渡邊昭五著『中近世放浪芸の系譜』
評者・花部英雄 掲載誌・國學院雑誌102-4(2001.4)


 放浪芸の文芸化という分野は、日本文学史においては、「平家物語」や「太平記」などの語り物文芸において認知されてきたといえよう。ただ庶民信仰の拡散に基づく寺社縁起、地方産土(うぶすな)神信仰の宣伝のための唱導、近世門付芸における口上など、細分化、底辺層化していった放浪芸の全貌は研究されていないばかりか、知られていないといっても過言ではない。しかし、中世末期から近世の都市の発展において、この放浪芸は著しく庶民性を濃くして浸透していった。それらのうち、貴顕にもてはやされた猿楽能や、都市文芸の華である歌舞伎、浄瑠璃は別格として、他の説経節、女猿楽、女歌舞伎、絵解き、諸種の門付芸などは、研究においても日陰に置かれてきたのが実情であろう。
 ところで、この放浪芸に渡邊昭五氏が着目したのは、田植歌の研究が一段落した昭和五十年頃のことで、それから四半世紀に及び、資料の乏しいのを慨嘆しつつ、近世期の画証などを援用しながら、放浪芸の全体像を著したのが本著である。すでに著者は、『芸能文化史辞典(中世篇)』(平三、名著出版)を編集しており、それが本著の基礎をなしている。また、これに続く「近世篇」、および「古代篇」という遠大な計画もあるというが、とりあえずは中世の部分について一応の区切りをつけたものといえる。能や狂言、歌舞伎などといった表通りの芸能の陰に隠れた、それでいてそれらの素地となった散楽を始めとする、中世の大衆芸能を通史的に解析したものである。本書は放浪芸の基層をふまえた各論十三章から構成されている。
(目次省略)
 ここでは各章の内容紹介と、またそれに対するいささかの私見を述べていきたい。
第一章 平安朝の散楽と解頤劇
 本章は、雅楽と散楽の混淆していた古代の相撲節会に行われた、後の放浪芸―放下芸につながる芸能の分析解明である。なにぶんにも資料の乏しいこの期の芸能について、物真似芸からアブローチしたものである。「見蛇楽(けんじゃがく)」を『信西古楽図』にある「環城楽(けんじょうがく)」とみる分析は鮮やかである。また猿楽の名称が、猿の褌脱から発するという見方は魅力的だが、著者の得意とするところの民俗学的立場からの補強が欲しい。
 その民俗儀礼から類証したのが、滑稽解頤劇(かいいげき)の物真似芸である(p七一)。著者はすでに『歌垣の研究』(昭五六・三弥井書店)や『田植歌謡と儀礼の研究』(昭四八・三弥井書店)等で、芸能の発生的基盤を共感呪術としての農耕儀礼からとする創見を明らかにしたが、その線上で滑稽解頤劇を解釈しており説得力がある。『新猿楽記』における半無言性科白劇の芸態の説明も、日頃、観念論者を自認している著者の独壇場といえるが、多少文献的な裏づけに乏しいと思うのは評者の強要であろうか。
第一章の補 中世放浪芸の母胎
本章は放浪芸の源流・母胎を担い手である社会の最下層民の側から素描したもので、二十年前に書かれた論文である。著者の放浪芸研究、および八○○ページにわたる本書のスタートとなったもので、芸能の起源を京都河川敷の住人によるものであることを主旨としている。階級社会の最低辺層にいる、いわゆる河原者と呼ばれる回向を目的とする無学不良の「いたか」の観点は、今後の研究者に多くの示唆を与えてくれるであろうし、そうした最下層民による芸能や文化の創出を、もっとダイナミックに捉えていく必要があるように受けとめた。
 第二章 永長大田楽から田楽法師原へ 
 本章はまず平安末期に洛中周辺で続いたマスヒスティリアの永長大田楽を初めとした大衆暴動にふれる。その原因を群衆心理による最低辺層の抵抗と意味づける。それは後の一向一揆などと底流において繋がるもので、下層民のことを考えない権力階級のエゴイズムや無策に対する、被差別層芸能民の暴動と捉える。
 本章の総論ともいえる「第五節 田楽風流から田楽能ヘ」は、田楽能の形成を祭礼資料等から跡づけていく。その田楽能へ移行する前の「田楽遊」(p一六一)について、もっと掘り下げ咀嚼する必要があろう。また、猿楽能を幕権の保護下によって完成された高尚な芸能とみる固定観念に対して、放浪芸の延長とみる(p一七一)著者の視点は、現今の謡曲研究者に対するアンチテーゼを含んだものといえる。
 第三章 七道者の性格
 この章では『大乗院寺社雑事記』に載る「七道者」、すなわち「猿楽 アルキ白拍 子アルキ御子 金タタキ 鉢タタキ アルキ横行 猿飼」について、その中世的姿を具体的に説明する。近世舞台芸に昇格していく前段階の賎視された放浪芸の実態にふれたものであるが、この分野の研究は謡曲研究に比してずいぶんと立ち後れていることを知らされる。著者によれば、今日の社会・風俗・文化・経済を改革推進してきたものは、こうした「放浪の被差別民」である(二一九ページ)という。過大評価の印象を受けるが、著者の被差別民へ向ける視線は的確であり、かつ暖かい。
 第四章 絵解き大道芸と売春・鉦叩き・人形遣い
 この章では絵解きの展開、盛衰について、絵画資料を多く用いながら丹念にたどっていく。中世の絵解き法師は、一方で人形遣いや鉦叩きでもあった。また女性の絵解きは熊野比丘尼と称され、尼の姿(形同沙弥)ではあるが、零落し売春も兼ねるようになったと指摘する。著者の後半生のライフワークともなった、庶民仏教の視聴覚的啓蒙である絵解きも、被差別民と深く密着していたことが知られる。
第五章 語り物芸人の系譜
本章では中世の語り物の担い手の系譜をたどる。著者は琵琶法師による平家語りの基礎を、安居院澄憲の説教の影響を強く受けた唱導僧による戦記語りにおく。戦死者の鎮霊にかかわる唱導僧の語りが、琵琶を伴奏にする琵琶法師たちによってしだいに洗練され、当道座の支配のもとに隆盛を迎えていったとする。もちろん、彼ら形同沙弥は唱導僧と異なるが、姿恰好をした彼らが、受戒戒壇を得た正式僧よりも、庶民浄土教の唱導に益したところは多かったと、著者は述べる。軍記物語の流れの一方で、戦国の争乱に陣僧として戦場へ赴き、戦病死者の供養に従事したセミプロによる地方の戦記語りがあったという。この陣僧の語りを素材にして太平記が形成されていったことを、陣僧の活躍や語りの事例に基づきながら検証している。著者はこうした陣僧の実体を、西大寺を中心にした禅律僧、およぴ時衆・一向衆などの下層の僧に比定している。中世中期あたりまでは一向宗や一向衆、一向派なども混淆視されていた呼び名であったといい、また時衆、一向衆、浄土真宗、真言律衆なども一般には区別がつかなかったという。したがって流浪する下層民が従軍僧となり、戦場から帰って物語僧になった(三八三ページ)という見解は、硬直した宗旨宗派意識をもつ近代の研究者には新鮮である。章の最後に、その太平記が近世に入ってどのように読まれていったのか、いわゆる「太平記読み」の展開について、種々の資料を用いて丹念に跡づけている。
 第六章 太平記語り手と中世禅律衆 
 この章は第五章四節を敷衍詳説した続論であり、太平記の戦記語りに深く関わる西大寺周辺の禅律僧の動向を中心にふれている。その禅律衆以外にも流浪僧、陣僧など宗派にとらわれない下層民たちの戦いへの加担が南朝の戦力となり六十年もの長きを支えたというのは説得力がある。
 著者の関心と追究は、太平記等の戦記語りの文芸性、物語性にあるよりは、語り手や語り手を輩出する社会システムに向けられている。形同沙弥に代表される社会の底辺に生きる被差別民のエネルギーが、芸能文化の原動力となったのだと説く。それは本章に限らず全体を貫く基調でもあり、本書の評価は深くここに関わってくるように思われる。
 第七章 歩き巫女の拡散と芸能化 
 本章では古代から現代にいたる巫女の歴史を通観する。有史以前の産土神(うぶすな)を中心とした信仰圏が、しだいに国家へと統合されていく過程で、敗者となった信仰圏の産土神を祀る巫女の堕落化したのが「歩き巫女」の発生だとする。この発想は敗者の下賎民の芸能文化の歴史を構築しようとする著者の視点と軌を一にするもので、その意味でこの七章の序にあたる第一節「有史以前より零落化への巫女」は注目される。第二節以降は、すでに著わした著者の『梁塵秘抄の風俗と文芸』の焼き直しといえる。第四節の民俗宗教としての巫女は、全国的な事例を歴史的意義づけをしながら紹介している。末尾の「オシラ神」の言及は示唆されるところが多い。殊にシラと養蚕との関わりを、被差別民を媒介にとらえようとする発想は興味深いが、いくぶん実証性に欠ける。
 第八章 中近世期の門付芸 
 著者の「あとがき」によれば、当初本書を構想するにあたって、本章を中心に放下芸の系譜を拡大する意図のようであったが、書き始めてから膨大な量になることが予想され、急遽方向転換して「鹿島の事ぶれ」「風神払い」「放下」の三項目にしぼったという。そのいずれも資料を多用しながらの手堅い論法は、資料の収集と吟味に時間をかけた結果であろう。
 「鹿島の事ぶれ」に関する近世の用例は多いが、それ以前には見当たらないという。著者は放下芸としての「事ぶれ」を、彌勒下生の庶民信仰の表れととらえ、その淵源を農事の「コト」の知らせに置いている。「風神払い」は、中世の病気観を示すものとして、罪や穢がれとの関係から洞察している。虫送りなどの農耕の豊穣約諾の神事と病災の感冒とが結びつく因果について、事例に基づいた掘り下げがあれば説得力が増すように思われた。「放下」は第一章の散楽からの縦のつながりにおいて論じられている。「自然居士」をめぐる、時代、階層による評価や意味づけは興味深い。
 第九章 弘法大師を騙った偽僧たち―高野聖
 本章ではまず、知名度では全国一とされる弘法大師の信仰の文化的背景を、庶民的視点から追究する。その核心を高野聖とみる著者は、蓮華谷、萱堂、千手院谷を拠点とした三集団の高野聖たちの動向を資料に基づきながらたどる。この時宗的雑宗性をそなえた念仏聖が、高野山における庶民浄土教の流れを形成してきたことの意義については賛同である。ただ萱堂聖の祖とされる覚心臨済宗の法澄覚心とのつながりが、いまひとつ見えてこないのがもどかしい。なお小生の関心でいえば、近世の堕落した高野聖の姿は、民間のサイギョウ伝承に近似しており、示唆を与えられた。「西行」に仮託される詐欺的な高野聖の蔓延していたのが中世であり、中近世の文芸は彼らの詐欺的な表現と示威によってずいぶんと賑やかになったといえる。
 第十章 声聞師と万歳
 「声聞師」の語源は仏教でいう「声聞身」(仏弟子の姿)の意であるが、本所の夫役労働に奉仕した散所法師が、その声聞師を自称するのは、被差別民としての賎視化を免れるためだったのではないか、とユニークな見解を示している。禁忌・俗信に頼った問占(というら)による平安時代の宮廷陰陽道は、中世に入ると散所法師である声聞師たちによって受け継がれていく。都の屍体や汚物排除の役を担う散所民が、同時に死穢を浄祓する下級の陰陽師として、民間の祈祷や卜占にも関わっていく。さらには門付芸としての曲舞、千秋万歳などの芸能へと転じていく様を、日記類を例に挙げながら論じている。その声聞師が、一向一揆のオルガナイザーとして権力に反抗したために、信長、秀吉たちによって処刑弾圧されていったという指摘は傾聴すべきであろう。
 第十一章 芸能と芸能者―むすびに代えて
 本章では芸能およぴ芸能者の劣位、卑賎視の社会的背景に言及する。著者はその理由を、芸能の狂言綺語性、芸能者の被差別性に基づくとする。前者を古代以来の仏教に胚胎する「妄語戒」から解きほぐし、後者は無産、無手の被差別民を生みだす中近世の農村構造に深く関わっているという。その無産無手の典型として「売春と芸能」を取り上げて論ずる、四節「職と能―売春芸能史」は一読に値する。虐げられてきた女性に注ぐ著者の視線は優しいが、反面そうした忍従を強いてきた権力者に向ける目は手厳しい。皇軍の名のもとに慰安婦という遊女を仕立て強制してきた近代の歴史は「日本史の最高の汚点であり、日本人の劣悪性である。」と断ずる厳しさは、本書を貫く基調でもある。
付章 掛幅絵伝史―宗僧掛幅絵伝絵解き史の緒論
 本章は第四章の「絵解き大道芸と売春・鉦叩き・人形遣い」に接続する内容で、これまで全体として論じられることのなかった掛幅絵の体系化を試みている。著者によれば、掛幅絵は教団の宣伝のための中世的なものと、観光性や物語性がきわだってくる近世絵伝とに大別できるという。まずは中世の高僧絵伝に多い親鸞、蓮如、聖徳太子、法然、弘法大師を取り上げ、掛幅絵をめぐる宗教的背景に触れる。そのうち弘法大師を除いた四人の掛幅絵が、浄土真宗の寺院に多いことについて、宗祖絵伝の嚆矢が法然絵伝であり、浄土宗念仏衆徒による初期の絵解きの宣伝活動によるものとする創見を述べている。一方、近世に入ると高僧絵伝が多様化し、信仰よりも娯楽観光性に傾いていくという。なお、著者の掛幅絵の見解に対する批判や、またそれに対する著者の反論もあり、いまその是非に関わることはできないが、高いレベルでの議論を望みたい。
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さて、本書で話題にしてきた中近世の芸能者たちは、現代のマスメディアに登場する芸能人の社会的地位、影響力からは想像もできないほど劣悪な状況下と、賎視の中に置かれてきた、と著者はたびたび述べている。芸能および芸能者の社会的位置と、その背景に深い関心を寄せる著者ならではの指摘である。
ところで、著者は日ごろ、日本文学史が三角形のピラミッドの上の三パーセントぐらいの、食生活に困らなかった貴顕階級の花鳥風月を対象としていることに不満を述べている。それは文学ではない、文学はパンに飢えた人々の上にあるという。思想はその飢餓において物語化されると、芭蕉や西鶴、荷風を引き合いに出して語る。その視線にたって、構築したのが被差別民の放浪芸といえる。本書は庶民の文学をめざす著者の布石といえる。社会派学者らしい発想と旺盛なチャレンジ精神を持って常に前向きに進んでいく著者の今後に、なおいっそうの声援を送りたい。

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