安藤孝一編『経塚考古学論攷』

評者:松原典明
「考古学ジャーナル」619(2011.10)

仏教考古学の敷衍

 仏教考古学の泰斗である三宅敏之先生は,石田茂作先生の衣鉢を継ぎ仏教考古学を敷衍させた。特に経塚研究では畢生の著として『経塚論攷』を1983年(還暦の御歳)に綴られ,今なお学会に裨益するところが大きい。本年七回忌を迎え,本来ならば8月18日が米寿であった。このような機縁の年を目指して本書『経塚考古学論攷』が追悼論文集として上梓された事は,編者・安藤孝一をはじめ,実務でご苦労された望月幹夫や,講筵に列した論文集の著者等の大望であったと推察する。そしてこの論文集に示された古代から近世・海外も含めた仏教考古学の時代とテーマ性は,師資相承の証といえるのではなかろうか。

師資相承の証『経塚考古学論攷』

 本書は,第T部:経塚の諸相,第U部:地域の経塚,第V部:古代寺院の考古学と三部から構成されている。

 第T部:経塚の諸相,
 井口喜晴「藤原道長の埋経と蔵王権現信仰」は道長経筒の天地逆埋納が蔵王権現,地神に対する畏敬心理の顕れと意味づけたことは『経塚論攷』の「藤原道長の埋経−あとがき」に答えての披歴といえよう。
 中村五郎「資料としての経塚」は堀一郎の宗教社会学的方法論を展開させ,足立順司「廻国聖の道」は奉納・埋納経筒と関連する石碑検討の有効性を示され16世紀代経塚の一端を民間信仰と絡めて明らかにした。
 野沢均「経塚造営と聖地」は経塚造営目的を周辺宗教施設の性格から「聖地化」というキーワードで概観している。
 山川公見子「経塚と如法経の関係」は,遺物に記された「如法」「如法経」に施主の意識を読み取り,意識の変遷や地域的な偏在が指摘可能とし,13世紀以降増える石造物銘文への着目では如法経意識が「埋納」から「奉納」へ,清浄写経作善から造塔作善へと変化すると結論付けた。

 第U部:地域の経塚では,
 安藤孝一「古墳の墳丘上に営まれた経塚」は経塚造営には宗教的造営の他,政治・経済の要地と関連した造営があり古墳墳丘上存在の経塚に注視を促した。
 橋本正春「富山県の経塚」の経塚一覧は,黒川上山古墓群や大日寺などの宗教遺跡研究の今後研究に有効。
 村木二郎「四天王寺の経塚」は九州大宰府周辺で確認される複数経塚造営における多数作善の埋経や同型式経筒の存在に対しての捉え方において同一願主による埋納を想定し,経筒が写経供養場周辺で調達される在り方を四天王寺経塚の遺物から説明した。
 森内秀造「兵庫県但馬地方を中心とした経塚の概観」埋納遺構と経筒の実態が纏められた。
 時枝務「熊野本宮備崎経塚考」は,既調査資料を再検討し埋納遺構と遺物の出土状況から造営には在俗者も含め広範な範囲に亘る様々な造営の存在を指摘し信仰の多面性を示唆した。

 第V部の古代寺院の考古学は,
 奥村秀雄「国宝東大寺金堂鎮壇具」では自らの大仏銅蓮座後鋳造説を再度提示し仏躰鋳了時期から国家珍宝類が天皇七七忌の献上品と結論付け,昨年発見の「除物−陽・陰寶剣二振」が筆者の見識を補強した事は注目すべき。
 網伸也「道成寺伽藍と古代観音信仰」は瓦当文様式と伽藍変遷の考察から奈良時代の道成寺が中央と結びついた護国密教観音信仰の寺と結論した。
 水沢幸一「古式錫杖考」,大竹憲治「慶州報徳寺梵鐘の天人意匠考」は信仰の具現化を意味付ける論考で意義深い。

 なお,佛教考古學研究会代表であった三宅先生は『石田茂作先生略歴并著作目録』を編んで『佛教考古學基礎資料叢刊1』(1995)を刊行されたが,先生の没後に『三宅敏之先生略歴并著作目録』(同叢刊2)が刊行され,三宅先生の足跡を振り返る資料として重要である。

まつばら のりあき(石造文化財調査研究所)


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