桐原邦夫著『士族授産と茨城の開墾事業』

評者:布施 賢治
「明治維新史研究」8(2012.2)

 本書は長年にわたり主に茨城県の農業史や水運史などを中心に近代経済史を研究してこられた桐原邦夫氏の諸論考をまとめたものであり、茨城県諸藩の秩禄処分と士族開墾事業が明治政府の秩禄処分および士族授産政策とからめて考察されている。そして、最終的には明治維新における士族の果たした役割とは何かという、大きなテーマが明らかにされる。本書の内容は次のとおりである。

 序章「本書の視点と構成」では、本書の問題意識と構成がのべられる。明治維新はブルジョア革命であり、近代化に士族の果たした役割は大きかった。ただ、その士族とは武士そのままの連続的な士族ではなく、資本主義的近代化の歯車で破砕され陶冶された士族のみが近代化の担い手たりえた。明治前期には種々の士族授産事業が行われたが、開墾事業が大きな柱であった。開墾事業は士族救済という消極的面だけでなく、明治政府の積極的な資本主義化のための上からの資金創出政策であり、士族を近代化の担い手として期待し展開された。

 第一編「秩禄処分と士族授産政策」では、水戸藩と麻生藩の秩禄処分政策が、旧藩の士族授産政策や旧藩士の復籍・復禄請願運動などの動向とからめて詳述される。
 第一章「秩禄処分の実施」では、明治政府が実施した秩禄処分の過程、具体的政策、およびその成果が確認される。
 第二章「水戸藩の秩禄処分と授産政策」では、水戸藩の秩禄処分と授産政策が検討される。水戸藩は幕末期の激しい党争の余韻を明治期まで引きずるとともに、士族の生計は苦しかった。明治政府は反抗気分が残る水戸藩の動向に注目し、また茨城県には広大な荒蕪地が残ることから、荒蕪地を利用しての開墾事業が明治初年からいちはやく大規模に実施された。開墾事業により水戸藩士族はかなりの面積の官林を入手したが、この扱いは内務省が「恩典」と強調するように異例のもので、この政策は水戸藩の党争の弊害を緩和する性格をもっていた。しかし、これらの政策も結果的には少数の士族が農業を営み得たにすぎず、大部分は農民に小作させたり、期限後払下げられた土地の売却などで多少の潤いを士族にあたえたにすぎず、士族授産にはあまり寄与しなかった。
 第三章「麻生藩の秩禄処分と授産政策」では、一万石の外様大名で水戸藩とは異なる様相を示した麻生藩の秩禄処分について、植田敏雄氏の研究成果をもとに考察される。麻生藩では明治四年四月に賜邸制が実施され、邸地、松木、賜金、貸付金が支給、貸付けられた。これにより、土着して実業や開墾に従事した士族もいたが厳しい結果となった。明治初年には禄制改革が実施されたが、家禄奉還者に対して政府から支給された手当額の不足、卒の平民編入とそれによる家禄の無支給という問題が発生した。この問題に対しては、旧藩大参事の三好琢磨が代表者となり、大蔵省や行政裁判所へ復禄請願が旧藩の総力を結集して取組まれた。

 第二編「士族開墾事業の展開」では、茨城県内で実施されたさまざまな開墾事業の詳細が明らかにされる。
 第四章「明治政府の開墾政策」では、茨城県の士族開墾事業を考察する前提として、明治政府の開墾政策が検討される。
 第五章「茨城県内の士族開墾事業の概観」では、明治前期において茨城県内の士族結社を中心に行われた開墾事業が概観される。水戸藩士族の事業では、明治九年に設立された勧業試験場、東京市場を視野に入れたバター・牛乳・牛肉などの牧牛経営をめざした桃林舎、水戸徳川家の家令と士族有志により授産が話しあわれ設立された就産社があった。土浦藩士族の事業では、明治十四年に設立され旧藩主が拝借した信太郡君島村の官有荒蕪地の開墾である君島村開墾地、士族による霞ケ浦沿岸の官有原野開墾である樹藝杜は、明治十四年の創業時には旧藩主から三〇〇〇円の補助をうけ、明治三十九年には開墾地の払下げをうけたがこれも旧藩主の力が大きく、そのため後に藩主への「感恩の碑」が本社跡地に建てられた。また、士族津田出による大農論による開墾事業の阿見原(あみっぱら)開墾、山形県士族鈴木安武による鈴木農場などがあった。
 第六章「弘農杜の士族開墾事業」では、明治十三年に設立された、茨城県行方郡の原野地の官有地貸与をうけた開墾結社である弘農社について検討される。弘農社の特徴は「行方全郡ノ協力」をもって設立され、社の土地財産は「全郡人民ノ共有物件」とみなすことを理念に事業が開始された点にあり、郡長の強力な指導があった。しかし、開墾資金調達は郡内の村々から集まらず、社長に迎えられた三好琢磨は自身の財産を売却して資金にあてた。以後も郡長交代による資金調達の困難などもあり経営は困難だったが、めざす大農法による経営は行われたようで、開墾事業の終了とそれにともなう拝借地払下げ願いの提出、土地の株主への配分も行われ、明治二十八年に弘農社は解散した。
 第七章「波東農社の士族開墾事業」では、旧下館藩士族舟木真とその親類の士族が中心となり、鹿島郡の官有荒蕪地の貸与をうけて明治十三年に設立された士族開墾農場である波東農社について検討される。波東農社はその特徴として「牧畜穀作混合農業」を行い、事業の中心に牧羊業がおかれたことがある。これは、舟木が内務省勧業寮につとめ牧羊業に明るい見通しをもったことに由来する。しかし、肉類の販路の少ないことなどから経営は苦しく、明治二十九年に解散する。

 終章「士族開墾事業の歴史的意義」では、茨城県の事例を踏まえたうえで、士族開墾事業の歴史的意義がまとめられる。政府のすすめる西欧式大農法は在来農法とかけはなれ、農民とのあいだで入会地をめぐる紛争が絶えなかった。士族開墾結社の多くは政府からの援助にかかわらず失敗した状態で解散した。しかし、士族開墾事業は歴史的意義のない徒労ではなかった。失敗であるという結果は大農法の導入・普及という意図からであり、「寄生地主制」といわれる小作制度のもとでの、小農経営というかたちでの農業生産は確実に進展をみせ、この面に着目すれば、全面的な農業生産の拡大・進展の契機としての「本源的蓄積」が進展したとみてまちがいなく、士族開墾事業は日本資本主義の形成に大きく寄与したといえ、その意味から政府の殖産興業政策の重要な担い手としての士族の果たした歴史的意義は大きかった。

 本書は士族開墾事業の事例から、資本主義化と近代化に果たした士族の役割という大きなテーマが検討されている。近年の士族研究は、近代において士族が果たした文化的・社会的役割とその国民国家形成上での位置づけを明らかにするものが多いが、そのような研究動向のなかで、本書は士族とその開墾事業が近代化と資本主義化に重要な役割を果たしたと、大きな論点に対して積極的な評価を与えている点が注目される。
 開墾結社の中心となる士族は、以前に内務省勧業寮で殖産興業の経験をもつ者や、士族のなかでも維新後に士族社会や地域社会において台頭してくる人物であり、これは著者の指摘する、陶冶された近代化を担う士族にあてはまると考えられ、旧藩時代の身分制とは異なる非連続的な流れといえよう。近代化に果たした士族の役割という大きなテーマを考える上で、重要な指摘である。その一方で、旧水戸藩の開墾事業は幕末期の派閥党争の救済策的意味をもつなど、開墾事業が幕末期以来の藩政治史と連動している点は興味深い。
 開墾事業は、旧藩主家やその家令といった旧藩や、郡といったまとまりをもとに、それに個人の力がかさなりあって推進され、特に個人の力が事業に大きく影響していたことがわかる。本書は、士族開墾事業の問題を、政府や県の援助という従来的な問題意識だけでなく、旧藩や郡、そして士族や郡長といった個人がどのように関わったのかという視点からとらえている。このような視点から検討することで、士族開墾事業がもつ地域や旧藩との重層的な関係性が明らかにされ、事業の成果と限界への評価がより多面的な視角から与えられるようになったといえる。
 結社の解散業務や秩禄処分の不備に端を発する復禄請願が大正期まで継続し、また事業が形こそ違え現在に受け継がれ、地名化して残るなど、士族授産問題は明治初期に特有の政治問題ではなく、広く藩政史や地域史をふくむ近現代史の問題であることがわかる。本書は、士族授産事業がそのような大きな広がりを持つ問題であることを示しており、歴史的事例としての士族開墾事業がはらんでいる問題の深さと広がりを予見させる内容となっている。
 以上のように、本書は士族研究に新たな研究視点と問題意識をあたえるものであり、多くの研究者および一般の人々に読まれ活用されることを期待したい。そして本書の成果により、日本の士族開墾事業の全体像と秩禄処分の歴史的意義の理解がすすむことを期待したい。


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