久保田昌希編『松平家忠日記と戦国社会』

評者:盛本 昌広
「日本歴史」771(2012.8)

 本書は『家忠日記』に関する論考を集めたものである。『家忠日記』は深溝(愛知県幸田町)を本拠とした徳川氏の一族松平家忠が書いたもので、戦国時代の武士の日記として著名であり、史料としてよく用いられてきた。同日記は数年前に家忠の子孫である所蔵者から駒沢大学図書館に寄贈され、現在は原本がインターネットに公開されていて、容易に原本に接することが可能になっている。言うまでもなく、日記は継続性があり、日常生活など古文書にはないことが記述されているという特徴があるので、古文書と日記を併用して、研究を行うのが一般的である。本書収録の論考の多くも『家忠日記』と古文書を併用したものである。以下ではまず収録された論考の内容を簡単に紹介し、次に全体に関する感想を述べたい。

 @久保田昌希「戦国武将の日記を読む」は、駒沢大学禅文化歴史博物館で『家忠日記』に関する展示が行われた際の講演会の内容を活字化したもので、日記に関する全体的な解説になっている。
 A小笠原春香「駿遠国境における徳川・武田間の攻防」は、武田信玄の遠江侵入後から高天神城落城までの駿河・遠江国境付近における徳川・武田氏の攻防を信康事件、北条氏や織田信長との外交の関係を中心に捉えたものである。
 B加藤彰彦「五カ国大名徳川家康と織田権力」は、高天神城攻略から小牧・長久手の戦いまでにおける徳川氏と織田権力との関係を整理したものである。
 C前田利久「天正十四年の家康・氏政会面について」は、天正十四年(一五八六)三月の家康と北条氏政との会面の実態を西山本門寺(静岡県富士宮市)で発見された断簡文書や編纂史料によって明らかにしたものである。
 D佐藤貴浩「徳川氏の関東入国と奥州の動揺」は家康の関東入国後の知行割、軍制の変化、秀吉の奥州仕置後に発生した一揆と徳川氏との関係を述べたものである。
 E平野明夫「伏見城籠城への道程」は家忠の小見川転封後の状況、伏見城普請や伏見城攻防の実態を明らかにしたものである。
 F大嶌聖子「『家忠日記』の情報」は日記の原本の検討により、月日・干支・天候といった基本的な要素、家忠自身の体験と外から伝わった情報では記述方法が相違するといった日記の記載方法を明らかにしたものである。
 G鈴木将典「三河国衆としての深溝松平氏」は、深溝松平氏の支配の実態や徳川氏との関係を国衆論の視点から述べたものである。
 H柴裕之「戦国大名徳川氏の徳政令」は、天正十二年に徳川氏が発令した徳政令を自然災害への対応という側面から再検討したものである。
 I澤田善明「『家忠日記』からみた松平家忠の親族」は家忠の祖父・父の没年、親族の動向を明らかにしたものである。
 J長谷川幸一「家忠と本光寺」は、深溝松平家の菩提寺である本光寺の実態を家忠との関係を中心に述べたものである。
 K角昭浩「『家忠日記』にみられる会所の文芸」は、家忠が傾倒した連歌・茶の湯の内容を述べたものである。
 L中野達哉「関東転封直後の徳川氏の知行制と検地」は、関東転封直後の知行割は段階を踏んで行われ、検地執行により最終的に確定したことを明らかにしている。
そして、最後に人名と地名索引が掲載されている。

 このように、本書は『家忠日記』を主要史料として、多様なテーマを扱い、新たな知見が開陳されていて、各論考はそれぞれ意義深いものである。ただし、その多くは方法論的には日記の記事と古文書や編纂史料の併用という一般的なやり方にとどまっている。これに対して、Fの大嶌論文は家忠による日記の叙述スタイルを明らかにすることで、新たな日記の読み方を提示したものとして意義深い。
 公家の日記に関しては、叙述の目的や管理などをテーマとした日記そのものの研究は従来から多くの蓄積があるが、戦国時代の武士の日記に関しては、そうした観点からの本格的な研究は少なかった。もちろん、@の久保田論文にはこうした観点による考察があるが、日記の叙述スタイルや管理方法、家忠の日記記述に関する意識などをテーマとした論考がほかにも欲しかったところである。
 言うまでもなく、日記は著者が体験したことや情報として得たことをすべて書くのではなく、取捨選択をしている。@Fで指摘されているように、何が書かれ、何が書かれなかったのか、その選択が家忠のいかなる意識の反映なのか、さらには情報の伝達過程などをさらに追究すべきであろう。そうした点を前提とすることで、『家忠日記』の読み直しを行えば、新たなことが見えてくると考えられる。
 戦国時代の武士の日記は他に伊達輝宗日記・大和田重清日記・駒井日記・梅津政景日記などがあり、それぞれ特徴があるが、これらと『家忠日記』を比較して、検討を加えることも必要であろう。また、多くの戦国武士の中で、なぜ家忠らが日記を書いたかという点もいまだに不明確である。さらには@で指摘されているように、江戸幕府が編纂した『朝野旧聞■(ほう)藁』や『寛政重修諸家譜』に『家忠日記』が使用されている点も重要であり、近世における日記の管理や利用法、所有の意義なども、近年近世史研究で盛んな歴史書編纂や由緒論と関連させて論じるべきと思われる。従来、『家忠日記』は本書の各論文で扱われているように、政治や軍事的動向・検地や徳政令などの政策・徳川氏の家臣団編成・織豊政権との関係・芸能・宗教など個別のテーマを明らかにする史料として使用されてきた。今後もさまざまな目的で『家忠日記』は使用されていくだろうが、その場合でも日記の叙述の特性に留意することが必要になるであろう。

 本書収録の各論文ごとに論じるべき点も多くあるが、いくつか感じた点を述べておきたい。ACは戦国大名の境界領域の特性(境目論)も考慮して、分析を加えるべきであったと思う。BDELは近年の織豊政権研究で明らかにされた点も関連させて、徳川氏の動向や家忠への影響を位置づけるべきであろう。Gは徳川領国における国衆の特徴をほかの地域の国衆と比較検討することが今後望まれる。三河の場合は、松平氏の一族が国内に多数存在する点をどのように位置づけるかも課題となるだろう。Hは徳政令発令直前の自然災害の規模が大きかったことは認められるものの、中世には自然災害が日常的であった点も考慮すべきと思われる。Iは親族が果たした役割を国衆論・家中論などと関連させて、論じることも必要であろう。Jは菩提寺が地域に果たした役割に関しても、追究すべきである。Kは連歌会の主催者や構成者が、後期には一族や近隣領主以外にも広がる傾向がある点にも注意すべきと思われる。
(もりもと・まさひろ)


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