都市と祭礼研究会編『江戸天下祭絵巻の世界』

評者:鬼頭 秀明
「民俗芸能研究」51(2011.9)

 山・鉾・屋台などの類が登場する祭りは全国各地で見ることができる。その形態と呼称、さらに漢字表記も実に多彩で、これらの相違は地域による文化の特色を強く反映した結果である。ところが明治時代以降は全国共通語としての「山車」の表現が流布し、それぞれの土地で言い慣わされて来た呼び方が無視されるようになった。しかし、近年では伝統の呼称と表記を大切にしようとする気運が高まっている。

 山車の語は江戸の祭礼で登場した「出し」に由来する。その「出し」は鉾などの先端を飾る造り物で、屋台などの禁制により苦肉の策として改良を加えた結果、部分名称から全体名称へと昇格したのである。江戸の祭礼も時の政策により翻弄されたことを物語る事例といえよう。今では東京の祭りと言えば神輿一辺倒になっている。テレビの時代劇を観ても時代錯誤の神輿が登場する始末である。ところが江戸時代から関東大震災前までは江戸市中の祭礼に山車の類である「出し」が各地で登場していた。その頂点が神田祭と山王祭であった。この両者の祭礼は江戸時代まで隔年に交替で行われ、その行列が江戸城に参入し将軍も上覧することがあったので天下祭とも称された。さらに周知のように正徳四年(一七一四)に一度だけ開催された根津神社の根津祭も天下祭に加えられている。それらの濫觴には諸説あるが十七世紀後半には恒例化し、文久二年(一八六二)に山王祭の行列が郭内に入ったことで幕を閉じたとされている。

 長いこと山車の発生は、折口信夫以来の依り代論で説明されてきたが、江戸時代以降の都市祭礼を解釈する上からは無理があった。矛盾を含んだまま時間が経過し、ようやく一九九〇年代になると植木行宣氏が提唱した「囃すもの」と「囃されるもの」の解釈が浸透し、近世以降に現れた山・鉾・屋台の祭礼も容易に理解することが可能になったのである。これは拍子物風流の解釈を説明発展したものであった。

 関東各地の山車祭礼には「我が祭りこそ天下祭の伝統を受け継ぐ祭り」と自負する所も少なくない。それは人形および囃子を中心とする江戸型山車に象徴される。ところが最近の研究成果によれば、現在の江戸型と呼ばれる山車形態が登場するのは遅く、いくら天下祭と称しても政治の影を強く落した結果であった。しかし、その強引な規制を当時の江戸っ子達が巧みに利用した結果、多彩な出し物と演出により、活気ある魅力的な江戸の祭りへと形成されていったのである。その一つが附祭であった。いわゆる仮装と芸能をともなった曳き物や練り物で、この晴れの場で江戸の町人達がエネルギーを爆発させたことは想像に難くない。

 天下祭は町人だけが熱狂したのではなかった。大奥の御殿女中の欲求に応えた趣向の「御雇祭」もあり、それは神田祭や山王祭に該当する氏子以外の町へ命じた臨時の附祭の催し物である。その費用は下付されたが町内の出費はそれ以上要したことはいうまでもない。これは享和元年(一八〇一)から天保十一年(一八四〇)という短い期間に出されたもので、以降は既存の附祭を出す町内数が規制されたという。現在では忘れ去られている附祭が「出し(山車)」よりも、江戸の祭礼、特に天下祭では身分を問わず多くの人々から期待されていたのである。

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 さて前置きが長くなってしまったが、福原敏男氏を代表とする「都市と祭礼研究会」は天下祭の研究成果の第二弾である『江戸天下祭絵巻の世界−うたい おどり ばける−』を世に出した。同書は「神田明神選書2」でもあり、その1は『天下祭読本−幕末の神田明神祭礼を読み解く−』と題し、新しく発見された嘉永四年(一八五一)の「神田明神祭礼御用留」の紹介と、各分野からの読解帖と題した研究論考が加えられ、あまり知られていない天下祭の実態を垣間見ることができた。

 これまで江戸時代の政治の中心地であった江戸の祭礼研究はなぜか成果が進まなかった。本拠地よりも周辺から探索された時代が長く続いたのである。それを打ち破るべく附祭を探求する面々が集い研究会を続けてこられた。都市と祭礼研究会は福原氏が「はじめに」で述べているように会員が「附祭研究会」、さらに略し「附研」と称しているという。
 さて本書の主要目次は次のような内容である。

一、この本の見方(収載資料対照表・氏子町々と神輿運行経路図)
二、天下祭絵巻
  「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」「山王祭之図」(解説福原敏男)
 論考1 八反裕太郎「国立国会図書館蔵「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」について −浮世絵師の肉筆祭礼絵巻研究序説−」
 論考2 福原敏男「「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」第六巻と「山王祭礼絵巻」附・荷茶屋について」
 論考3 田中敦子「文政期の関東都市祭礼 川越と前橋を例に」
三、祭礼番附
  「文政八年御免神田明神御祭礼番附」「文政八年神田明神 御祭礼御免番附」(解説 亀川泰照)
四、文政八年神田御雇祭の文献資料
  「神田明神御用祭 踊子芸人名前書留」(解説 滝口正哉)
  「秋山家文書」(解説 鈴木努・亀川泰照)
 論考4 入江宣子「文政八年神田御雇祭の音曲」
 論考5 亀川泰照「家守から見た御雇祭」

 このように神田明神選書の創刊号が時を嘉永四年という限定したのと同様、同選書二号となる本書も研究会で資料選定の協議が重ねられた結果、神田祭における文政八年(一八二五)の御雇祭絵巻に着目し、同年の史料とともに論考を加える内容となった。

 巻頭には「一、この本の見方」がある。それは本書が主眼に掲げている二種の祭礼絵巻、特に前者の「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」は文政八年の神田祭全てを掲載するものでないため、どの場面であるかを祭礼番附により一目で分かるよう工夫し、本書で取り上げた関係史料も該当町内横に赤字で頁を入れ、さらに神輿運行経路を江戸時代の地図で示している。このように少しでも読者が理解できるよう便宜が図られている。

 本書の題名『江戸天下祭絵巻の世界』に因む「二、天下祭絵巻」は、共に国立国会図書館が所蔵する「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」六巻と「山王祭之図」一巻をA四横版という版形の特性を生かし、そのすべてをカラー図版で上段に絵巻物を左右横端まで通して見せ、下段には町内と題目、さらに登場する役柄などの解説を加えている。前者は非氏子である高砂町、住吉町、難波町、元大坂町の御雇祭の行列部分だけを描くもので、さらに本絵巻には後の四で紹介される「文政八年酉年神田明神御用祭 踊子芸人名前書留」が附属し、内容の照合により絵巻も同年とされる。この史料の該当する掲載頁も載せている。続く「山王祭之図」は文政九年に北新堀町が出した附祭を描くもので、これは巻頭見返しに「文政九丙戌歳六月十五日 山王祭礼年番ニ付当町 引物手踊警固之図」とあり、先の神田明神の絵巻に近時する附祭を描く資料としてだけでなく、同系統の絵師が描いたと推測できることからも、両絵巻は以前から注意されてきた。

 特に前者の六巻目は前五巻とは描写が異なっており、すでに川越市立博物館展示図録『川越氷川祭礼の展開』(平成九年)の図版解説で、同展の企画を担当し後にも登場する田中敦子氏は「国立歴史民俗博物館蔵『江戸山王祭礼絵巻』の一部「弐拾番之内住吉町外弐町」の内「年中行事学び練物」等の部分と画面がほぼ一致し、疑問が残る。」と指摘した。本書の論考1で八反氏は「第六巻のみは下絵もしくは絵師が手元に蓄えておくための粉本であったと考えるのが自然であろう。あるいは補巻、もしくは別作品であったものが後世に混ざった可能性も捨てきれないが、結論を急ぐ必要はないだろう。まずはここに問題の提起をし、今後の研究の深化に俟ちたい。」、さらに論考2の福原氏は「山王祭礼で演じられた、住吉町など氏子三町によるG「年中行事学ひ練物」がその後、神田祭礼の御雇祭として演じられた可能性もあるが、国会本神田祭絵巻第六巻はフィクション(構想の下絵)である可能性も捨てきれない。本稿ではこの両方の可能性を併記するのみである。」とする。両者ともに多くの謎が残るだけでなく、その研究を続けることを優先し結論は先送りすることで考察の主旨は共通するのである。

 さらに論考3で田中氏は、先の二種の巻物と同時代の資料が残る川越(「文政九年川越氷川祭礼絵巻」)と前橋(「文政十一年前橋祇園祭礼之図」)を取り上げ、江戸の祭礼との比較を行なっている。その結果、川越は「文政期の天下祭の影響をかなり強く受けているといえるだろう」とし、前橋は「前橋祇園祭礼の伝統様式を育んでいるような印象を受ける」と、それぞれの特色を言い当てる。そして最後に文政年間における神田明神祭礼と、これまで見てきた川越氷川祭礼、前橋祇園祭礼に共通するものは「江戸の芸人たちの活躍」と「祭囃子の登場」であることを挙げるのである。

 「三、祭礼番附」では「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」が描く文政八年の祭礼番附二種、すなわち「御免神田明神御祭礼番附」と「神田明神御祭礼御免番附」を影印で収録した後に文字を別に翻刻する。ともに板元は江戸馬喰二丁目の森屋治兵衛である。前者は上端に各町の出し印を並べ、二段で附祭の出し物を描き空間に説明を加えている。後者は行列図と詳しい概要は別々に掲載され、特に浄瑠璃や長唄など附祭で唄われた歌謡の歌詞も載せている。これらの解説で亀川氏は「事前に出板されるものである以上、祭礼番附が実際の祭礼と相違する可能性は大いにあるので注意が必要である。」と資料批判の重要性を語る。

 「四、文政八年神田御雇祭の文献資料」では「神田明神御祭礼御用御雇祭絵巻」に付属する「神田明神御用祭 踊子芸人名前書留」と「秋山文書」を紹介する。

 まず前者の翻刻と語句の解説は脚注で丁寧になされており、絵巻と同様に史料の理解を助けるため便宜が図られている。その解説で滝口氏は「本史料が絵巻に付属していることにより、これらが文政八年という御雇祭の最も充実した時代の様相を如実に示していることがわかり、化政期の江戸社会における天下祭の意義や役割を考える上で重要な情報を提示しているのである。」と史料の性格を位置付ける。

 その史料に関係する論考4で入江氏は江戸後期の浄瑠璃史を概観した後、「長唄二、常磐津二、富本一、合計五組の囃子連中の名前が載っているが、当然参加してよいはずの清元の名前がない。上記のように清元節の創始者初世延寿太夫が殺された直後の時期にあたっており、この祭礼の時期は突然の出来事に流派内の混乱があったのではないかと想像する。」、そして史料に載る芸能の整理の後、詞章と登場する芸人達を分析する。さらに「プロの長唄と鳴物演奏家たちが町の子供たちの舞踊伴奏をしている形は、現在も静岡県の島田帯祭と藤枝大祭で見られる。」と述べ、史料に見られる江戸の伝統が現在でも生きていることを紹介するのである。最後に祭囃子について「祭礼全体の中での注目度も低いので「踊子芸人名前書留」「絵巻」「番附」いずれにも祭囃子に関する記述はない。わずかに「番附」の素描から、江戸では現在と同じような五人囃子の構成が定着しつつあったことが推測される。」と、江戸囃子は後に花開いたものだとした。

 さらに後者の史料は鈴木・亀川両氏の解説によれば、行田町(現埼玉県行田市)で足袋製造を営んでいた秋山金右衛門家に伝わった資料群の一部で、本書で問題にしている文政八年当時に江戸の高砂町にも屋敷地を有しており、地主として御雇祭の費用を分担することに関係する物である。「何よりこれまでほとんど言及されることのなかった御雇祭の下命から、準備、そして費用徴収、決算までの在り方が垣間見られる貴重な資料であることは疑う余地はない。絵巻で描かれた祭礼がどのように準備されたのか、その背景を色々と教えてくれる資料であるといえよう。」と、この資料の出現を評価し性格を的確に説明する。天下祭を解明するには東京だけでなく広い視野で情報を収集することが必用であることを改めて思い知らされる。

 この論考5で亀川氏は「町の内部でどのように、御雇祭なり附祭が組織されていくのかについては、現在具体的なことはほとんど分かっていないのだが、高砂町の不在地主であった秋山家に残された「秋山家文書」の内容の紹介を通じて自ずと明らかになる点も少なくない。」と述べ、さらに不在地主であった秋山家に代りことにあたった家守の利兵衛の目から見たものであることを「利兵衛にとって伝えるべきことは、現実に地主金右衛門が負担する金額についてであり、地主がどのような理由と基準で費用を負担するかを中心とした内容となっている。」と論考の中で強調するのである。そして興味深いのは「山王祭と違って、余計にお金がかかると言っている点である。」と分析する。それは「だが少なくとも、評判を取ることが、実際に出金した地主へ報いるもの、あるいはその意味付け・価値付けの源泉となっていたことは確かなようだ。」と最後に結んでいる。

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 これまで紹介してきたように本書は、文政八年における天下祭の御雇祭を明らかにすべく絵巻物と番附、そして文書資料を紹介し、さらに諸分野の研究者による論考も加えた内容であった。あまり馴染みのない特殊な祭礼形態の分析であるため、この分野は初めてという読者には難解な部分も多いことを予想されたからであろうか、その不安を解消するため編集には多大な苦労があったことと推測される。さらに神田祭全般の理解を深めるためには木下直之・福原敏男編『鬼がゆく 江戸の華 神田祭』(二〇〇九年・平凡社)を参考にすることをお勧めしたい。

 題名の副題にある「うたい おどり ばける」こそ附祭の特色を言い当てる表現である。その実態は本書の絵巻カラー頁を見れば一目瞭然で、江戸の人々の生き生きした力強さが伝わってくる。平成九年に黒田日出男氏は「都市祭礼文化研究の現在」(『川越氷川祭礼の展開』図録)の中で、都市祭礼文化研究は多くの資料を駆使する学際的な方法論が必要だと提唱された。近年では江戸時代の都市祭礼研究は城下町や宿場町、そして東照宮の祭礼を中心として、全国的に資料が蓄積しつつある。その最大のセンターともいうべき江戸の天下祭では、都市と祭礼研究会(附研)により確実に成果が挙がっていることは二冊の神田明神選書が物語る。その舞台となった神田神社が庶民の祭礼文化に理解あることも研究者にとって有難いことである。次の刊行を心待ちにしているのは評者だけであるまい。


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