渡邊大門著『戦国期赤松氏の研究』

評者:長谷川博史
「日本歴史」762(2011.11)

 著者の渡邊大門氏は、これまでに「赤松氏研究会」をはじめとする研究会活動を精力的に展開され、それによって赤松氏研究や旧赤松氏分国の地域史研究が急速に活性化してきたことは、特筆すべきことであると思われる。また近年は、『宇喜多直家・秀家』(ミネルヴァ書房、二〇一一年)をはじめ、多数の著書を公刊されていることも周知のことである。本書は、そうした研究活動の前提や出発点となった諸論文を軸にまとめられたものである。

 「序章 赤松氏研究の現状と課題」に記された本書の課題は、「戦国期における赤松氏権力の構造、および赤松氏を支えた守護代・国人の動向等を分析すること」である。そのうちの後者が「第一部」、前者が「第二部」に、それぞれ主として対応する。

 「第一部 赤松氏と守護代・国人層」は、五章と付論二編からなる。
 「第一章 西播守護代赤松政秀の権力形成過程」では、龍野赤松政秀が西播守護代宇野氏の系譜に連なる可能性を指摘した上で、赤松氏奉行人制の存在にもかかわらず「政秀の在地に対する浸透度は極めて高かった」が、「常に守護権力の枠内でしか活動ができず」、また在地土豪をも郡代に登用したと述べる。しかし、「政秀の没後、龍野赤松氏は西播磨において、地域権力化を遂げてゆく」とする。
 「第二章 東播守護代別所則治の権力形成過程」では、別所氏について、文明十五年の山名氏侵攻時に赤松政則により新興勢力として登用され、東播方面の軍事司令官的な役割を果たすことによって台頭し、郡代に一族を任命した別所氏の方が龍野赤松氏よりも在地への勢力浸透が強力であったと述べる。天文末年頃には、東播磨における地域権力として成長を遂げたとする。
 「第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏」では、享禄二年頃を境に、守護赤松氏が一宮保護から撤退し、惣社保護に転換したのに対し、伊和神社は庇護者として宍粟郡宇野氏を頼んだとする。このことから、赤松氏が、「実質的に一国守護としての公権を放棄し、自らが播磨国内の一地域権力に成り下がることを意味した」と述べる。
 「第四章 赤松春日部家の基礎的研究」では、有力庶子家である赤松春日部家の系譜・所領・動向から、幕府と直結して存続した同家の特質を指摘するとともに、応仁の乱における分裂は所領相論が要因であるとし、また「幕府の解体とともに御供衆もいつしか衰退し、元範・元祐の子孫もその余波を受け没落した」と述べる。
 「第五章 美作地域における奉公衆の研究」では、奉公衆の安東氏・広戸氏・三浦氏、御供衆の赤松上野家について、それらの性格を「一元的に集約することは困難」とする。また、「室町幕府の衰退とともに、奉公衆は解体する」(ただし、序章の要約では「室町幕府の解体に伴って、その勢力が衰え、十六世紀初頭には史料上から姿を消す」)と述べる。その後、「天文初年くらいから、守護権力は著しく衰退し」、「浦上氏・宇喜多氏が美作における領主権確立を目指し、戦いを繰り広げる」と見通している。
 「付論1 戦国初期の宇喜多氏について」「付論2 中近世移行期における宇喜多氏の権力構造」では、文明〜明応期の宇喜多氏について、守護代・郡代など守護の支配機構の系列に属さず、浦上氏の家臣でもなく、浦上氏も一目置かざるを得ない在地の富裕な有力者であったとする。永正末期、赤松氏と浦上氏との対決を機に台頭し、浦上氏との関係はますます強くなっていくが、その関係は、近年の研究が示すように、「家中」型「家臣」ではなく、「国衆」型「家臣」であったと述べる。さらに、在地・寺社との関係、分領の形成、領主間紛争の調停、家臣団の構造という複数の視点から、永禄〜天正年間における権力構造を分析し、「自立した領主」「一個の確立された領主権力」と位置づける。

 「第二部 戦国期赤松氏の領国支配構造と展開」は、二章からなる。
 「第一章 戦国期赤松氏の領国支配の構造」では、長禄の変後、文明十五年山名氏侵攻後、政則没後、義村謀殺後の、それぞれの守護就任過程において、守護代・国人の支持が不可欠であったこと、有馬氏・在田氏・赤松播磨守・赤松春日部家など、守護赤松氏を脅かす存在が多数存在したこと、守護赤松氏は、幕府の権威(和与や仲裁)を利用しようとし、また将軍の偏諱と代々の官途を受け継ぐことにより領国の秩序を保とうとしたが、享禄四年の浦上村宗敗死後は、領国支配の実態との間に大きなズレが生じたこと、等を指摘する。
 「第二章 戦国期赤松氏の領国支配の展開」では、赤松氏による家法の制定や守護法廷を過大評価できないこと、赤松氏奉行人制が文明十五年以降は浦上則宗によって?奪され文書発給権が掌握されたこと、寺社の祭祀権が守護赤松氏から守護代・郡代層へ移っていったこと、等を指摘する。

 以上をふまえて「終章」では、赤松氏の領国支配の本質について、「守護を頂点としながら、赤松氏一族・庶子、守護代、国人、被宮人らの連携による共同支配」であったが、おおむね享禄四年頃以後、守護公権は守護代・国人らに下降分有されると結論づける。守護公権(著者はこれを守護としての形式的な「公儀」とする)と、実態としての守護代・国人らによる公権力行使は、別に考えるべきであるとする。また、守護代・被官人層は、紛争の調停者または祭祀権を通して、徐々に在地に勢力を伸張し、独自に家中を形成し、やがて一郡から数郡単位の領主へと成長すると結論づける。この時期の赤松氏は、実態としては強固な一国の領域支配を伴わない権力であり、地域権力の上に辛うじて君臨するだけの存在と位置づける。

 南北朝・室町期の赤松氏分国が、戦国期においてどのような構造的転換を遂げていくのか。その全体像を権力構造論としてとらえることは、実際のところ大変難しい。引用された史料に即して考える時、評者にとって本書の難度は高く、現時点では著者の意を十分汲みえているとは考えていないが、そのような困難な課題に取り組まれた一書が公刊された意義を積極的に受け止めたいと思う。ここでは、論旨の根幹に関わる課題として、守護赤松氏における守護代以下の役割を重視する本書の主旨と、「国の時宜」を重視した幕府政治との関連性を明らかにする必要があること、本書全体にわたって論の帰結点となっている「地域権力化」の中身を明らかにする必要があること、の二点を指摘しておきたい。本書を契機に、戦国期赤松氏研究のさらなる深化が期待されるところである。

(はせがわ・ひろし 島根大学教育学部教授)


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