桐原邦夫著『士族授産と茨城の開墾事業』

評者:菅谷  務
「茨城の思想研究」11(2012.5)

   一           

 本書は、長年にわたって茨城県域における士族授産事業について事例研究を重ねてきた著者の集大成であり、そこにおける一貫した問題意識は「明治維新における士族のはたした役割とは何だったのか」(「まえがき」)ということである。いいかえれば、変革の主体を主体自らが解体するというパラドキシカルな状況のなかで創出された「士族」という存在が、日本の近代化=資本主義が始動する時点(資本の本源的蓄積)において、いかなる役割を果たしたかという問題である。
 本書の構成は、以下の通りである。

 まえがき
 序 章 本書の視点と構成
第一編 秩禄処分と士族授産政策
 第一章 秩禄処分の実施
     禄制改革による家産の削減 大蔵省による禄制の廃止
     金禄公債証書発行条例の公布
 第二章 水戸藩の秩禄処分と授産政策
     茨城県内「旧藩士族の景況」 秩禄処分の実施
     開墾義社と特別官林組合 復籍士族と再興士族
 第三章 麻生藩の秩禄処分と授産政策
     家禄の削減の問題 郷足軽の処遇問題 賜邸制の実施
     復禄請求請願とその結果 行政裁判所への提訴
第二編 士族開墾事業の展開
 第四章 明治政府の開墾政策
     民部省開墾局による開墾政策 大蔵省による開墾政策
 第五章 茨城県内の士族開墾事業の概観
     はじめに 石川強と勧業試験場 桃林舎 就産社
     土田農場 阿見原開墾 鈴木農場 弘農社 波東農社
     君島村開墾地 樹藝社
 第六章 弘農社の士族開墾事業
     開墾計画を立案推進した人びと 弘農社の組織の概要
     開墾資金の調達等をめぐる問題 三好琢磨の社長就任
     資金調達の改善 開墾地内の入会秣場をめぐる紛争
     開墾事業計画 事業の推進
 第七章 波東農社の士族開墾事業
     官有地での開墾事業 舟木真の経歴
     波東農社の結成 開墾事業の推移
 終 章 士族開墾事業の歴史的意義
 あとがき

   二

 以上のように、本書は二編構成をとり、第一編「秩禄処分と士族授産政策」は、「武士」の解体=「士族」創出の過程を考察し、第二編「士族開墾事業の展開」では、士族の救済策と新政府による近代化政策=殖産興業への士族の取り込みを内容としている。

 第一編第一章「秩禄処分の実施」では、「藩制」公布(明治三年)、大蔵省による禄制の廃止(同四年)、金禄公債証書発行条例の公布(同九年)の経緯について述べた後、全国の華士族三十一万人に対する金禄公債証書と現金の支給によって禄制廃止を実現する。金禄公債証書による下士層支給利子は、平均一日八銭、この額は当時の日雇い以下の水準でしかなかった。そのため、政治的・経済的・社会的理由から士族に対する授産事業を展開されることとなる。

 第二章「水戸藩の秩禄処分と授産政策」では、県内旧十七藩の士族個数は七〇〇〇戸、このうちの半数が旧水戸藩士族だったから、旧水戸藩士族への県の対応が急務で重要だった。旧水戸藩領の大半を管轄することになった茨城県に、大蔵大丞在任のまま県令心得として派遣された渡辺清は、明治五年九月、士族就業の件について諭達し、座食の弊害に陥らないよう諭した。
 そのため、明治五年十月には旧水戸藩士族による開墾義社が設立される。参加者は約四〇〇名、明治七年ごろ開墾播種された土地は、二六〇町六反余歩、資金はおよそ二万二千両余、開墾費用はすべて県が貸与した。
 明治六年、県による官林二〇〇〇町歩を利用した開墾政策を推進した。この官林の受給者は、特別官林組合という結社を組織した。明治十六年の調査では、一五六九名が官林の貸与を受けたとある。この規模は全国でも特異であった。
 金禄公債証書発行条例に基づく金禄公債の交付は、明治十一年八月から開始された。交付された者は、旧水戸藩士三〇九三名、その金額は九〇万六四八五円で、一人当たりの公債金額は二九三円(県平均の五三パーセントに過ぎない)で、利子は年二〇円にすぎなかった。
 旧水戸藩の秩禄処分では二つの問題があった。一つは郷士である。郷士は藩士として家禄を有しないと見なされ、秩禄処分の対象とならなかった。
 もう一つ問題は、幕末の水戸藩党争の過程で処罰されたり、市川勢とともに脱藩したり、明治初年藩政を掌握した本圀寺勢の弾圧を恐れて脱藩した旧門閥派の藩士であった。郷士の中にも逃亡したものがいた。彼らは廃藩時に藩に属していなかったから家禄は支給割けず、士籍を失っていた。そのため家禄の受給やこれらの旧藩士こそ、少ないとはいえ家禄の受給や秩禄処分の対象となり、授産事業でも優遇された旧藩士に比べて、最も生活に困窮していた人々であり、これら諸生派の旧藩士の士分回復と授産政策が問題であった。
 これらの旧水戸藩士や郷士は、廃藩置県後二回に分けて復籍を果たしている。その一は、明治五年から六年にかけて復籍を果たした者で「復籍士族」といわれる。
 除籍士族の復籍のその二は、明治二十二年の憲法発布を機に復籍を果たした旧水戸藩士である。再興士族と呼ばれる鈴木石見守、市川三左衛門、大森弥惣左衛門など家老クラスの人々の子孫をはじめ、その人数は二六四人に及んだ。彼らは明治二十八年一月に「復禄請願書」を帝国議会に提出したが、この再興士族派の請願は「藩制」施行後は家禄を得ていないという理由で結局認められなかったようである。

 第三章「麻生藩の秩禄処分と授産事業」では、麻生藩の秩禄処分の問題についての特長と問題点を述べている。すなわち、士族の家禄奉還者に対する政府から支給された手当額の不足と共に、卒族の平民編入による家禄の無支給があった「郷足軽」の処遇問題である。郷足軽とは、文化年間、異国船来航による沿岸防備のため、常備兵力の補助として有力農民を足軽に取り立てたものである。廃藩時には二〇〇人に達した。明治三年の「藩制」によって、士族とともに卒に位置付けられた。同五年、太政官布告により、卒は平民に入れられ、家禄支給の対象外となる。
 また、麻生藩の秩禄処分を特徴づけるものに「賜邸制」がある。これは明治四年に麻生藩が、「藩知事は日本国なるものは農業をヲ以って国是とせる国体である。往古士農の別なく平常は農業を営み、有事には武器を取って戦うという富国強兵の実を挙げようと欲して賜邸制を実施して士卒の別なく郷住せしめ」るものであった。
 明治三十年十月に「法律第五〇号家禄掌典禄処分法」が成立・公布する。麻生藩では、この法律によって、かつて麻生藩の大参事であった三好琢磨を代表して、廃藩時に藩債償却のために減石された家禄の複石と、卒族の士族への編入及びその禄米支給の請願をしているが、目的は達せられなかった。

   三

 第二編第四章は、明治政府の開墾政策の経緯を述べている。まず、明治四年二月、民部省開墾局の布達「開墾奨励の方針書」は、明治政府が士族卒に対して開墾事業奨励の方針を示した最初のものであり、士族授産と殖産興業の両方の効果を期待したものである。しかし、同四年七月、民部省の廃止によって開墾に関する事務はすべて大蔵省に引き継がれた。その引き継がれた時の全国荒蕪地の検査面積は、実に二〇万町部余に達していた。
 明治四年八月、大蔵省の「荒蕪地不毛払下規則」、同五年六月十五日の「官有地払下規則」とともに、重要な規則として公布されたのが、同六年十二月二十七日付の太政官達第四二六号「家禄奉還ノ者へ資金被下方規則」である。明治政府の林野払下改革は、林野の土地所有を確定する手段としても用いられた。農民の所有意識の薄弱なことを利用して入会原野地を官有地とし、払下によって所有者を確定し、払下収入の増大と同時に地租納入の基礎を確立しようとしたのである。
 士族授産事業が明確な目的をもって体系的な政策として行われるようになるのは、明治九年の金禄公債証書発行条例公布からであった。士族授産は、はじめは士族の窮乏の救済が目的であったが、これ以降殖産興業の目的をもった政策として展開されていくようになった。士族の力を借りて産業の近代化を図ろうとしたのである。その方法として、内地と北海道への移住開墾、銀行設立の奨励、授産資金の貸与などがあった。これらのうち最も成果を上げたのは、政府から官有荒蕪地や官林の払下げ、あるいは貸下げを受けて士族結社を中心に行われた開墾事業である。

 第五章では、茨城県内の士族開墾事業を概観している。まず、旧水戸藩士による事業として、@桃林舎の牧畜業、A就産社の牧畜業および養蚕・製糸・織物業、B有恒社の製糸業があげられる。これらの出発点となったのが、明治九年に常磐公園内に設立された茨城県勧業試験場であり、その中心となったのが水戸藩士族石川強であった。石川は東京の勧業寮で、西洋式の大農法を学んだ人物であった。
 その他、県内の主な開墾事業としては、C土田農場(現つくば市、上郷村の豪農土田健吉による)。D阿見原開墾(現阿見町、和歌山県士族津田出、農場が発行していた津田十八農場概況によれば、千葉・茨城両県下にまたがる津田の広大な十八個の農場の第一農場であった。事業主は陸軍少将従三位津田出にて津田仙氏とは別人に候間御間違いなからんことを乞う、とある。)E鈴木農場(現阿見町、山形県士族鈴木安武による)。F弘農社(現行方市・潮来市、旧牛久藩士族出身の行方郡長飯島矩道と旧麻生藩大参事三好琢磨を中心として進められた『三原野開墾』といわれる行方郡内三箇所での開墾事業)。G波東農社(現鉾田市・茨城町、旧下館藩士族舟木真とその親族による開墾事業)。H君島村開墾(現阿見町、旧土浦藩士族神田道教による)。R樹藝社(現石岡市・かすみがうら市、旧土浦藩士族による)。

 第六章 弘農社と士族開墾事業
 弘農社は、明治政府の殖産興業政策推進に沿って、明治十三年に設立された行方郡の原野開墾結社であり、当初から行方郡長飯島矩道の強い計画と指導によって進められた。
 開墾計画は、欧米農法を模範都市、規模は七七〇町歩の開墾、経営としては本社直営一二〇町歩と小作地二八〇町歩、外に牧畜業、開墾方法は馬耕によって行う。特色としては「行方全郡ノ協力」で設立すること。具体的には全郡民から連合町村単位で株金という形で開墾資金を調達することであった。だが立ちはだかる障害は、第一に資金調達の困難。第二は開墾地内の入会秣場をめぐる入会村との紛争であった。
 開墾事業推進の困難を打開するため、明治十五年、行方郡役所書記であった三好琢磨が飯島郡長に請われて社長に就任する。
 三好は全郡から戸数割と地租割での資金調達は無理と判断して、資産家や銀行、貸金業者からの資金調達に方針を変更する。
 その後直営地の経営を次第に縮小してゆき、小作地として移住者に貸与経営されていったと考えられる。明治二十五年、開墾成功地原野反別四七六町五反余歩の払下げ許可。これらの土地は株金高に応じて各株主に配当し、同二十八年、解散する。

 第七章 波東農社の氏族開墾事業
 波東農社は、旧下館藩士舟木真が中心となり、鹿島郡宮ヶ崎村ほか八か村官有荒蕪地約七〇〇町歩を貸与され、開墾に着手。欧米式の大農法による牧畜穀作混合農業を計画する。舟木は、開拓使や内務省勧業寮に勤め、政府の殖産興業政策に直接かかわった牧羊業関係の専門家であった。
 農社運営の中核は特別社員で、親族一〇人(何れも士族)がこれにあたった。このほかに他からの入植者による合併社員がいた。
 農社の経営の中心は牧羊業であり、そのほか雇庸農夫の生活維持のため貸付地を造成する(明治十五年の時点では、畑地九五町歩のうち三二町歩が農社直営、四二町歩が貸付地)。
 明治十七年、舟木村設立。全戸数三八戸(士族二一戸、平民十七戸)
 経営不振により、牧羊飼育から牛馬飼育への転換、直営地の縮小と貸付地の拡大→規制地主化への傾斜。そして、明治二十九年、解散。

 終章 士族開墾事業の歴史的意義
 ここで著者は、県内の諸事例の考察をとおして、あらためて二つの問題に立ち返っている。@、明治政府が当時の農業経営の実態からかけ離れた欧米の大農法による農業経営を、わが国に必死になって導入しようとしたのはなぜか。A、政府からのさまざまな援助があったにもかかわらず、大農法は崩壊の一途をたどるなど、大部分の士族開墾は失敗した。それでは、そのような推移をたどった士族開墾とはまったく歴史的意義のない「徒労」な営みだったのだろうか。
 @に対して著者は、「文明開化」という時代精神に求め、Aについては「士族授産」が失敗であるという「結果」は、大農法の導入と普及という意図からみると確かに「失敗」であった。だが、「寄生地主制」、いわゆる小作制度の下での小作経営という形で農業生産は確実に進展をみせている。「この面に注目すれば「失敗」ということはできず、マルクスのいう「本源的蓄積」が進展したとみてまちがいなく、そのことによって日本資本主義の形成に大きく寄与したと考えられる」(本書一七二頁)と記しており、このことが本書を貫くライトモチーフであったことを再度確認し筆を措いているのである。


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