太田尚宏著『幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域』

評者:和泉 清司
「日本歴史」767(2012.4)

 本書の構成は第一部「幕府代官伊奈氏の基礎的研究」として第一章「『関東郡代』の呼称と職制」、第二章「幕府代官伊奈氏の歴史的性格」、第三章「伊奈氏の貸付金政策と家中騒動」、第二部「江戸幕府の地域編成と伊奈氏」として第四章「江戸城『御菜御肴』上納制度と代官伊奈氏」、第五章「御鷹野御用組合の形成・展開と地域」、第六章「享保改革期における『御場掛』の活動と植樹政策」の二部、六章構成となっている。

 第一章「『関東郡代』の呼称と職制」では、伊奈氏(忠治系)が従来の研究者の間では「関東郡代」と呼ばれる地位を代々継承し、関東全域の幕領支配の中心となってきたことを当然のごとく論じてきたことに疑問を提示した。太田氏によれば「関東郡代」という言葉をキーワードとして、民間が刊行していた『武鑑』類では「関東郡代」や「御代官之頭」などと記載されているのに対し、幕府の記録類には「御代官」ないし「関東御代官」としてしか記載されておらず、「関東郡代」の名称は八代目の伊奈忠尊が寛政四年(一七八八)失脚した直後、勘定奉行の久世広民が「関東郡代」に就任した時にはじめて幕府の史料に出てくるという。さらに『寛政重修諸家譜』の伊奈氏の項の編纂過程における「関東郡代」の名称について分析し、伊奈氏が編纂にあたって幕府に提出した『伊奈氏略譜』には、代々「関東郡代」の名称を記載しているが、幕府側の編纂者は正式な職名とは判断せず、『伊奈氏略譜』を修正し、かつ『寛政重修諸家譜』でも伊奈忠次には「関東の郡代」と記載しているものの、忠治以後については「御代官」としてしか記載していないことを実証して、このことから幕府側が伊奈氏を「関東郡代」としては見なしていなかったとした。したがって従来忠治以来伊奈氏が「関東郡代」と呼ばれてきたことは、同じ郡代でも美濃郡代や飛騨郡代のような正式な幕府の役職ではなく、伊奈氏の「自称」または近世初期に諸書にみられる「近江郡代」(小堀政一)など広範な地域を支配する代官の呼称と同じであるとしている。
 このような太田氏の見解は、実証的であるがゆえに大変説得力がある。たしかに評者自身も伊奈氏の研究を続けてきたが、地方史料類には伊奈氏が「関東郡代」の肩書きを使っているものは見られず、太田氏のいわれる通り「自称」ないし初期に広域的支配をする代官の「呼称」であったかもしれない。しかし伊奈氏の二十数万石に及ぶ大きな支配地や伊奈氏が持っていた広範な地方支配の権限、さらに寛永二十年(一六四三)以後、伊奈忠治が「代官の得失を糺」(『寛政重修諸家譜』)す権限を与えられたこと、また鷹場支配のほか、近世中期以降掛御用や公金貸付などの役儀を通して、農民からは「神仏之様」に敬い慕われる存在となっていったこと、中期以降伊奈氏の家督相続にあたっては伊奈氏、小堀氏、美濃郡代、西国郡代、飛?郡代の序列であったことなど、伊奈氏は単なる代官ではなく(この点は太田氏も認めている)、上記のような強い権限を持っている存在であった。そのため、たとえ伊奈氏が史料上は「関東御代官」であったとしても、実質的には「関東郡代」のような呼称が与えられていたのであろう。この呼称以外適切な名称は考えにくいので、公式な役職名ではないものの「関東郡代」であったと考えるのが適当ではなかろうか。

 第三章「伊奈氏の貸付金政策と家中騒動」では、これらが寛政四年の伊奈氏改易につながる要因となっていたことを視野において考察している。特に伊奈氏が代官として「御鷹野御用」や「江戸城上納物」の所管など「掛り御用向」として多くの仕事を行うほか、「臨時御用向」をも行う上で幕府からの手当金だけでは不足したのに加え、自らの代官財政からの出費も嵩んだため、享保一一年(一七二六)以降、幕府からさまざまな名目の貸付金を預けられ、これを諸方へ貸し付けて利殖する公金貸付を積極的に展開した実態を解明している。伊奈氏が扱った公金は太田氏によれば、「宿々扶助金貸付」以下二六種類に及んでおり、幕府、地方(村方)の双方から貸付金運用の手腕を期待され、その結果さまざまな名目の資金が集中して一大貸付センターとしての体裁を整えた。しかし公金貸付自体からは伊奈氏の代官財政を補完するには十分といえるほどの利得をあげるには至らなかったという。したがって代官財政を推持したものは幕府からの拝借金であったが、それでも新規の借金が嵩んだため、さらに幕府から一五年賦の「預ケ金」を受け、これを貸付金として代官財政の維持を図っていたが、この返済が期限を過ぎても滞っていたため伊奈氏改易の主要因となったことを明らかにしている。これに伊奈忠尊の家中騒動や養子忠善の出奔など、伊奈家の内部騒動を原因として最終的に伊奈氏が改易されるに至った過程を分析している。

 第四章「江戸城『御菜御肴』上納制度と代官伊奈氏」では江戸城への上納には無代上納と上納請負御用の二種類あり、前者には江戸湾の諸魚上納、後者には上ケ鮎上納、薪炭上納などがあることを明らかにした。このほか御鷹場御用があり、これは村方から草木、虫類などの上納があるという。これら諸上納物は初期以来、伊奈氏の「掛り御用向」の一環として伊奈氏および伊奈役所が関わってきたことを明らかにし、寛政四年に伊奈氏の失脚とともにこの役が解かれ勘定所によりこれらの上納が正銭納化になっていく過程が明らかにされている。

 第六章「享保改革期における『御場掛』の活動と植樹」では享保期に人口が増大した江戸の人々や大名、旗本などの武士階級にも「延気」を保証する場を創るために「御場掛」を伊奈氏に命じて飛鳥山や墨堤、御殿山などに政策的に桜、楓、桃などの植樹を行わせた。その背景には紀州から新たな支配者として入った吉宗の存在、あるいは「正統性」を園地を媒介にして江戸市中の人々に浸透させるという側面があったと指摘している。さらに踏み込んでこのような江戸近郊における植樹が従来の単なる江戸の人々に娯楽地を提供する政策だけでなく、今日的な環境政策に通ずる政策でもあったと積極的に評価してもよいであろ。

 以上、紙数の関係上評者の関心にもとづく章について紹介と評論を加えたが、他の章も太田氏の力作がそろっており、本書は全体として従来の伊奈氏の地方巧者としての農政の側面だけでなく、伊奈氏の活躍したさまざまな側面について描いており、伊奈氏研究の新基軸を打ち立てたものと評価できるものである。本書の成果を踏まえ今後の研究の一層の進展を期待するものである。
(いずみ・せいじ 高崎経済大学名誉教授)


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