尹 裕 淑著『近世日朝通交と倭舘』

評者:田代 和生
「日本歴史」770(2012.7)

 本書は、「鎖国」時代に朝鮮釜山に設置されていた日本人居住地「倭館(わかん)」に注目し、その管理・運営面から日朝両国の交流実態を明らかにしたものである。著者の尹裕淑(ユンユスク)氏は、現在、東北亜歴史財団(ソウル特別市)に所属する韓国の若手研究者である。日本留学を機に近世古文書に挑戦し、外国人ながらも抜群の解読能力を修得した。本書はそうした著者の能力を遺憾なく発揮し、特に対馬宗家に残る厖大な『宗家文書』を縦横に駆使して、朝鮮史料だけでは解明し難い詳細な実態面にまで研究が及んでいる。近年韓国史学の研究レベルは高い。本書は、日韓両国で個別に発表されていた最新の研究成果を見事に融合させ、随所に新しい知見を盛り込んだ専門性の高い近世日朝交流史研究となっている。
 本書の各章の構成は、以下の通りである。

 第一章 約条からみた倭館の規定
 第二章 癸亥約条(約条制札碑)の運用実態
 補 論 日朝通交における抜船事件
 第三章 草梁倭館への移管と倭館の造営・修理・改建
 第四章 己巳約条による日朝通交体制の改変と倭館政策

 近世の日朝関係は、慶長十四年(一六〇九)己酉(きゆう)約条締結によって通交が回復する。ただし同約条は、対馬からの歳遣船を二〇艘に限るなど、通交貿易者の基本的大原則を明記したものにすぎない。いっぼう交流の拠点となった倭館は、当初設置されていた朝鮮釜山の豆毛浦(トモポ)(古倭館)から草梁(チョリヤン)(新倭館)へ延宝六年(一六七八)に移転し、東アジア最大規模の外国人居住地が誕生した。貿易の拡大化と居住日本人の増加が進むかたわら、内国人(朝鮮)と外国人(日本)との間でさまざまなトラブルが発生し、それを規制するために多くの約条や規定項目が設けられた。本書は、@己酉約条後の諸約条を総合的に検討したもの(第一章・二章・四章)と、A倭館の改築・改修にかかわる諸問題を追求したもの(第三章)とに大別され、この両側面から近世倭館の運営実態を明らかにしている。

 まず本書の過半を占める約条についてみていく。近世初期から中期にかけて倭館在住の日本人が引き起こす問題は、密貿易・蘭出(らんしゅつ)(規定区域からの脱出)・交奸(こうかん)(倭館への朝鮮女性連れ込み)の三点に集約され、その帰結ともいうべき国際法が天和三年(一六八三)の癸亥(きがい)約条と正徳元年(一七一一)の辛卯(しんぼう)約条(交奸約条)として取り交わされた。このうち癸亥約条については、第二章とその補論においてさまざまな実例をあげて運用実態を検討しており、一貫して「彼此一罪」(死刑)を要求する朝鮮側の厳罰主義に対して、日本側は罪と罰に対する適法の処理を求めるなど、双方の社会通念と法解釈への姿勢の相違点が明らかにされている。もとよりこの癸亥約条じたい、突然朝鮮側から通告されたものではなく、ここに至るまでに古倭館時代から複数の約条や禁止項目が倭館の日本人に提示されている。著者はそれら難解な約条の一つ一つを、歴史的背景を含めて丁寧に解説しており、時代の流れとともに変貌する倭館のさまざまな側面に読者はいつのまにか引き込まれていく。
 第四章でとりあげる文化六年(一八〇九)己巳(きし)約条は、単なる約条の解説に終わることなく、近世後期の日朝貿易の一大変革を分析した点で注目される。約条の内容は、@便船(中絶船)の廃止、A差倭(さわ)(臨時使節)の派遣制限、B官営貿易の公木(朝鮮木綿)と米の換算率の変更、C倭館改修の年限と費用の改定、D漂着船支給物の計算法、E新門の増設などで、いずれも貿易を独占する対馬藩側に不利な条項で占められていた。それにもかかわらずこれを全面的に受け入れさせた理由は、二年後にひかえる通信使の対馬易地聘礼を成功裏に収めたいと願う対馬側の思惑を、朝鮮側が的確にとらえたためであるという。通信使派遣を利用して対馬へ脅しをかける外交戦術は、癸亥・辛卯両約条締結時にもみられることで、文化交流の側面が強調される近世中後期の通信使研究に一石を投じている。
 豆毛浦倭館から草梁倭館終焉まで三〇〇年にわたる倭館の造営・改修・改築をとりあげた第三章は、近世倭館の変遷が詳細に観察され、特に朝鮮側の倭館維持に関するさまざまな施策を初めて明らかにした労作である。新造された草梁倭館は、「大庁」と称す大規模建築に限り、大凡二十五年ごとの大改築(大藍董)と部分的改建(小藍董)によって維持・管理がなされ、すべての資材と資金は朝鮮側負担とされた。建築は日本人大工を含めた日朝の合同作業であったが、これは正保三年(一六四六)豆毛浦倭館の大改築で室内を日本風に改築した前例によるものという。屋根は雨漏り対策を重視して、瓦の葺き方を日本式の三枚がけにしたと指摘しており(二一一頁)、近年建築史分野が提唱する「朝鮮式屋根造りのため雨漏りが絶えない」との主張と大きく対立する。全期間三十回以上に及ぶ修理の全貌は、表一〇「倭館の修理・改建沿革」(一九五頁)に明示されており、倭館の維持経費が朝鮮王朝の財政を圧迫したため天保二年(一八三一)日本人大工の投入を断念し、経費見積の仕方も変更せざるを得なくなった経緯を一覧できる。

 本書で明らかにされた内容は、日本と朝鮮の社会の違いをあぶり出し、そこから新たな問題や疑問が想起される。例えば前記第四章Bの公木と米の換算率変更後も納税する朝鮮側農民の不利益さは改善されず、こうした不条理な約条を王朝がなぜ何百年も支持したのか不思議でならない。もし日本ならば出島・唐人屋敷の廻りを農民一揆が取り囲み、館は跡形もなくなっていただろうにと考えさせられる。また朝鮮側にとっての倭館の存在意義について、著者は「経済的施恵により外夷(対馬)を服属させ、外交理念上の意義を優先させるため」(二六八頁)赤字貿易を省みずに莫大な経費を投入したとするが、これではまだ不十分である。国家的な見地からすれば、宗主国で世界最大の銀本位国中国との経済的連携を保持するため、かつ朝鮮国内の貨幣経済化にとって不可欠な日本銀・銅の獲得は、倭館の存在無くしては語れない。私人単位では特権商人に限らず、公木を高利貸しに流用して私財を蓄積したという訳官たち(二一六頁)、さらに彼らの背後にいて倭館貿易への巨額投資を惜しまない王朝政府を支える高官たちもまた、倭館の存続を切に願っていたはずである。
 最後に、本書の構成順を第三章の建造物(ハード)を第一章とし、約条(ソフト)を第二章以下にすると、論旨の展開がよりスムーズになる。またこれほど内容豊富な専門書に索引が無いのは惜しいことで、いずれも読者のため考慮されてしかるべきであろう。
(たしろ・かずい 慶應義塾大学名誉教授)


詳細 注文へ 戻る