清水紘一著『日欧交渉の起源』

評者:安高 啓明
「中央史学」35(2012.3)

  はじめに

 本書は天文十年代(一五四〇年代)から始まった「日欧交渉」について、中近世移行期に日本にもたらされた鉄砲とキリスト教の受け入れの分析から迫ったものである。著者は平成二十年(二〇〇八)まで、中央大学文学部教授として教鞭をとられたキリシタン研究者の清水紘一氏である。清水氏はこれまで『キリシタン禁制史』(教育社新書、一九八一年)や『織豊政権とキリシタン』(岩田書院、二〇〇一年)、『キリシタン関係法制史料』(蒼穹出版、二〇〇二年)など、キリシタン史における、おおくの研究成果を挙げられているが、本書はこれらの業績をさらに進捗させた連動性のある大著である。
 対外交渉史のなかでも、本論は「日欧交渉」を取り上げている。周知の通り、日本は鎖国以降のオランダ・中国と通商国として交易している。これ以前における日本とヨーロッパとの関係の起源ともいうべき「日欧交渉」にスポットをあてた本論は、日本の対欧関係の初期構築にも言及しており、これを鉄砲伝来やザビエルの日本開教を通じて明らかにしている。
 なお、著者が本文で記している「欧」とは、ポルトガル、スペインの西洋国と明国、東南アジア諸国を指している。また、ジャンク船の日本への訪れも視野に入れられており、広い地域を対象としながら、日本の対外交渉の起源を見出している。そこで、本書の構成と内容について紹介していきたい。

  一 本書の構成と内容

 本書は三部立ての八章からなり、これに序章と終章、補論、関係史料がある。本書の構成ならびに各部各章の概要を掲げると次の通りである。

 序章 本書の課題と構成
 第一部 日欧交渉の初期過程
  第一章 ポルトガル人の種子島初来年次考
  第二章 日欧交渉の初期過程
   補論 レキオ(種子島)論再説
 第二部 鉄砲伝来の初期過程
  第三章 鉄砲の初期伝来過程
   付論 国立歴史民俗博物館「鉄炮伝来展」雑感
  第四章 鉄砲の初期普及過程
  第五章 「鉄炮記」の基礎的研究
 第三部 日本開教の初期過程
  第六章 ザビエルの「日本国王」認識
  第七章 ザビエルと新納氏一族
  第八章 近世日本の「ザビエル」認識
   補論 訳語「宗教」覚書
 終章
 付 関係史科

 序論では日本とヨーロッパ(ポルトガル・スペイン・明国・東南アジア〔南蛮〕)との交渉についての基礎的研究をおこなうにあたって、天文十年代(一五四〇年代)の日本の状況を海外事情と絡めながら紹介している。また、この頃の日欧交渉過程の不透明さを指摘した上で、@日欧交渉の起源に関する論考、A鉄砲伝来と最初期における受容・普及の諸過程の究明、B日本開教の主導者フランシスコ・ザビエルの初期布教構想の跡付けといった、三点の必要性と本書の意義を主張する。

 第一章では、日欧交渉の起源を、@海洋ネットワーク(「地球的連関」の網の目)が東アジア東端に及ぼされた世界史的意義、A歴史上はじめて十六世紀の地球的世界に接続した日本史的意義の二点から指摘する。さらに、日欧交渉を中近世移行期に日本社会に与えた画期として位置付け、これが南蛮世界との交流を通じて日本文化の成型に多様な彩を添える一大契機をなしたとする。
 右を踏まえたうえで、鉄砲伝来について記す「八板氏系図」と「徳永氏系図」の書誌研究をするなかで、両者は「種子島家譜」を参照して作成された可能性があると指摘する。これらの資料からポルトガル人の初来年度を再考するなかで、季節風の状況を考慮し、来航時期を特定する。また、南九州、特に小祢寝に天文十三年(一五四四)に数多く来航した南蛮船を軸に、前年、前々年の様相を跡付けて初来年次を比定している。
 これにより、日本(種子島)にはじめて訪れた欧州人はジャンク船(「鉄炮記」の「大舩」)に乗ったポルトガル人であり、その年は「鉄炮記」記載の天文十二年(一五四三)を一年遡る、天文十一年(一五四二)と結論付ける。これまで、鉄砲伝来年には日欧双方の関係史料に齟齬があったことから天文十一年説と十二年説が主張されているが、清水氏はこれにより、日欧交渉の起源を天文十一年(一五四二)と定義し、以下、論を展開する。

 第二章では、日本渡航へ先立って琉球本島を訪れていたとする新説「レキオ説」に否定的な論証がおこなわれている。レキオ説とは、ヨーロッパ人の琉球本島初来年を一五四二年、種子島初来年を天文十二年(一五四三)とし、中島楽章氏が提示したものである。これを「鉄炮記」や「種子島家譜」の史料批判を通じて検討するとともに、ガルヴァン『新旧発見記』とエスカランテ「報告」、コウト『アジア誌』とを比較してヨーロッパ側史料の問題点を指摘する。
 本章では中島楽章氏の「レキオ」(琉球本島)説の問題点を指摘するが、対外交渉の観点から鉄砲伝来の記事が一方の資料にしか記載されていない不自然さ。中島説によれば、レキオス(琉球王国)にポルトガル人は一五四二と四三年の二年間に二度渡来しているものの琉球王国の実態については何も記されていない。さらに、一五四二〜四四年まで転々としている状況に鑑み、渡航地を接続させる媒介項が明瞭でないとする。また、中島説がポルトガル人の種子島来航を「はじめから種子島をめざして来航したと考えるべき」と主張していることに対して、「鉄炮記」にはそれをうかがわせる記載はみられないとする。
 さらに、ポルトガル人初期来日コースを明らかにするなかで、中島論への否定要素を提示する。台湾北端からのルートとして三つを示し、これを@五島沖コースA東シナ海中央部コースB琉球諸島コースと仮称する。一五四二年は五島沖コース、一五四三年はコース不詳、一五四四年は東シナ海中央コースで来航しているとする。これらの諸条件や史料的根拠の薄弱さから中島論を否定し、日欧交渉の起源は天文十一年(一五四二)であると改めて主張する。

 補論として「レキオ」が琉球ではなく、種子島と比定できる理由を論じている。当時種子島が「琉球」として認識されることがあった事実にもふれ、明国人は硫黄鳥島以北吐■(口+葛)喇(トカラ)列島から奄美諸島を除く硫黄島までを日本の「首」とし、同諸島を琉球国との境界地として認識しており、これは南蛮人にも伝えられたと指摘する。あわせて、当時の琉日境界が七島あたりでグレーゾーン化していたとする。

 第三章では、日欧交渉と密接な関係がある鉄砲伝来について、伝来および受容、その後に展開される普及の観点から論じる。前章から一貫して主張される天文十一年(一五四二)の日欧交渉の起源を出発点とし、この年訪れたポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、種子島家が火縄銃二挺を購入したとする。また、三挺購入説も指摘し、火縄銃の入手段階、模造段階、生産システム導入論により、鉄砲伝来から生産に至るまでの初期伝来過程を段階的に論じる。
 種子島家の火縄銃の購入は「一大舩」の漂着による偶発的なものであった。しかし、種子島家は、ポルトガル人の鉄砲(鳥銃)を「軍用」として購入し、複製用原器の確保や新技術受容、模造複製化、さらには国産化にこぎつけるまでになった。種子島に伝来した鉄砲が、基幹技術(ネジ密塞法)の修得とともに複製されて、広く日本各地に普及することになったと結論付ける。

 第三章には付論があり、国立歴史民俗博物館で開催された「歴史のなかの鉄砲伝来 種子島から戊辰戦争まで」を観覧した感想が述べられる。本著と関係深い鉄砲伝来論をあつかった国立歴史民俗博物館の特別展で、新論ともいうべき倭寇による鉄砲伝来説の解説の不備を指摘する。あわせて、閲覧した小中学生への配慮不足に対する警鐘を鳴らしている。

 第四章は、鉄砲がどのように普及していったのかを検討したものである。関係史料が乏しいなどの制約があるため、解明とまではいかなくても、先学の成果に依拠しながら、複数のルートを提示している。鉄砲の東伝ルートを「鉄炮記」や「種子嶋家譜」、「本能寺文書」から、種子嶋家を出発点として@根来(杉坊)ルートA堺ルートB伊豆ルートC薩摩ルートD豊後ルートE法華ルートの存在を明らかにする。
 根来・法華ルートは宗教ルート、堺ルートは商業ルート、伊豆ルートは漂着船の寄港ルート、薩摩・豊後ルートは武家領主間の軍器贈答ルートと性格付ける。鉄砲は一部の人間に専有されたものではなく、家中から島内、そして島内から島外へ普及していったことを実証する。鉄砲が伝来して間もなくの段階で、島外へ流伝されており、種子嶋家の鉄砲入手から国産開始までを系統づけている。なお、鉄砲は種子島以外にも天文十一年以降ポルトガル人により伝えられたが、倭寇が将来したことを推測しえる史料は現段階では知られていないことを付記する。

 第五章では、日欧交渉の初期過程や鉄砲伝来の一件を書きとめた記録としてよく知られる「鉄炮記」の史料学的研究ならびにこれを用いた先行研究を紹介する。本章の骨子は「鉄炮記」の構造分析、そして原文読下し、解説を付していることである。これまで無批判的に使われることのおおかった「鉄炮記」を、国立公文書館内閣文庫本や「種子嶋家譜」などの記録類をもとに整理している。

 第六章では、フランシスコ・ザビエルが日本布教に際して重要視した「日本国王」の認識論を再検討している。先学の多くがこれまで「日本国王=天皇」と解釈し、これが通説的な位置を占めているなか、これに疑問を呈され、ザビエルの日本国王観をゴア滞在時と鹿児島滞在時の認識。さらに、上洛による実地踏査を経て日本国王と大内義隆から得られた認識の差異を、「鹿児島構想」・「山口構想」として考察している。
 ザビエルの布教過程における日本国王観を、「天皇−将軍」という来日前からザビエルが抱いていた二元的な国王観に、来日後に認識した勘合の授受を通じて明国皇帝に朝貢した日本国王としての「将軍」、「明国皇帝−日本国王」とする国王観に至っている。こうしたなかでも天皇を無視したわけではなく、比重を低下させてはいるものの、「権威の源泉」として一定の配慮をしていることを指摘する。

 第七章では、天文十八年(一五四九)七月十五日に来日したフランシスコ・ザビエルが十ヶ月ほど鹿児島に滞在したなかでおこなった布教活動の一端を島津貴久の家臣新納伊勢守と一族からその事例を取り上げ、関連データを提示している。なお、新納氏は島津氏第四代下野守忠宗の四男時久に始まり、時久は足利尊氏にも従った人物である。
 ザビエルと新納一族の関係について、新納康久を取り上げて紹介している。康久以外の家族を改宗させたものの、「主君のみは異教徒たるに留まった」と伝える。しかし、キリシタン信仰には寛容だったとも触れ、これは康久自身が「生命が危ぶまれた」ときに、夫人が所持したザビエル直筆「祈祷文」の袋を頸に懸けて癒した逸話からも裏付けられると指摘している。

 第八章は、日本におけるカトリック開祖としてのザビエル像とキリシタン宗門の日本開教事業に関する近世日本の認識について取り上げたものである。「サヴィエル関係日本史料」の編著者として知られる海老沢有道氏の成果に依拠しながら、戦国末期と近世日本とに大別して論じられている。
 近世日本については、さらに@近世初期、A鎖国時代(1「寛永−貞享」段階、2「貞享−寛政」段階、3「寛政−天保」段階、4「天保−嘉永」段階)、B開国維新期にわけられている。関係史科が欠乏しているなかで、歴史的背景と関連付けて資料が掲出されるなど、さまざまな素材を提供している。
 近世初期にザビエルによってもたらされたキリスト教は禁制下においても進展し、イエズス会に加えて、文禄二年(一五九三)以降マニラを介する托鉢系修道会(フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスティノ会など)の宣教師が来日し、日本教界に競合が生じる。このなかでもイエズス会系では、ザビエルを日本教界の開祖として崇敬する意識が高められており、これが近世初期のザビエル認識へとつながっている。しかし、教界外においては弾圧対象とされたキリシタン宗門、ひいてはザビエルについてはあまり知られていなかったとされる。
 右のような素地があったなかで、鎖国時代に入るわけだが、ザビエルの経歴などを知りえたのは岡本三右衛門や屋久島から長崎、そして江戸へ送られたシドッチに接見した井上政重や新井白石らである。近世国家の情報管理下において、キリスト教は伝播することはなかった。他方、オランダ経由でザビエルを含む関係情報が知識人たちに提供されたとも指摘している。これが幕末期になるとプチジャン司教ら宣教師の指導の下にキリシタン暦が作成され、教界内外でザビエル像が極端に描かれることになる。このようにザビエルの情報は多くの人びとによって語られ着実に増大していると結論付ける。

 補論では、中村元氏の成果に基づきながら「宗教」の定義を時代ごとに追っている。用語としての「宗教」の源流は、六世紀以降の中国古典にみられ、日本でも『日本書紀』などに仏教を意味する用語として使われている。その後、薩摩のアンジロウがインドゴアで使用したとされ、用語「宗教」の使用頻度は少ないものの、『耶蘇天誅記』などではこれがみられると指摘する。ここでの宗教はキリシタン宗門を指すものであり、従来の仏教以外の宗旨を包含したものであった。これがReligionの訳語として幕末維新期に採用されたと指摘している。

 終章では、これまで論じられてきた鉄砲伝来における「日欧交渉」の起源とザビエルの日本開教における展開、さらにザビエル認識を総括されている。そして一五四〇年代の日本を取り巻く特徴は、@東アジアにおける明国の「求心力」低下と周辺諸国における私的海商の重層的な交流、Aヨーロッパ人の対日貿易と宣教活動への参入があったとし、「近世的なるもの」を通じて物心両面にわたる変革調印が伝統的な在来の日本文化に注入されたと結論付ける。
 こうしたなかで策定されうる歴史区分にも言及される。これまでの歴史区分(二分法・三分法・四分法・六分法)があるが、これとは一線を画す世界観としての区分、@一国段階、A地域世界、B地球世界と大区分のもと、日本においては@一国段階(大八洲、本朝、日本)−A東アジア世界(日朝交渉、日中交渉、三国世界)−B地球世界(i日欧交渉A幕末維新B現代日本)と定義されている。

  二 本書の特徴

 本書の特徴として主に次の二点を挙げておきたい。まずなにより鉄砲伝来の初来年を一年遡る一五四二年(天文十一)と明らかにしたことであろう。鉄砲伝来年については、一五四三年(天文十二)と長く定義づけられているなかで、「鉄炮記」をはじめとする日本側の史料とヨーロッパ側の史料を駆使してこれを改めている。
 本書を通覧すると、このなかで多用している史料を、丁寧に史料批判している。そして鉄砲伝来を取り上げるうえで欠かすことのできない『鉄炮記』の基礎的研究の章を設けており、詳細な分析がおこなわれていることが著者の説得力を増している。鉄砲伝来については、先学によりこれまでおおくの成果が挙げられているが、このなかでは当たり前のように『鉄炮記』が論拠として取り扱われていた。清水説の根拠とするうえで、『鉄炮記』の史料性格とその分析は不可欠ともいえ、ここまで詳細な検討がおこなわれたのは管見の限り見当たらない。
 そして、鉄砲がもたらされてから、日本へ伝わったルートも整理され、かつ普及目的も明確に示されている。伝来から受容、そして普及という縦軸のなかで、中近世移行期の兵器革命というべき鉄砲導入の背景に触れた立体的論証となっている。

 もうひとつはザビエルの日本開教と、布教過程における「日本国王」認定のあり方。そして、近世日本でザビエルをどのように認識していたのか、布教側と受容側の双方の視点を取り上げていることである。ザビエルが布教するにあたっての政治的動きと連動して、新納氏との事例が紹介されていることが内容にさらなる深みを与えている。
 また、日本においてザビエルを戦国時代末期から幕末期にどのように認識していたのか、時系列で論じている。特に鎖国期でのザビエル認識には注目すべきところがあり、江戸時代の大半はキリスト教禁制だったなかでもザビエル像はある層には具象化されたものだったことを知ることができる。決して消し去られることのなかった日本キリスト教伝来の祖ともいうべきザビエルが、江戸時代ではしっかり認識されていたことがわかる。

 以上のように、日欧交渉の起源という観点から鉄砲伝来とザビエルの日本開教を取り上げ、決してふたつの事象は切り離せないという著者の研究姿勢がわかる。これまで発表されてきた成果との連動性も見受けられ、著者の一貫した日欧交渉史像を視感することができる。

  三 評価点と疑問点

 本著の論旨は非常に明快で、鉄砲伝来を日欧交渉の起源と位置付け、その年代特定とその後の日欧交渉の展開過程を鉄砲製造(国産化)と、ザビエルの日本開教から論じている。日本側の史料だけによらず、ヨーロッパ側の史料との突合せがおこなわれていることから非常に説得力がある。そして、日本を核とした交易圏のなかで、各事象の裏付けをすすめ、これを図説化するなど、読者への理解を促している。
 また、従来の研究成果を整理されたうえで、これに驥尾をふす面と適宜これを批判し新説を打ちだされていることから、今後鉄砲伝来の研究に従事するものにも参考となろう。鉄砲伝来から国産化までの過程、さらには普及まで記されていることから、対外交渉史ばかりか、技術史などの観点からも注目される成果といえる。
 一五四〇年代の対外交渉史は、資料の残存状況などからも制約があり、たいへんな労作であったことを痛感する。そのなかで、この頃のヨーロッパ諸国との交流がはじまる、画期的かつダイナミックな時代を、種子島の気象など(五三頁)の地理学の要素を含みながら論じている。これはひとえに、一五四〇年代を「アジアの中の日本」から「地球的連関の網の目」に入った最初期として概括している(三四二頁)著者の主張を裏付ける作業ともいえる。

 以下、雑感として、次のことを掲げておきたい。第三章の付論では、国立歴史民俗博物館(以下、歴博)でおこなわれた鉄砲伝来展の感想については、同じ環境に所属する私自身、たいへん貴重な意見として真摯に受け取った。本書で著者は倭寇が鉄砲を伝えたと主張する歴博の展示に、来場していた多数の小中学生が新知見を学んでいることに苦言を呈している(一五八頁)。
 博物館展示の原点は定説にしたがわなくてはならないことはいうまでもない。この一方で、博物館は新説を発信する立場にもある。また、プロジェクト研究の成果という形をとった本展においては、打ち出すべき解説だったともいえ歴博の姿勢は同業としては理解できる。
 また、解説パネルの文字数を制限することが博物館界で唱えられて久しい。膨大な情報を提供したい反面、一般の来館者視点にたって解説を書くと、どうしても解説が要点のみになり不足してしまう。図録などで補完できればいいが、来館者のすべての人が買うものではないため、博物館教育論の難しさを身をもって感じる。著者が指摘する教育普及の面での影響を考慮に入れた展示に取り組まなければならないことを、今後も心に留めておきたい。
 ザビエルの認識論について、新井白石らの特定の層による分析がおこなわれている。禁教下において、その存在が認められている「潜伏キリシタン」たちの間において、ザビエルはどのように認識されていたのだろうか。そして、その後のかくれキリシタンたちへと展開されるなかで、ここでどのような変容があったのかの言及が欲しかった。

  おわりに

 これまで長年の定説であった鉄砲伝来が、一五四二年と一年遡ることを導き出したことが、本書の絶対的な評価である。また、倭寇による伝来説を否定してポルトガル人が一五四二年に伝え、翌年にポルトガル人鉄匠の技術指導を得て模造と国産化が達成されたとしていることは、国内の武器技術革命が一年短縮されることになり、大変驚かされた。
 これは鉄砲伝来を単に技術到来としてのみならず、日欧交渉の起源としてとらえるならば、日本への新たな時代の到来が短縮される転換点でもある。また、ザビエルの布教過程や国内におけるザビエル認識論は、中近世移行期ならびに近世初期の対外交渉史への新しい視点や国内での受容形態の変化を提示している。
 本書を通じて鉄砲伝来とキリスト教布教が日欧交渉に密接な関係あることを再確認させられる。また、明の衰退を含めて東アジア事情の変動を含めて多角的に論じられた本書は、江戸時代のオランダ・中国貿易制度確立以前における対外交渉史を知る上での貴重な成果であることを記して擱筆としたい。


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