する必要があるのではないか。例えば、地役人の江間家が「御館入」関係を利用して島原藩から私的な金子を引き出していた、という第九章における指摘や、弘化三年の「百姓相続方仕法」の成立までのやり取りの中で江間家が一貫して銀主としての立場に立って行動していたという点には、その意味で関心をそそられる。
また、第四章の最後に課題として志村氏は、豪農論と組合村惣代庄屋論を関連付けていく必要があると述べている。志村氏と評者ではやや捉え方は異なるが、提言には賛同する。豪農論では、豪農が村役人であり、高利貸し資本であり、商業経営を行うという複合的なあり方が村方小前層や半プロ層へ社会・経済的に与えた規定性を問題としたように、惣代庄屋・大庄屋を始めとする「中間支配層」についても、その政治的活動と引き合わせながら、村方小前層ばかりではなく村役人や大小の商人に対し地域的に及ぼした社会・経済的影響について考える必要があろう。それによって、「社会的権力」論がかつての豪農的イメージに回帰するばかりではなく、積み重ねられてきた中間支配機構論を組み込んだ「社会的権力」像を構築し、議論を深めることができるのではないかと思う。
第一編の構成についてひとつ気になるところがある。それは第二章の位置づけがはっきりしない点である。大庄屋制の推移を第一章から第三章まで前期・中期・後期に分担しているのであろうが、中期(第二章)の特徴がはっきりぜず、内容が概説的で、また第三章と叙述が重複するような部分が見られるのが煩わしく、分担の過程で工夫することはできなかったのかと少し残念である。
第二編の「百姓相続方仕法」に関する二章についても興味深く読んだ。特に「無年季質地請戻権」の確立過程については新しい事例を示したといえよう。また、質地請戻しに対する小前層の反応ばかりではなく、村や地域への反応の広がりを指摘したことは、研究史的にも意義があろう。また第六章で、明治元年の「百姓相続方仕法」を、地租改正に結びつけて捉えた点は、近世的土地所有のあり方の変容とそれが近代的なものへ再編成されていく過程が窺われ、興味深い。
第五章で、〆切新田開発を行って郡中財源を創出しようとしたという一件を扱っているが、その立案に「(富岡町)町役人」が携わっていたという指摘が出て来る。この第五章ばかりでなくほかの章でも「町役人」に対してあまりこだわりがもたれないが、富岡附地役人江間家との開係で見ても、「町役人」はかなり重要な局面に関わっているように見える。同じ庄屋・年寄という名称であっても村方の役職とは位置が全く異なることが窺われるので、もう少しこれに着目してもよいのではないか。
また、第五章に「上田家は経済力の面からみれば銀主だった」(二六○頁)という表現があるが、そうすると、銀主であるものとそうでないものの境界は何であったのだろうか。これも全体にわたる話であるが、いったい「銀主」とはどのような条件を兼ね備えた存在であるか、どの章においてもはっきりと示されていない。自ら「銀主」と名乗るものとそうでないものには相違があるのであろうか。第七章では「寛政期には郡中の銀主の人数は二八六人に達し」と書かれているが、その典拠・数字の意味することは何なのであろうか。このように、「銀主」それ自体についての疑問がいくつか浮かぶ。
第二編についてあえて要望を述べれば、白川部達夫氏、神谷智氏、落合延孝氏らの「無年季質地請戻し慣行」に対する論を踏まえて、他地域の質地慣行との比較・位置づけを行って欲しかった。
第三編で取り上げた、地役人と地域社会との関係に関する論は、これまでの先行研究ではほとんど扱われなかった分野で、存在実態の提示自体が今後の地域社会研究の展開に寄与するものである。
第三編のほか他編においても、江間家と陣屋(役人)との親しい交際や、地役人中における江間家の惣代性を指摘するが、これは江間家が富岡町という陣屋許村に居を置いていることに大きな要因があるのではないか。陣屋許村は政治的情報が集中する場であり、一般の村に在るより有利な点を兼ね備えている。つまり、第一編にも関わることだが、陣屋と地役人・大庄屋の関係を考える際には、その居所の問題も念頭に置くべきではないかと考える。また、地役人が取次・工作の機能を果たすといっても、それが地役人一般に見られることなのか、大庄屋(郡会所)の果たす調整機能と明確な棲み分けがあるのか、確認する必要があろう。

本書を通読しで考えた点について述べたい。
まず、大庄屋・地役人・銀主三者の問題に共通することだが、彼らの「多様」的・「多面」的性格については、具体的分析を備えて本書で十分明らかにされたが、それが近代社会の中でどのように機能が分割され、彼らの能力が発揮されたのか、その方向性が示されていない。また、地役人が廃役となった後、彼らがなぜ政治的舞台から姿を消してしまったのか、なぜ地域社会に影響力を留め、引き続き調整機能を果たすことができなかったのか、疑問に残る。
次に、今後の近世地域社会論の方向についてであるが、「多様性・多面性」を明らかにして行くべき、という本書での主張には同意するが、ただそれのみを追究していくだけで十分であろうか。議論の発展になかなか結びつかないのではないかという危倶を感じる。本書は、史料の分析方法・研究手法については大いに教わるところがある。しかしその主張がなんとなく弱く感じるのは気のせいであろうか。最後に感想めいたことを述べて終わりに代えたい。
本書が実践したような地域社会研究の手法は、共同研究だからこそ為し得たものであって、渡辺氏が終章で提言するものは、とても個人のみで把握しきれる大きさのものではない。まるで素人考えのようだが、提言に沿った形で厳密に行おうとすると、個人による地域社会研究は実現不可能ではないかと感じるかもしれない。個人研究で地域社会論にどのように寄与できるのか、この、別の次元での方浅論についても考えた方がよいのではないだろうか。
また、本書で渡辺氏が「地域社会論とは何か」という問題に対して一つの見解を示してくれたおかげで、今まで心の中でもやもやしていたものが晴れてきたような気がする。これまでは「地域社会論」という言葉を漠然と使用しすぎたのではないだろうか。今後は、もう少し意識して「地域社会論」の動向を見ていこうではないか。
「地域社会論」の動向を知るためにも、本書の通読をお勧めする。また本書は、専門が村落史以外の方にとっても、方法論として大いに参考になると思われる。議論の高まることを期待したい。
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