渡邊大門著『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』

評者:光成 準治
「日本歴史」771(2012.8)

 本書は、戦国期の西国について精力的な研究を行っている著者の、『中世後期山名氏の研究』(日本史史料研究会、二〇〇九年)、『戦国期赤松氏の研究』(岩田書院、二〇一〇年)、『中世後期の赤松氏』(日本史史料研究会、二〇一一年)に続く論文集である。
 以下、各論考の概要を紹介する。
 「序章 研究の現状と課題」では、領主の「戦国大名化」を一つの道筋として提示する「戦国大名論」に沿った分析ではなく、領主間の連携に着目しながら、各領主の存在形態の分析を行うという著者の視角が示される。

 「第一部 浦上氏・宇喜多氏の権力構造」は五章および付論二編からなる。
 「第一章 備前国浦上政宗に関する一考察」では、父浦上村宗の死後、赤松晴政との協力体制を築くことによって復活を果たした政宗の立場は、晴政の完全な従属下にあるのではなく、赤松氏奉行人を補完するものであったと述べる。また、政宗が村宗の権益の多くを継承したのに対して、弟の宗景は備前国吉井川沿いの在地領主との連携を築いていったとする。
 「第二章 備前国浦上宗景の権力構造」では、宗景権力の本質が領主間の同盟であり、宗景はその盟主に過ぎなかったこと、それゆえに、領主との信頼関係を築くには、地域防衛や経済的基盤などの共同利益を守るしかなかったことを指摘する。
 「第三章 豊臣期宇喜多氏検地再考」では、豊臣期の宇喜多氏検地について、指出に基づき、検地奉行が現地での交渉を踏まえて実現したものであり、不徹底なものと評価する。また、寺社領保護の一方で、在地への厳しい収奪が行われたとする。
 「第四章 豊臣期備前国の都市と経済」では、天正十年(一五八二)頃には岡山城下に町が形成されはじめていたが、文禄期になると、豊臣秀吉の朝鮮侵略における軍役の負担に応えるため、侍の集住を進めるとともに、商工業の集約と流通経済の拠点を作り、領国市場の形成を企図したとする。
 「第五章 戦国織豊期宇喜多氏の領国支配」では、直家期の家臣団編成について、@連携による緩やかな関係にあった領主層、A強い主従関係で結ばれ、取次として領主間の調整に従事する重臣層、B強い主従関係で結ばれ、官僚機構を担う直属奉行層、の三者が存在していたが、秀家期になると、@がAの下に位置付けられる家臣層へと編成され、また、自立性の高い直属奉行層に「浮田」姓を与えることにより、当主との強い紐帯を結ぶことを企図したとする。
 「付論一 戦国織豊期における備前国鳥取荘」では、戦国期の鳥取荘は皇室領荘園としての実態を次第に失っていったことを指摘する。「付論二 「難波文書」年未詳十月十三日浦上村国書状の年紀」では、標記の書状を大永二年(一五二二)に比定している。

 「第二部 戦国織豊期における美作国の地域権力」は六章および付論二編からなる。
 「第一章 美作国江見氏の基礎的研究」では、経済的な利益確保という共通利害と外敵からそれらを守るために、周辺の領主層が江見氏を盟主として結集したとする。
 「第二章 美作国後藤氏の権力構造」では、後藤氏が荘園制の後退を背景として在地掌握を進展させたこと、具体的には、名を単位としつつ、地利分と年貢・諸公事(本役)を把握していたことを指摘する。
 「第三章 美作国新免氏に関する一考察」では、『東作誌』所収の「新免家系譜」や「新免家古書写」の出自に関する記述の作為性を指摘して、二次史料を用いる際には十分な検証が必要であると述べる。
 「第四章 戦国期美作国における領主層の特質」では、美作国の領主層の支配領域はきわめて狭い範囲であるものの、領域支配の前提として、守護職や守護代・郡代等を必要とせず、また、特定の領主の配下に所属することなく、縦と横の連携を基軸として自立した領主権を確保していたとする。
 「第五章 『新訂作陽記』所収赤松晴政(性熈)発給文書の研究」では、標記の文書群の信憑性を肯定するとともに、守護としての実態を失った後においても、晴政の影響力が美作国に浸透していたと述べる。
 「第六章 中近世の美作地域における神楽」では、主に高野神社関係の史料を用いて、領主と神社が一体となって発展を遂げている状況を明らかにしている。
 「付論一 「豊楽寺文書」所収某祐定寄進状をめぐって」は、標記寄進状の発給者について、赤松上野家の祐定に比定したもの、「付論二 美作国田邑荘・二宮荘と立石氏」は、田邑荘の公文職を保持していた二宮氏、および高野神社神主職を持っていた立石氏の動向を追ったものである。

 「終章 結論と今後の課題」では、守護などを盟主として有力な被官人が結集・推戴していた赤松氏や山名氏領国の権力構造と同様に、備前・美作においても、地域の有力者を盟主として擁立し、共通利害を守るという「地域的集権体制」が確立していたと結論付ける。
 以上のように、豊富とはいえない史料残存状況ゆえに停滞気味とされてきた当該地域の権力構造解明に、博捜した一次史料を駆使することによって新たな光を当てた本書の意義はきわめて高い。したがって、些末事に過ぎないであろうが、若干の疑問点や課題について述べたい。

 第一に、著者が赤松氏・山名氏・浦上氏・宇喜多氏の権力構造を特徴づける概念とする「地域的集権体制」という用語については違和感を覚えた。これらの領国においては、強大な権力を前提とするのではなく、共通利益を追求するために、統率者のもとに領国内の諸勢力が統合されたとする著者の見解は、おおむね首肯できる。しかし、そのような原理を「集権」と呼称することは、誤解を招くものと危倶する。例えば宇喜多氏領国における当主秀家への権力の集中は、文禄五年(一五九六)以降になってようやく確立されたものと評者は考えている。そうすると、それ以前の宇喜多氏領国の権力構造は「分権」的と評価すべきではないか。
 第二に、宇喜多氏領国における種々の都市・経済政策に関する法令について、その実効性を検証することが不可欠であろう。
 第三に、「浮田」姓を与えられた直属奉行層については、出自不明の者も多く、自立性が高いと評価するのは早計に感じる。実態解明には困難も伴うが、さらなる研究の深化を期待したい。
 第四に、美作国における領主層の存在形態を「極めて異質」とする評価は、「戦国大名論」によらない著者の視角に沿ったものとはいえまい。著者の見いだされた「縦と横の連携を基軸として自立した領主権」が全国的にも広範に存在した蓋然性は低くないのではなかろうか。
 最後に、一般読者に向けた著作活動や、幅広い研究者を結集した研究会活動にも熱心に取り組んでおられる著者のバイタリティに敬意を表しておきたい。
(みつなり・じゅんじ 県立広島大学非常勤講師)


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