奥野中彦著『日本古代・中世の国家軍制』 |
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評者:中村 光一 | |||||
「日本歴史」769(2012.6) |
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本書は、二〇一〇年十一月に八十歳をもって逝去された奥野中彦氏の遺著である。三木清氏の筆になる後記によれば、二〇〇九年末に余命六カ月と告げられた奥野氏は、『荘園史と荘園絵図』(東京堂出版、二〇一〇年)とともに本書の刊行を企図され、一九六七年発表の「国司受領層の武士化とその政治的役割」(第V編第二章)から、新稿である「鎌倉幕府の草創と相模国武士団−相模国武士団中村一族を中心に−」(第X編第二章)までの二十六論考を、上下巻二冊、T〜X編および附編にまとめて一書となす作業に着手された。 氏はあとがきで本書刊行の理由を、これまで「古代国家軍制から中世国家軍制への転換・形成を一貫して論究したものがない」ことを挙げられ、「この書で意を尽くしたのは、理論の構築ではなく、棟梁制武士団が中世国家=鎌倉幕府を創始するに至る歴史過程の重視である」と述べられている。さらに自らの軍制研究の拠って立つ理念として、日本国憲法第九条の堅持にまで言及されており、本書は、まさに氏の歴史研究の集大成として位置付けられる著書といえよう。 また、「歴史過程の重視」に意を注がれたことによるためか、氏説には通説とはいささか見解を異にする点も見受けられる。例を挙げると、「元慶の乱をめぐって−九世紀末の東北戦乱の意義−」(第U編第二章)で、氏はこの乱は「国家がその威信を賭けてなした征戦遂行を、はじめて途中断念した戦い」であり、「この乱を契機に、軍制を含めて国家そのものが大きく転換していく」と述べられている。しかし、『日本三代実録』におけるこの戦乱に関する記述は、ある時期以降簡略となって顛末が見えにくくなっており、少なくとも同書の編纂段階では、この乱を特別なものとして位置付ける意識があったとは考えにくい。さらに、征戦を途中断念した初めての戦いと捉えるならば、延暦二十四年(八〇五)のいわゆる「徳政相論」をどう評価するのか、明らかにする必要があろう。そもそも、この乱への朝廷の対応自体が確固たる方針に基づいていたとは考えづらく、ついに征夷将軍・征夷大将軍が任命されることもなかったのである。 さらに、氏の論考中には構想が先行することで、史料の解釈にやや粗さを感じさせる箇所も見受けられる。「防人歌をめぐって」(第T編補論)において、氏は『万葉集』巻二十収載の天平勝宝七歳(七五五)の進上防人歌が為政者を動かし、天平宝字元年(七五七)の東国防人廃止の理由の一つとなったとされている。しかし、北山茂夫(『大伴家持』平凡社、一九七一年)の指摘のように、大伴家持が公務として兵部省に提出した防人の歌と、家持自身の歌日記的な様相を持つ『万葉集』巻二十の記述とを同列に論じることはできないだろう。 二十余にのぼる論考の一部を取り上げ、批評がいささか細部にわたったことをご海容いただきたい。奥野氏は余命とされた六カ月からさらに約半年間、闘病を続けられたが、惜しくも本書の初校段階でお亡くなりになった。そして再校以降の作業は、氏が生前民衆史研究会等で交流のあった六名の友人たちの手に受け継がれ、本書は公刊に至った。本書に収載された論考には、『民衆史研究』や氏の勤務校の紀要等に発表されたものも多く、原形態のままでは閲覧・入手が容易なものばかりではなかった。それがこうして一書の形にまとまり、氏説に触れる機会が増えたことは慶賀の至りであり、再校以降の労をとられた方々に敬意を表したいと思う。 |
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