川名 登著『戦国近世変革期の研究』 |
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煎本 増夫 | |||||
「利根川文化研究」35(2011.12) |
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著者は河川交通史研究の権威として知られているが、房総里見氏の研究者でもあり、いくつかの単行本も出されている。実は著者と私は明治大学大学院在学中の仲間である。入学は一九五七年、もう半世紀前になる。かれは千葉大学から私は同大学部出身である。主任教授は徳川家康の権威として著名な中村孝也先生で、演習は「家忠日記」を用いた。学生は彼と二人だけだった。報告中、先生は眠ってしまわれるが、終わるといくつか質問されるので不思議に思ったものである。私は修士課程で終り、かれは博士課程に進んだ。あとで聞いた話だが、日本近世史で著名な伊東多三郎先生から、何か大名の研究をやるようにとの指示があって、里見氏をえらんだという。 第一部 戦国後期の領主権力と古文書 まず房総里見氏については、里見氏が九代または十代とする通説に対し、里見五代説を提起する。理由は文書から確かめられるのが通説では六代になる義堯で、それ以前は「殆ど伝説の上の存在、つまり架空の人物」という。そして著者は以後、忠義にいたる代々当主の文書を考証する。戦国里見氏の基礎的研究というべきであろう。もっともその五代説が定説となるのは今後の諸氏の研究成果によることになるが。 第二部の上総・下総における徳川検地については、太平洋戦争後、一九五六年、安良城盛昭氏の太閤検地・封建革命説の提起以来、太閤検地論争が盛んとなり、その一環として徳川検地をどう評価するかの論争があった。太閤検地は小農民自立政策とするから、その観点からの論説となる。これについて北島正元氏が、検地帳において分付記載のないのが太閤検地の自立策であるとし、徳川検地の分付記載については「初期徳川権力が後北条氏の在地名主・土豪層との妥協によりこれらの存在を認定した」とする説を著者は批判され、徳川氏独自の基準で検地した結果とした。一〇〇点近く採集した検地帳の分析は大へんであったと思われるが、地域により時期により分付記載があったりなかったりで、分付記載を基調とする基本方針がみられないという。実は関東入国前に徳川氏の検地には分付記載がみられるから、徳川氏なりの手法であったのであろう。ともかく著者は、検地帳の記載方法からのみ権力構造の特質を論ずることはできないとされたが同感である。 本書は今後の房総の戦国近世変革期研究を進めるさい、避けては通れない一書である。もちろん歴史学には実証的研究が必要とされるが、一点一点の文書を探究され史実を明らかにされた著書の研究心に頭がさがる思いである。大学院で一緒に学んできた仲間として拍手を送りたい。生前、会うときはいつもイッパイいこう″であったが、今度は場所をかえておたがいの仕事の成果をゆっくり話あいたいと思う。 |
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