三村泰臣著『中国地方民間神楽祭祀の研究』

評者:藤原 宏夫
「民俗芸能研究」52(2012.3)

 中国地方の神楽を精力的に調査されている三村泰臣氏が、これまでに発表されてきた論文を一冊にまとめたのが本書である。まずは長年にわたって着実な調査をすすめられてきたことに敬意を表するとともに、その成果がこうしてまとめられたことを喜びたい。
 さて、本書が考察の対象とする地域は中国地方全域と広く、展開される議論も多岐にわたるが、その趣旨は簡潔にして明快である。すなわち、中国地方の荒神神楽祭祀は死霊祭祀に関わるというものである。評者も、基本的にはこの考えには同調しており、同様の趣旨のもとで本学会に小論を投稿させていただいたこともある。ただ一方、本書を読んでみて不満に思うところや、研究の課題を感じるところも少なからずあった。以降、本書の構成に沿って内容を概観し、若干の私見を添えさせていただきたい。

序章 民間神楽祭祀の研究史
 序章では、日本民間神楽祭祀研究史を概観する。柳田国男の籠りの概念を継承し、神楽祭祀研究の先駆者となった折口信夫は、神楽は善神の力をもって生命の再生を図るという神座鎮魂論を展開し、今日まで強い影響力をもつとする。そして本田安次らにより、フィールドワークによる本格的な神楽研究が始まったとする。その後、岩田勝は神楽に善神が関わるという一般的な理解に異議を唱え、神楽には善神を招迎するばかりでなく、悪神や悪霊を鎮める側面があることを指摘したが、その方面から神楽祭祀を再解釈する試みは進んでいないという。日中の民間神楽祭祀を比較研究するという新たな手法を用いた諏訪春雄は、日本の民間神楽祭祀の解明には中国をはじめ東アジアの民間祭祀と比較研究する必要性を説いた。中国地方においては、石塚尊俊『西日本諸神楽の研究』(慶友社、一九七九)、岩田勝『神楽源流考』(名著出版、一九八三)、牛尾三千夫『神楽と神懸かり』(名著出版、一九八五)などにより研究が深化した。しかし著者は、広島県の安芸十二神祇や芸予諸島の神楽を研究するうち、「神楽祭祀が対象とする神霊観だけでなく、神楽の本質理解(定義)に関してもこれまでの研究とは異なる新しい視座が必要」(一五頁)であると述べる。

第一部 中国地方の民間神楽祭祀

 第一章 中国地方の民間神楽祭祀
 第一章では、中国地方の民間神楽祭祀の性格を考察するため、広島県とその県境の神楽を紹介する。まず広島県の神楽について、一、衣装や演出方法が巧みなことなどから最も人気の高い「芸北神楽」、二、荒平舞と将軍舞という「日本全国の神楽の中でも特別な価値」(二五頁)のある演目をもつ「安芸十二神祇」、三、藁人形を用いた託宣舞が「県内で最も貴重な神楽の一つ」(三〇頁)である名荷神楽を中心とする「芸予諸島の神楽」、四、比婆荒神神楽と比婆斎庭神楽では神楽の内容が異なるが、「龍押し」など共通の祭祀形式を伝える「比婆荒神神楽」、五、専業の神楽太夫によって伝えられ、「弓神楽」や「五行祭」などを残す「備後神楽」の五つに類型化し、その歴史や現況をまとめていく。
 次に広島県境の神楽として、岡山県の備中神楽、島根県の出雲神楽と大元神楽、山口県の山代神楽と周防神舞、愛媛県の大三島の神楽が紹介される。

 第二章 安芸十二神祇と「将軍舞」
 第二章から第四章にかけて、これまで十分な検討がなされなかったという山陽地方の神楽から、安芸十二神祇、山代神楽、芸予諸島の神楽が検討される。これによって神楽研究の新たな視点を提示し、中国地方の民間神楽祭祀に潜んでいる特徴を提示するという。
 安芸十二神祇の将軍舞は弓を用いた神楽で、将軍舞は西日本各地に多様な形式が伝わっているが、とりわけ中国地方西部の神楽にはそれが濃密に伝承されている。安芸十二神祇と山代神楽の将軍舞には神懸かりが残っているが、注目すべきこととして、この神懸かりには善神を招迎した託宣が行われないことを指摘する。
 この善神に関与しない神懸かりについて探るため、まず阿刀神楽と伊勢神社神楽の将軍舞について、神がかりに至る方式が述べられる。次に、安芸十二神祇の基礎資料である広島県山県郡安芸太田町の大歳神社蔵『正行本』から「将軍正行」を考察し、将軍舞は「宝遊び」と「天大小弓遊び」から成り立つことが示される。「宝遊び」は天から宝である米を降らせ、それを得ることを目的とし、「天大小弓遊び」は神がかって艮の方向に弓矢を放つことを目的としている。現在の将軍舞では「宝遊び」に重心が置かれるが、そうなった背景には、荒平舞における「死繁昌の杖」が死者再生から豊饒をもたらす杖へと変化したのと同様の変化があったのではないかと推測する。このアナロジーによって、将軍舞もかつては「天大小弓遊び」に重心が置かれていたのではないかと考え、もともと将軍舞は「天大小弓遊び」から発生し、将軍舞の神がかりは悪魔を退ける力を獲得するために行われたのだとする。
 この論理をもとに、出雲北島国造家の早玉御神事における「将軍遊」や備後の弓神楽における「弓上げ」も同様に、悪魔を退ける力を獲得するために神がかりが行われたとする。
 これは本章だけのことではないが、推測の積み重ねによって論理が展開されるものの、それがいつか確信的な記述に変わっていることが気になった。さらに著者は、この安芸十二神祇の考察で展開された論理をもって、中国地方の民間神楽は善神に関わる祭祀ではなく悪神に関わる祭祀だと結論づけているが、この段階でそう断じるのは論理の飛躍だと言わざるをえない。

 第三章 山代神楽と「山之神」
 山口県東北部に伝わる山代神楽について、概略の紹介とその成立過程の解明、そして山代神楽成立以前の山代舞の意図と、その中心演目であった「山の神祭」の趣旨の解明が試みられる。著者によれば、山代神楽は藩政期中期あるいはそれ以前から行われており、藩政期末に安芸十二神祇が成立すると、それを全面的に受け入れるほどの改変が加えられ山代神楽として誕生した。ただし、年祭神楽については従来の山代舞の伝統を受け継いだという。
 山代神楽は安芸十二神祇の影響下に成立したが、それ以前は、逆に山代地方の神楽が安芸の神楽に大きな影響力をもっていた。それは山代地方玖珂郡の神職、広兼氏が安芸地方の神社も管掌していたためであったが、著者は広兼家文書のうち、安芸佐伯郡北部での記録である「七年祭御神楽」の実像を明らかにすることによって、「七年祭御神楽」と同一内容だと考えられる山代舞の実像を解明しようとする。
 分析の結果、山代舞は「御湯立」、「神降し」、「十二神楽」、「山の神祭(「山之神」+「山巻き)」の四部から構成されていることが明らかになる。このうち「山の神祭」は、神霊の正/負の両義的側面を合一し、自然に送り返すことを意図しているという。また広兼家文書のうち、天保八年(一八三七)の記録にみえる、餓死者がでたため「山巻き」が行われたという記述を考慮すれば、「山巻き」は山の神など神霊ではなく死霊に関わる儀式だったと考えられ、ひいてはそれを包含する山代舞も、基本的には悪神を清めるために行われていたと結論づける。

 第四章 芸予諸島の神楽と「三宝荒神御縄」
 芸予諸島のなかで古形を保っていると考えられる名荷神楽について、藁蛇でつくつた藁人形(=荒神)を遊ばせるという一風変わった神託舞「三宝荒神御縄」の趣旨を解明し、神楽の目的を明らかにする。考察にあたって、元治元年(一八六〇)に記された『御神楽本』のなかから、とくに古形の神楽である「八注連竹之脩」、「妙見三神御神託」等の内容が検討される。
 それによれば、「八注連竹之脩」は、「八注連」という名称から、かつて出雲や安芸に存在した死霊祭祀の類であり、備後三原地方で行われていた妙見神楽の別名称であると推測する。また「妙見三神御神託」は、妙見神楽の一部をなす行事であったという。そこで備後三原地方の妙見神楽を参照すれば、名荷神楽の「八注連竹之脩」は「妙見舞」、「妙見神託」、「神遊び」から構成されていたと考えられ、このうち「神遊び」は死霊と関わる神楽事であったという。
 次に「三宝荒神御縄」の現行が示され、その趣旨を探るため三宝荒神の性質に話題がおよぶ。荒神信仰の厚い備後地方の事例と、牛尾三千夫と柳田国男の論考をもとに、三宝荒神とは「未だ祖霊ではないが祖霊となる可能性をもつ霊格ということになる。「三宝荒神」は祀れば善神に、祀らなければ悪神化する霊格で、それは死霊と考えていい」(一二四頁)と述べる。なお、「三宝荒神御縄」で藁人形を用いることについては、山口県山代地方でかつて行われた「山神祭」の事例を踏まえ、藁人形は屍の意味合いをもっており「三宝荒神御縄」はそれを鎮め浄化する祭儀だと指摘している。
 以上のことから、名荷神楽を死霊鎮魂の神楽祭祀を核にした神楽だとし、第一部のまとめとして、中国地方における近世中期以前の民間神楽は善神よりも悪神の、しかも死霊鎮魂に関わってきた神楽だと結論づける。

第二部 中国地方の荒神神楽祭祀

 第五章 備後地方の荒神神楽祭祀
 本章のはじめに「荒神信仰ベルト」という用語が提唱される。著者によれば、「広義の荒神信仰は中国地方全域に拡がりを見せて」(一三九頁)おり、「この荒神信仰の盛んな地帯を「荒神信仰ベルト」」(一三九頁)としたという。この文脈からは、中国地方全域が荒神信仰ベルトの範囲内になるはずだが、しかし直後に「備中・美作から備後を通って周防にまで伸びている」(一三九頁)と、その範囲は山陽地方に限定される。ところがそのまたすぐ後では「中国地方全体が荒神信仰によって成り立っていた」(一四〇頁)としており、著者が具体的にどの範囲を「荒神信仰ベルト」としているのか分からない。
 読み進めてみると、著者がここで「荒神信仰ベルト」なる用語を用いたのは、どうやら荒神信仰と将軍舞には密接な関わりがあることを強調するためであったらしい。将軍舞が存在しないとみられていた備後地方に、かつて将軍舞が存在したことをつきとめ、「将軍舞は安芸だけでなく山代・周防から備後・備中にまたがるいわゆる荒神信仰ベルトで行われていた」(一四〇頁)ことと、「将軍舞が山代地方や周防地方の荒神祭祀や安芸地方で最重要演目であった」(一四〇頁)ことから、「中国地方全体が将軍舞を軸に荒神信仰の一大ベルトであった」(一四〇頁)と指摘する。ここでも、荒神信仰ベルトの指す範囲が山陽と中国地方全体との間で揺れ動いている。というよりは、山陽地方の神楽の特徴を中国地方の神楽の特徴として論じているように感じられた。
 山陰地方における荒神信仰の事例として、著者は伯者と石見(大元信仰)を挙げているが、出雲地方にも濃密な荒神信仰が存在している。たしかに出雲の荒神信仰は神楽と結びつく事例が少ないが、松江市忌部町には三十三年ごとに行われる荒神神楽が存在するほか、藁蛇を神木に巻きつける荒神祭は現在も多く伝わっている。また、著者が荒神信仰との関連を指摘する将軍舞も、それに類する演目として松江市忌部町和田家文書の「弓行作法」(藝能史研究会編『日本庶民文化史料集成』第一巻 神楽・舞楽、三一書房、一九七四に収録)や、出雲地方西部の神楽に伝わる「弓鎮守」などがある。
 こうした事例を考慮すれば、仮に「荒神信仰ベルト」という用語を用いて一連の論理を展開しようとするなら、その範囲は中国地方全域とし、さらに山陰においても荒神信仰と弓を採って舞う神楽に関わりがあることを事例の分析により示すべきだったのではないか。
 ともあれ、本章ではこのように中国地方に荒神信仰が深く浸透していることを述べたうえで、とりわけ荒神信仰が盛んな備後地方に焦点が当てられる。まず、多種多様な性格と名称をもつ備後地方の荒神の性格についての考察があり、荒神祠がもともと墓地だったところに据えられていることから、荒神と墓地・死者霊の関係を指摘する。
 次に、事例として比婆荒神神楽、比婆斎庭神楽、そして世羅町小国の荒神神楽の概要と実態が示され、とくに世羅町の荒神神楽について死霊を強く意識して行なわれていた可能性を指摘して終わる。

 第六章 周防地方の荒神神楽祭祀
 備後地方の荒神神楽に続いて、周防地方の荒神神楽が取り上げられる。周防の神楽は神舞と呼ばれ、かつては荒神舞という名称で荒神祭祀が行われていたという。前半部分では周防神舞の成立と、神舞の分布と特徴が示されたのち、岩国行波の神舞を事例に、実行委員会の組織や神殿の建築、そして神楽の実際について述べられる。
 後半部分では、前章の備後の荒神神楽と周防神舞を突き合わせることにより、荒神神楽祭祀の基本構造を抽出することを試みている。それによれば、「いわゆる荒神ベルトの荒神神楽祭祀の特徴を取り上げ」(一九一頁)ると、一、神殿建築(神殿、天蓋、幡)、二、湯立行事、三、天蓋行事、四、五行祭、五、託宣行事(神がかり、龍押し、荒神の舞納め、荒神送り、将軍舞を含む)の五点に集約されるという。前章では将軍舞が荒神祭祀の肝であるように読めたのだが、本章では解釈を広げて託宣行事となっており、ここまで強調されてきた将軍舞の重要性がトーンダウンしているように思われた。ただ、評者にはこちらの解釈の方が実情に合っているようにも思われた。

 第七章 荒神神楽祭祀の祭場構造
 第七章と第八章では、前章で示された荒神神楽祭祀の五つの特徴を祭場と祭式に分け、それぞれについて考察が行われる。第七章では荒神神楽祭祀の祭場構造に焦点が当てられ、神殿建築、天蓋、そして託宣に用いられる白布と藁蛇が取り上げられる。
 神殿建築について、本章ではとりわけ壮大な建築が有名な周防神舞と備後の神楽の事例が紹介される。こうした神殿の意図として、庄原市東城町の栃木家文書のうち、祭文や神楽能の台本に記される神殿の分析から、墓所など死霊と近い場所で死霊供養をするために神殿が設けられたとする。
 天蓋については、一般的に神勧請のための装置として使用される例が多いが、本書では神勧請という目的では説明がつかない、周防神舞や安芸十二神祇などの事例が紹介される。こうした事例について、そもそも天蓋が葬祭と関連性があること、そして鹿児島県の藺牟田神舞における元文二年(一七三七)の記録に天蓋が浄土入りに欠かせない道具とされていたことなどから、中国地方の神楽においても天蓋行事は神勧請ではなく浄土入りのために行われていたとする。
 続いて白布について、備中荒神神楽の「布舞」や大元神楽の「六所舞」など多くの事例を取り上げ、事例の分析から白布は招迎する神霊の質に関わっているとする。そして荒神神楽が死霊祭祀であること、また荒神神楽において白布が多用されることから、白布は死者との血縁を切る装置であると結論づける。
 最後に藁蛇について、比婆荒神神楽や備後神楽など多くの事例を紹介する。山代地方の「山巻き」の記録や、広島県庄原市の栃木家文書の神楽能台本から、藁蛇は死霊を象徴する道具であり、死霊祭祀である荒神神楽でそれは重要な役割を果たすとする。そうして、藁蛇を使う荒神神楽は「生と死の思想を秘めた神楽」(二三三頁)だと結ぶ。

 第八章 荒神神楽祭祀の祭式構造
 前章に続いて、荒神神楽祭祀の祭式構造の考察が行われる。湯立行事の考察では、備後と周防の事例が取り上げられ、湯立行事は諸穢悪を祓うために行われることが導かれる。この後、三信遠地方や東北地方の霜月神楽における湯立行事の事例を援用し、これらが死霊供養のために行われ、周防神舞とも共通点が多いことから、周防神舞の湯立行事も死霊供養を目的としたものだったと結論づける。当該事例の考察から死霊供養という目的が見出されないのに、他地域の事例を用いて結論づける論理展開は、いささか強引で結論ありきという印象を受けた。
 続いて五行祭の考察では、備後の事例が取り上げられる。託宣の前に五行祭が行われる理由として、岩田勝は託宣を得るため祟る土公(地霊)を鎮めるためだとしたのに対し、著者は祭文の分析から「人びとを死霊供養の場に誘い込み、また生死の苦悩を超越することを促」(二七八頁)すためにそれが行われるのだと結論づける。私見では、五行祭が際だって発達した備後の事例のみを見れば、あるいはそのように言えるのかも知れないが、例えば安芸十二神祇の「五龍王」や山代神楽の「五郎の王子」などを見れば、岩田の主張にも注目しておかなければならないように思う。

 第九章 荒神神楽祭祀における神がかり
中国地方各地に伝わる神がかりの方式について、広島県からは小原大元神楽、安芸十二神祇、名荷神楽、備後神楽、岡山県からは備中荒神神楽、島根県からは大原神職神楽、隠岐島後の神楽、抜月神楽、山口県からは山代神楽、長門地方の神楽が紹介される。これら事例の分析から神がかりの特徴を、一、式年の神楽で行われる、二、神勧請の手段として行われる、三、託宣のあるものとないものに分けられる、四、天蓋や白布が使われる、五、藁蛇を使用する、六、死霊供養と関連がある、と整理する。荒神神楽祭祀の神がかりについては、さらに、一、順逆の舞で神がかる、二、神がかりと五行祭がセットになっている、三、前神楽と本神楽の二つの場面で神がかりがあるという三点の特徴があると指摘する。このうち、二つの場面で神がかりがあることについて、荒神には善悪両面の性格があることから、その目的を「守護霊としての荒神の招迎と、悪霊・死霊としての荒神の鎮送」だとする岩田勝の主張(『神楽源流考』名著出版、一九八三)、また荒神神楽を祖霊加入の儀式として捉え、前神楽で祖霊を招迎し神意を伺い、本神楽で新霊が祖霊加入を果たすとする牛尾三千夫の主張(『神楽と神懸かり』名著出版、一九八五)を紹介し、次章の著者による分析へと続く。

 第十章 備後の浄土神楽
 第十章では、比婆斎庭神楽の原型となる旧恵蘇郡の荒神神楽を、庄原市高野町の堀江家文書から再現していく。近世前期まで浄土神楽と呼ばれていたこの神楽は、近世中期頃には吉田神道の影響から次第に荒神神楽/惣荒神神楽と名称を改め、その内容も変化したのだという。資料の分析から、近世中後期の荒神神楽は、一、諸神勧請の「弓祈祷」、二、「神殿入り」、三、神殿清めと「湯立」、「神子舞」、「剣舞」などの神事舞、四、能舞、五、「王子」と「御蓋引」、六、「御幣入」、「神渡」、「神遊び」、「神納」の六祭式で行われていたとし、このうち、「湯立」、「御蓋引」、「神遊び」の三行事が荒神神楽の核をなしていたことを明らかにする。著者は、この三行事について考察を深めることで荒神神楽以前の浄土神楽に接近できるという推測のもと、さらにいくつかの文書資料や現行の神楽を参照しつつ分析を続ける。
 その結果、荒神神楽の基本構造は、勧請した善神を湯立や諸神楽で清め、その善神を浄土へ送るため御蓋引を行い、その後、藁蛇に仮託された祟り霊や諸悪神を鎮送する荒神遊びが行われたというものであったとする。こうして著者は牛尾三千夫の説を退け、岩田勝の説に同調する。そして荒神神楽の原型となる浄土神楽も、この三行事を主眼としていたと結論づける。

 終章 生と死の思想を秘めた中国地方の民間神楽祭祀
 中国地方のなかで、特に山陽地方の神楽に顕著な特徴として、奏楽のテンポが速く、かつ悪鬼が多数登場することを挙げ、その理由を中国地方の民間神楽の根底には悪神・悪霊を鎮送する神楽の伝統があると指摘する。第五章でも感じたことだが、どうも著者は山陽地方の神楽の特徴を中国地方全般の神楽の特徴として論じる節があるように思われる。私見ではテンポの問題を含め、奏楽という観点からみれば、中国地方の神楽を中国地方という枠でくくるのは無理があると感じている。もっと別のとらえかた、例えば山陽地方なら瀬戸内海で結ばれる四国や九州東部の神楽との関連性も考えておく必要があるのではないかと思う。
 ともあれ、天蓋、白布、藁蛇、柱松といった死霊供養に深く関わる道具をもって、まさにそのために神楽を行ってきたことや、その神楽を「浄土神楽」と呼んだ時期があることなどが、中国地方に悪神・悪霊鎮送の神楽の伝統があることを示すとする。そうして、「中国地方の神楽は神楽の根源にふれる、日本神楽の原点と位置づけることができる」(三四七頁)として締めくくる。

 ここまで本書の内容を概観してきたが、次に本書全体を通じて感じたことと、今後の研究の課題について述べてみたい。
 まず一読して、事例として取り上げられる地域の地図が添えられておらず、読みづらさを感じた。中国地方に在住し、本書で取り上げられる事例や、その周辺の神楽についてはある程度見学している評者でさえ、ところどころ地図を手にして位置関係を確認しながら読むこととなった。
 次に、すでに指摘しているが、論を展開するうえで推論や類推を重ねて結論を導き出きだしているところがある点は、せっかくの重要な主張も、いまひとつ説得力を欠く結果となってしまったように思われて残念である。小論であればそれでもかまわないが、それを積み重ねて大局的な結論を述べるには少々心もとない。基本的に評者は著者の主張を支持しているが、しかしそれでも本当にそう言い切って良いのか、結論ありきではないのかと疑問を感じる部分があった。ここで著者の研究手法について批評することは可能だろうが、このことは一方で資料の限界と資料調査の限界を示しているように思われた。資料がすべてを十分に語るわけではないし、また一人の研究者がこなせる資料調査にも限りがある。したがってこの点については、評者も含め地方の研究者が引きつづき取り組まなければならない課題でもある。資料を発見することがどれだけ大変か、評者も少しは分かっているつもりであるが、著者がこれだけの成果を挙げられたことを励みにして、ねばり強く歩き、神楽祭祀の歴史や変遷を明らかにしていかなければならない。

 研究課題についてもう一点述べさせていただく。本書は中国地方の荒神神楽祭祀を中心に考察したものだが、第六章で著者が指摘する荒神神楽祭祀の特徴の多くや、第一章および第二章でその重要性が指摘される荒平舞と将軍舞は、中国地方以外の神楽にも数多く伝わっている。
 例えば神殿建築について、宮崎県の米良山系の神楽や、宮崎県から鹿児島県に伝わる神舞における御神屋、御講屋などは、本書第十章で紹介される比婆斎庭神楽でうたわれる荒神神楽の祭場にも似ているような印象を受けた。天蓋や白布、また湯立行事などは言うまでもなく全国各地の神楽において用いられるし、藁蛇も九州では「綱神楽」、「綱駈仙」、「綱伐」など様々に用いられている。著者が重視する荒平舞と将軍舞についても、前者は「ダイバ(ン)」、「駈仙」、「三界鬼」など、後者は「(弓)正護」など、名称は異なるが西日本各地の神楽で認めることができる。あるいは周防神舞の「八開」や八注連神楽において重要な役割を果たす柱松も、愛媛県の川名津神楽や福岡県の豊前神楽などに認められる。
 各地域における個別事例の調査が進展し、研究成果もそれなりに蓄積されてきた今日、地域を横断した神楽研究は今後ますます盛んになつていくものと思われる。中国地方の荒神神楽祭祀において重要な役割を果たすと考えられる諸要素についても、中国地方という地域の枠にとらわれず各地域を交渉しつつ研究を深めることによって、神楽研究に新たな知見がもたらされるのではないか。

 以上、批判的な物言いもさせていただいたが、一連の研究が中国地方の神楽研究を進展させたことは紛れもない事実であり、その点は評価しなければならない。これまで中国地方の神楽といえば、ことあるたびに岩田勝や牛尾三千夫、そして石塚尊俊らの諸研究を参照してきた我々であるが、本書はそれに続く著作として、多くの研究者に参照されることになるだろう。


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