大西泰正著『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』

評者:森脇 崇文
「日本史研究」586(2011.6)

 本書は、岩田選書・地域の中世シリーズの第七巻として刊行された、豊臣期宇喜多氏を取り扱う研究書である。
 宇喜多氏に関する研究は、しらが康義氏の「戦国豊臣期大名宇喜多氏の成立と崩壊」(『岡山県史研究』六、一九八四)が一つの到達点とされてきた。この論文では、戦国末期の備作地域に台頭した直家と、豊臣大名として成長し関ヶ原合戦で没落した秀家の二代にわたる検討がなされ、具体的な宇喜多氏権力像が提示されている。それから約二〇年、直家期に関しては多くの論考が発表され、しらが論文の枠組みは大きく塗り替えられてきた。しかし、その一方で秀家期の研究は、しらが氏段階から殆ど進展のないまま停滞してきたといえる。
 だが、その研究状況は、ここ数年で一変をみせる。秀家期宇喜多氏に関する研究は飛躍的に増加し、今や直家期をしのぐ活況を呈しているのである。そして、その起爆剤となったのが、本書の著者である大西泰正氏の精力的な研究活動であることは疑いない。近年の宇喜多氏研究を牽引してきた著者が、これまでの研究成果をまとめる単著を刊行されたことは、宇喜多氏研究において大きな意味を持つものといえるだろう。

   2

 最初に、本書の構成を概観しておきたい。

 序 論 宇喜多氏研究の現状と課題
 第一部 宇喜多秀家と豊臣期宇喜多氏権力
  第一章 宇喜多秀家論
  第二章 宇喜多氏家臣の叙位任官
 第二部 秀吉死後の宇喜多氏
  第一章 宇喜多騒動の経緯
  第二章 宇喜多騒動の展開と結果
  第三章 宇喜多秀家の関ヶ原合戦
 第三部 宇喜多氏をめぐる群像
  第一章 宇喜多忠家
  第二章 浮田左京亮
  第三章 長船紀伊守と中村次郎兵衛
 終 論 宇喜多氏研究のこれから

 まず、序論では宇喜多氏の研究状況が述べられ、しらが論文以降を中心に、先行研究が整理されている。そして、秀家期の研究が等閑視されている現状に疑問を投げかけ、宇喜多氏権力像の再構築を本書の課題とするのである。
 第一部は、豊臣政権内における宇喜多秀家、および大名権力としての宇喜多氏の役割を検討するものである。第一章では、秀吉が秀家を寵遇する一方でその器量を不安視していた点を指摘し、秀家の豊臣政権内におけるその地位を、豊臣一門という境遇から引き立てられたものと位置付ける。そして、秀家は宇喜多氏内部の統制に関しても秀吉の影響力に依存するところが大きく、それが秀吉死後の家中騒動(研究史上では「宇喜多騒動」と呼称される)の勃発にも繋がったと結論付けている。第二章では、岡・長船・富川の宿老三氏をはじめとする宇喜多氏重臣の叙位任官を検証し、その背景に秀吉による宇喜多氏への配慮を見出す。
 第二部では、秀家の後援者である秀吉が死去した後の、宇喜多氏の動向が検討される。第一章・第二章は、これまで研究が進んでいなかった宇喜多騒動の実像解明を試みたもので、騒動に至る過程や騒動の経緯を精緻に再構築しつつ、通説を大幅に描き直す。第三章は、関ヶ原合戦に際しての秀家の立場を取り上げ、西軍への参加を当然視する従来の説を見直す。そして、秀家の西軍参加が「内府ちかひの条々」の公表直前、すなわち慶長五年七月中旬まで流動的であった可能性を指摘している。
 第三部は、豊臣期宇喜多氏において枢要な役割を果たした人物の個別研究である。第一章は秀家の叔父である宇喜多忠家を、第二章ではその忠家の嫡子である浮田左京亮を、第三章では宇喜多騒動において左京亮らと対峙した長船紀伊守と中村次郎兵衛を、それぞれ論述対象とする。各章とも、関係史料の博捜を通じて、近世軍記などで形成されたイメージを打破することを意図しており、これらの面々の宇喜多氏における位置づけを探る前提作業といえるだろう。
 そして終論では、宇喜多氏研究が今後向かうべき方向について展望したうえで、著者自身が本書に残された課題を振り返り、論を結んでいる。
 ここまでの紹介で分かるように、本書は豊臣期宇喜多氏の実像を明らかにするための基礎的検討作業に、全篇を費やすものである。これらは全て既発表の論文の収斂であり、著者がこれまで積み重ねてきた堅実な基盤整備の努力に、改めて敬意を表したい。

    3

 それでは、具体的な内容に踏み込んで本書の意義と疑問点を述べていこう。
 第一部の内容は、大別して「秀家(宇喜多氏)にとっての豊臣政権」、「豊臣政権にとっての秀家(宇喜多氏)」という二つの論点に分けられる。前者に関しては、しらが論文や『岡山県史 近世1』(一九八四)によって枠取りがなされたものの、それを正面から受けとめる研究者が現れないままとなっていたように思われる。本書はその枠組みを継承し、現在の研究水準から捉えなおす試みとして重要な意味を持つ。また、後者についていえば、従来の豊臣政権論では無視に近い扱いを受けている、秀家および宇喜多氏の存在に注意を喚起した点だけをみても、大きな前進といえるだろう。
 気になるのは、特に後者の論点において、秀家の器量不足、あるいは秀吉によるそうした評価を強調するあまり、議論がその次元で終始している感があることである。例えば、著者は秀吉がその臨終に際して、毛利秀就と宇喜多氏息女との婚姻を命じた理由を、秀吉死後の秀家の身上を不安視したためと想定する(四〇頁)。しかし、これはかつて秀家の姉を吉川広家に嫁がせたように、宇喜多氏を鎖として毛利氏を豊臣政権に引き付ける方策とみるべきだろう。親族大名たる宇喜多氏が担う役割の一端をうかがわせこそすれ、ことさらに秀家の器量や立場の弱さに結び付けるべき事例とは思われない。そもそも、秀吉が秀家を取り立てた理由が、彼の将器や政治手腕によるものでないことは、さほど強調すべきことでもない。重要なのは、秀吉がその器量を不安視しつつも、いかなる役割を期待して秀家に枢要な地位を与え続けたのか、という問題である。秀家や豪姫への秀吉の個人的愛情を、五大老にまで取り立てた主因とするのは、やや説得力に欠ける。一門衆である秀家を政権中枢に位置付けることは、豊臣政権にとってどのような意味を持っていたのか。そのあたりを、もう少し掘り下げた検討が欲しかったところである。
 また、宇喜多騒動後の宇喜多氏を「瓦解に近い状態に陥った」(四七頁)とする評価は、果たして妥当なのだろうか。この点は著者のみならず、先行研究でも自明のごとく扱われているが、その徴証として指摘されるのは軍事面での弱体化であり、権力構造については未検討のまま放置されている。その軍事面にしても、質的な弱体化の推測がなされるのみで、関ケ原合戦に際して多数の軍役動員を達成し、西軍の主力として機能した事実は評価されていない。近年の幕藩制研究では、近世初期の家中騒動を、大名「御家」確立の重要な契機と、積極的に評価する見解がある。宇喜多騒動に関しても、簡単に「瓦解」「致命的」との評価を与えるのではなく、権力構造の変化を念頭に置いた再検討が必要となるのではないだろうか。

 続く第二部の意義は、何といっても宇喜多騒動の具体的過程を明らかにしたことに尽きる。特に、騒動で秀家に武装抵抗の構えをみせた宿老たちが、家康の周旋による退去の後は一枚岩の行動をとっておらず、その一部は宇喜多氏に帰参していたという事実は、従来の宇喜多騒動像に大きな修正を迫る成果といえよう。全三章のそれぞれが、慶長五年段階の秀家と宇喜多氏をめぐる状況を、客観的に捉えなおそうという意欲に満ちた好論である。
 しかし、その成果と比べれば些少なことではあるが、細かな疑問点はいくつかみられた。例えば、著者は文禄三年の惣国検地を宇喜多騒動の主因として重視しているが、惣国検地が宇喜多氏家中に具体的にどのような負荷をもたらし、武装反抗にまで走らせたのかという点には、なお不透明な部分が残る。安堵知行から宛行知行への変化は決起に至るほどの理由とは思われず、宇喜多氏の分限帳をみる限り、知行の削減や加増の停滞も想定できない。秀吉の後ろ盾を失ったとはいえ、主君秀家との全面対決は自殺行為ともいえる危険な賭けである。その背後には、もっと喫緊の理由が存在したのではないだろうか。その解明が、今後の課題といえるだろう。
 また、宇喜多騒動の分析において、著者は宇喜多騒動での退去者を示すとされる○印が付された分限帳写本「浮田家分限帳」(『続群書類従』巻二五上収録)に着目する。そして、印が付された人物たちが、大身から零細まで幅広い持高階層に分布することから、宇喜多騒動への参加者が宇喜多家中のあらゆる層に及んでいたと結論付けている。だが、この「浮田家分限帳」に付された○印は、「慶長初年宇喜多秀家士帳」(金沢市立玉川図書館加越能文庫蔵)など、より原本に近いと考えられる写本では確認できない。また、印が付された人物の中には、宇喜多騒動より後の段階で宇喜多氏における活動がみられる者が複数存在し、その信憑性には疑問符がつく。恐らく、この○印は分限帳が筆写されていく中途で付加された、後世の注記と考えるべきだろう。著者もこの点は熟知した上で、あえて論証に取り込んでいるのだが、こうした史料を用いることは、著者による宇喜多騒動の性格定義に、かえって瑕疵を与えるのではないだろうか。編纂史料の積極的活用を標榜する本書だからこそ、論証に用いる史料の選定には細心の注意を払うべきと考える。
 もうひとつ、著者は関ヶ原合戦以前における秀家と家康の関係に「融和的」要素を見出そうとしているが(一三一頁)、その論拠は評者には分り難いものだった。本多政重の仕官については、当時の政重は秀忠乳兄弟の殺害を契機とした出奔から間もない時期とされ、徳川氏とのコネクションは考えにくい。二万石という宿老クラスの待遇も信憑性に乏しく、ここから家康との関係を見出すのは、やや強引に過ぎよう。著者が家康からの「秋波」とみる秀家の嫡子を家康の婿にするという勧誘についても、それを伝える富川達安の書状をみる限り、明らかに秀家の隠居を前提とした内容である。大名権力としての宇喜多氏に対する家康の関心はともかく、とても秀家との友好関係がうかがえる内容とは思われない。このあたりの論述は、秀家の中立性を強調しようとするあまり、いささか結論ありきの議論となっている印象を受けた。

 第三部の個別人物研究は、著者による検討以前には研究が皆無であった人物ばかりで、その全てが新たな成果といいうる。その分、分析内容は未だ粗削りな印象を受けるが、その取り組みは大いに評価するべきだろう。一つ欲をいえば、宇喜多氏家中の全体像に対する著者のイメージが、今ひとつ不明瞭なのが残念である。例えば、長船紀伊守と中村次郎兵衛は、ともに秀家の「出頭人」とされているが、彼らは個別に秀家と結節する存在なのか、それとも秀家−長船−中村と、縦軸の関係を想定できるのか。個別人物研究を深めていくには、人物同士の相互関係、そしてそれを集成した全体像の構築は欠かせないだろう。もっとも、この点は著者自身が終論において今後の課題とするところである。本書の個別人物研究を足がかりに、今後提示されてくるであろう著者の構想する宇喜多氏権力像に注目したい。

    4

 さて、本書を語る上で避けて通ることができないのが、後世に編纂された家記や軍記類など(以下、二次史料と総称)の活用の是非である。著者の研究姿勢は、二次史料を積極的に論証素材として活用するものであり、本書においても一七世紀後半に成立した「戸川家譜」や「浦上宇喜多両家記」などを分析対象としている。このような姿勢に対しては、史料価値への懸念から、疑問を投げかける向きも多いだろう。実際に、光成準治氏はその著書『関ケ原前夜』(NHK出版、二〇〇九)の中で、二次史料を用いた著者の宇喜多騒動分析の危うさを批判し、これに対しては著者自身が本誌上において反論をおこなっている(「宇喜多騒動をめぐって−光成準治著『関ヶ原前夜』第五章への反論−」、『日本史研究』五七三、二〇一〇)。
 先に評者の意見を述べておくと、二次史料を再評価する著者の姿勢は、大いに賛同すべきものと考える。確かに、二次史料がしばしば作成者の偏見や虚構で歪められ、そのまま活用することができないのは厳然たる事実である。その点をもって、二次史料の利用を極力排し、一次史料のみで論を組み立てるべきとする主張も、納得できないものではない。しかし、最初から二次史料を無視し、その活用を放棄することは、史実を再構築するためのアプローチ方法を、自ら狭めることにつながるのではないか。特に、宇喜多氏の活動した備作地域など、史料が限られた環境においては、数少ない一次史料を有効に活用していくためにも、二次史料の徹底的な検証作業は必要不可欠といえる。二次史料がそのまま活用できない玉石混淆のものであっても、一次史料とのつき合わせや、二次史料相互のテキスト比較などによって、玉のみを拾い出すことは十分に可能なはずである。
 もちろん、二次史料の扱いには多様な見解があって当然で、禁欲的にこれを用いないというスタイルを否定するつもりは毛頭ない。しかし、著者の研究姿勢は、決して二次史料の記述を無批判に取り入れるものではない。その妥当性の検証を試み、断定しえない場合は慎重な留保を付けながら、そこに眠る史実の析出を模索するものである。もし著者に対して批判をおこなうならば、単に二次史料を用いたということではなく、著者が用いた二次史料が、いかなる理由から信頼に足るものではないかを具体的に指摘するべきだろう。その方が、より建設的な議論に繋がっていくことは間違いない。

    5

 以上、ここまで様々な意見を述べてきたが、本書の刊行が、宇喜多氏研究の重要な礎石となることは間違いない。後進の研究者は、しらが氏の研究とともに、本書の成果といかに向き合うかが出発点となるだろう。いささか辛辣な言葉を用いた部分もあるが、それはひとえに本書の役割を重視するがゆえであり、著者の海容を願うところである。
 本書終章で展望されたように、秀家期の宇喜多氏研究に残された課題は、まだまだ数多い。また、事実研究の蓄積により、今後は宇喜多氏自体を素材として捉え、より大きな研究史上の論点に迫る試みも活発になってくるだろう。著者には、豊臣期宇喜多氏研究の先導役として、これら両方面をリードしていく活躍を大いに期待したい。
(徳島市北田宮三−一〇−一八−一〇四)


詳細 注文へ 戻る