木戸田四郎著『近世村方騒動の変容−下総国結城郡の場合−』

評者:桐原 邦夫
「茨城の思想研究」11(2012.5)

   一

 平成二三年(二〇一一)十二月に発行の本書は、江戸時代初期から幕末期に至る二百数十年という長い期間におよぶ村方騒動の推移をごく狭い地域で検討したものである。検討対象としたのは、下総国結城郡矢畑村・結城寺村・上山川村を中心とした地域である(この三村は、明治二十二年(一八八九)の町村制施行により、合併して上山川村となる。現在は結城市に含まれる)。
 著者は「ごく狭い地域で検討した、ささやかな報告書」と謙遜して述べているが、その検討には、五十年近い長期にわたって史料を発掘し、検討した研究の結果であることを筆者は強調したい。というのは、本書で主として用いられている広江昭夫家と会澤至家の史料などは、著者の長年の苦労によって「発掘」されたものであり、著者の長年に及ぶ研究生活がなければ、発掘できなかった史料だからである。また、徳川時代の早い時期の名主であった鈴木家史料は、結城市史近世部会が行った史料調査の中で「発見」したものであるが、これらの発掘も著者の研究成果におおきく依存しての発掘だからである。最近、著者が『茨城県史研究』第九六号に寄稿された『歴史随想・「広江家ノ記録」について』には、その辺の事情が興味深く述べられていて、本書とともに是非熟読するべきものとなっている。

   二

 本書は六つの論文と、一つの付論からなっているが、その構成は以下の通りである。
 「はしがき」、「第一部 江戸時代前期の村方騒擾」として、「江戸時代前期の村方騒擾−下総国結城郡矢畑村を中心として−」を、「第二部 江戸時代中後期の村方騒動」では、「江戸時代中期の村方騒動−下総国結城郡矢畑村の場合−」、「高札場移転をめぐる争い−江戸時代後期結城郡矢畑村の村方騒動−」の二論文を、「第三部 幕末期の村方騒動」では、「幕末の村方騒動−下総国結城郡矢畑村の場合−」、「付 北関東地域におけるブルジョア的発展」、「幕末の村方騒動−下総国結城郡上山川村の場合−」、「慶応三年の不穏集会−下総国結城郡上山川村など三村窮民の集会−」の三論文と付論。

 「はじめに」においては、江戸時代初期、中後期、幕末期における農民の生産・流通等と関連させながら本書で述べている村方騒動を概観しているが、それは著者による本書の内容の要約でもある。

 第一の論文、「江戸時代前期の村方騒擾−下総国結城郡矢畑村を中心として−」では、日本における近世的秩序の形成期での村方騒動を結城郡矢畑村とその周辺について考察している。この地域は中世を通じて結城氏の支配下にあったが、慶長六年(一六〇一)には幕府の直轄地となり、幕府の代官伊奈忠次が支配した。忠次の支配下で慶長七年検地が実施され、結城寺村の村高は二〇一石となったと伝えられる。村高の三分の一が結城寺の寺領となり、残り三分の二が慶長九年松平定綱の所領となったが、当時この村は矢畑村と呼ばれていなかった。しかし寛文年間(一六六一〜七二)になると、正式に矢畑村と呼ばれるようになる。
 寛文年間になると矢畑村の周辺には、水田耕作の肥料とするための草刈り場をめぐって近隣野村野の農民との争いが生じている。矢畑村以外でも、村境や草刈り場を巡る紛争が多発していた。明暦元年(一六五五)には上山川村と上成村の農民が、草刈り場の所属をめぐって争った。また上山川村と大木村の農民の争いは貞享二年(一六八五)まで続いていた。
 村境や草刈り場を巡る紛争は、隣接する二か村が争うばかりでなく、さらに多くの村々を巻き込むことが見られ、紛争は長期に及んだ。また、紛争は相互に実力をもって激しく争うばかりでなく、領主や幕府に訴えて、長期にわたる争いとなることが多かった。
 境界設定や村民の所属を巡る隣接の村々との争いは、江戸時代前期の村方騒擾の主流となった。矢畑村でも事情は同じである。もともと結城寺村の一部であったこの村は、鹿窪村や上山川村など周囲の大村に伍して、村域を維持することは困難であった。争議では小村の村民をまとめて大村と争うこととなり、村民をリードする名主・組頭の役割が大きな意味をもったとしている。

 第二論文の「江戸時代中期の村方騒動−下総国結城郡矢畑村の場合−」では、矢畑村の入会地開墾をめぐる村民の対立激化、甚兵衛の名主役罷免と名主役復帰運動の挫折、孫左衛門への検地帳・高札場移管の問題を考察している。そうして、村高一三一石、戸数約四〇戸の小村である矢畑村が、名主の交代劇の長期化よって村政の混乱を示し、村落共同体のあり方をめぐっても大変興味深い推移を示したと結論づけている。

 第三論文の「高札場移転をめぐる争い−江戸時代後期結城郡矢畑村の村方騒動−」では、江戸時代後期の農村荒廃と商品経済化を具体的に矢畑村について考察した後に、そのような矢畑村の荒廃状況が深刻化する過程で、文政五年(一八二二)ごろから問題となった検地帳の管理を巡る問題と、それに付随して起った高札場の管理問題をめぐる村方騒擾とを考察している。この論文は第二論文での考察を掘り下げたものになっている。

 村方騒動は各時期の村落構造の変化を反映して、それぞれ独自の特色をもつ。このことを確認した上で、第四論文「幕末の村方騒動−下総国結城郡矢畑村の場合−」と第五論文「幕末の村方騒動−下総国結城郡上山川村の場合−」は、幕末期の矢畑村と上山川村の村方騒動を考察している。
 第四論文では、幕末矢畑村の農家構成を考察した後、享保年間(一七二〇年代)の孫左衛門家との争いに敗れた後、長期にわたって振るわなかった広江本家の復興が、小商品生産の担い手として発展していたことに裏づけられて、広江家の甚兵衛が天保三年(一八三二)名主役への就任を果たすことを述べている。そうしてこの頃日本は深刻な不安状況に突入していた。周辺村々の不安状況は、直ちに矢畑村にも波及し、甚兵衛所有林と矢畑村入会林との境界に立つ林木を一方的に伐採した「事件」を巡って甚兵衛が一橋藩役所へ訴えている。これに対して農民たちの訴状が同じ藩役所へ提出されたが、その訴状の内容は名主甚兵衛の名主にあるまじき行いを具体的に指摘し、百姓を苦しめている名主甚兵衛を退役させて欲しいと訴えている。村民たちは名主甚兵衛の辞任を強く要求し、村中一丸となって立ち上がっている。この訴状に藩がどのように対処したかは明らかでないが、広江家史料によれば、甚兵衛は間もなく名主役の辞任を余儀なくされ、甚兵衛に替って長男で分家したばかりの常三郎が、十五歳の若さで名主見習に就任し、組頭武八が名主後見を兼ねることになった。
 この論文には、『栃木県史しおり 史料編近世3』に執筆の「北関東地域におけるブルジョア的発展」が付論として付けられている。その論旨は、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて、「関東農村の荒廃」が盛んに論じられている戦後の歴史学界の動向に対して、著者は「商品経済の農村への浸透は、農家経済にマイナスの作用ばかりもたらしたものではない。農民のなかには、特産物生産やその販売を通じて発展した階層もみられた。特に十九世紀以降は、国内市場の広汎な形成に刺戟されて、この地方でも商品経済は一層発展した。」「後進地帯といわれた下野・常陸地方でも、十九世紀初頭から商品生産はブルジョア的本質を持つようになった」と述べ、幕末期の村方騒動の背後にはこのような動向があったことを強調していることは、注目される。

 第五論文は幕末期の上山川村の村方騒動を考察している。まず、文政年間の村方騒動が考察される。上山川村では、江戸中期以降の荒廃現象が寛政年間(一七八九−一八〇〇)以降徐々に回復に向かっていた。このような過程で、復興策の一つとして年貢・諸夫銭納入の費用節減が重要課題として登場した。村では対策の過程で新しい百姓代が六人選出されて実務を担当することとなった。しかし、経済復興へ向かって進む過程において、旧支配層と改革を推進する層との間の厳しい対立となった。
 この過程で名主親子が退任を余儀なくされ、その下で百姓代を勤めた七兵衛が、文政三年(一八〇三)四月、上山川村惣代宛てに出した史料によれば、七兵衛は百姓代在任中、村民に大きな迷惑を掛けたことを反省し、菩提寺東持寺へ入って恭順の意を表明しているという。この上山川村の村方騒動は天保年間にも続き、村役人の失政を厳しく追求している。この村方騒動の原因には、鬼怒川寄洲の掘削問題も大きく関わっている。この論文では、文政元年(一八一八)から安政四年(一八五七)に至る約四〇年間、上山川村ではぼ連続して起った名主の不正を追及する騒動が考察されている。
 村方騒動の一進一退の経過をたどった経過をみて、著者は「村民たちは何故これはどまでの苦労を重ねたのであろうかとため息がでた」と述べている。明治期の上山川村のリーダーはこのような経験の持主が多かったとも述べていることが、印象深かった。

 第六論文「慶応三年の不穏集会−下野国結城郡上山川村など三村窮民の集会−」は、数ヶ月にわたる長期の集会ではなく、わずか数日の集会で終ったが、明らかに重大な暴力的集会であり、慶応三年(一八六七)という時期のこのような集会は大変注目されるという。この集会では貧民層が富農層に突きつけた要求がその主な内容をなした。まず、「金物衣類先年の通り」と主張している。ここで金物とは、貧民たちの日常使用する農具・鍋釜などの生活必需品や職人の諸道具に関することで、これらの質草に対して、従来通りの評価と融資を要求していたと考えられる。第二項もこれと関連して銭相場の下落を理由として、質屋が貸し渋りに対してその是正を強く迫ったものである。第三項は、職人の手間賃に関する要求であった。要求書で農民たちは、油絞りならびに穀物取引の自由を強く求めていた。農民たちは、村内富豪で油絞兼業のものたちが、営業を独占していることに強く抗議し、集会参加の農民にも営業活動の自由を要求した。史料によると、一部の富豪だけの営業独占は、貧農たちとの間で対立を激化する一因となっていた。不穏集会はわずか四日間の事件に過ぎないが、その前後に何らかの動きがあったことは、容易に想像できる、という。そうして、これらの不穏集会は、幕末維新期の全国的な動向として新たな視点から再検討を求められることになると、指摘している。

  三

 著者はこれらの論文は、水戸市全隈町に建設されることとなった産廃処分場建設反対の訴訟を戦う中での苦しい過程の中で執筆されたという。
 著者の研究の出発であり、かつ課題は「近代化の歴史的起点」であった。それは江戸時代の農民が、近代化の担い手として如何に成長してきたかということと、不可分であった。その意味で、一進一退の経過をたどった村方騒動を具体的に一地域において、江戸時代の初期から幕末維新期にまで考察した本書は、著者のこれまでの研究の総決算的な論文集となっている。


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