水谷 類著『中世の神社と祭り』

評者:貴田 潔
「日本歴史」763(2011.12)

 本書は、『廟墓ラントウと現世浄土の思想』、『墓前祭祀と聖所のトポロジー』(ともに、雄山閣、二〇〇九年。以下、『廟』『墓』と省略)に続く著者の三冊目の単著である。『廟』『墓』では石造物・絵画を中心とした民俗学的アプローチが前面に出されたのに対して、本書は文献史料に特化した研究方法を取る。著者の幅広い関心と研究方法を知ることができる。また、本書の序文では、「文献資料は「伝承の海」に漂う数枚の枯れ葉でしかない」といい、民衆の側から〈神社と祭りの世界〉を描こうとする研究姿勢が強く表明されている。

 本書の構成を説明しよう。
 第一章「鹿島社大使役と常陸大掾氏」(初出一九七八年)は常陸国鹿島社の七月大祭の歴史的性格を検討する。一三世紀中葉から一五世紀初頭には、常陸大掾氏七流が同祭の大使役を七年ごとの巡役で勤めており、その費用も多くが各氏の知行から供出されていたと論じる。七月大祭を担った国衙と大掾氏の役割の大きさを強調する。
 第二章「中世神社における社領支配の特質」(初出一九八一年)は、鹿島社の社領支配と神官組織の構造を考える。中臣氏の独占した大禰宜職こそが社家の中心的神官であり、大禰宜所領の私領化は、社家が地頭や在地の有力層と対峙する中でなされたと評価する。
 第三章「国司神拝の歴史的意義」(初出一九八三年)は、国司神拝が、国司の就任儀礼として一〇世紀後半から一一世紀前半までに一般化していったと述べる。国内諸神祇による就任の承認という意義を見る。国司の部内巡行という公務に、諸神祇に対する慣例的な神拝が結びついたところから発生したという。
 第四章「惣社の成立」(初出一九八五年)は、国惣社の起源を国分寺惣社に求める。まず、惣社成立の前提条件となる国内諸神祇の統合は、国分寺の法会における神勧請の儀式の中で一般化したという。後に、新たな中世的神祇ヒエラルキーが成立すると、一宮は国鎮守の頂点として、惣社は国鎮守の総体として相互補完的に機能するようになったと論じる。
 第五章「猿投神社の田遊史料」(初出一九七九〜一九八一年)は、三河国猿投社の修正会の結願に際して行われた田遊を復原する。中世の修正会では、同国高橋荘の人々に対して聖なる種米である「不動ノ稲」が下行されており、田遊も「中世高橋荘の荘民全体にとって、農耕開始を告げ、また農事の安穏を約束する重要な祭り」だったと主張する。
 第六章「中世の村落と宗教」(初出一九八一年)は、村落に対して神仏が発揮した開放性と閉鎖性を探る。支配者による支配のイデオロギーと、被支配者による抵抗のイデオロギーを含みこんだところに中世の宗教の特質があり、両者が日常的にぶつかり牽制しあう場こそが、村落の社祠・寺堂だったという。
 第七章「「宗教センター」と「宗教サロン」」(初出二〇〇四年)は、一四世紀の三河国を素材に、地域の住人の精神的欲求に応えるために様々な法会・祭礼を実施する場、知識を集約・再生産・提供する場としての神社の姿(「宗教センター」)を描く。かような神社は、多様な遁世者や在俗の知識人などを通じて、より広域な宗教文化圏(「宗教ネットワーク」)に繋がっており、さらに、その結節点にある寺社には、集積した知識を論議する場としての役割(「宗教サロン」)もあったと述べる。
 第八章「今宮神社の祭礼と鹿沼の人びと」(初出二〇〇七年)は、下野国鹿沼宿の今宮権現を素材として、中世の領主権力と周辺の村々を基盤とした頭役祭祀から、近世的な都市祭礼へ移行する地方寺社の展開を捉える。
 第九章「地方神職と卜部神道吉田家」(新稿)は、同じく今宮権現の事例から、伝統的な日光山の宗教的呪縛を克服する地方神職と、慣習的な禁忌を解いて彼らの要求に応える吉田家の動向を、「十八世紀以降に起こった近世的神社改革のひとつのきっかけ」と評価する。

 本書のうち、六つの章は一九七〇〜一九八〇年代に発表されたものだが、序文によれば基本的な考え方や結論に変更を加えていない。ただし、本書から近年の研究の展開が読み取りにくいことも事実である。例えば、第三章や第四章の初出論文は、井上寛司『日本中世国家と諸国一宮制』(岩田書院、二〇〇九年)で、一宮制の成立を論じるための理論的支柱としてふんだんに援用される。本書に関わる学界の動向に対して、各章の末尾にコメントを附して、著者の見解を示しても良かったのかもしれない。
 さて、民衆史の視点から〈神社と祭りの世界〉を論じた本書の成果をより発展的に継承する上で、将来的な研究の課題に触れたい。

 一つ気になったのは、本書が民衆の側から神社史・祭礼史を見る立場を取りながら、村落の社祠・寺堂の存在にほとんど触れられずにいる点である。第六章でもこれらの存在を問題視してはいるが、一方で事例として取り扱った猿投社は後世に三河国三宮として位置づけられていたとも述べる。これを小規模な村落の社祠と同等に扱うことはできないように思われる。
 村落の中に設けられた小さな寺社は民衆にとって最も身近な宗教施設だが、成立や実態を文献史料から追うことは非常に難しい。かような社祠・寺堂の重要性は再確認されつつあるが(坂本亮太「中世村落祭祀における寺社の位置」〈『国史学』一八六、二〇〇五年〉)、史料的な制約から一宮など規模の大きな寺社が分析の中心となっているのが、中世神社史研究の現状である。また、歴史地理学の分野では、集村化現象という視点から、現代に繋がる村落の形成が論じられるが(金田章裕『微地形と中世村落』〈吉川弘文館、一九九三年〉)、村落形成の核となったのは、こうした小規模な社祠・寺堂ではなかろうか。神社史研究をより豊かなものにするためには、民俗学だけでなく歴史地理学や考古学の成果を慎重に取り入れながら、民衆により密着した寺社の存在を村落の歴史とともに探ることも重要な課題だろう。

 ところで、先に刊行された『廟』『墓』は、中世後期の村落におけるイエの成立とセンゾ祭祀の展開を論じている。前述の坂本亮太氏の研究も、中世の寺堂には仏事を中心として村落内のメンバーシップを確認する機能があり、この役割が近世寺請制の前提になったという。著者と坂本氏の議論は、イエの成立という点で少なからず関わるようにも見える。
 村落と民衆の側から中世の信仰を考えることは、本書が探求した(神社と祭りの世界)の研究をより豊かな形で継承するためにも避けられない。また、本書の読者には『廟』『墓』も併せて読むことを勧めたい。民俗学・文献史学の枠を越えて、祭礼・葬制・墓制など中世の宗教関係を包括的に議論する著者の研究を読みとく中で、新たな民衆史研究の可能性を見出すことができるように思われる。
 (きだ・きよし 九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程)


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