高牧 實著『文人・勤番藩士の生活と心情』

評者:長谷川 雅也
「関東近世史研究」70(2011.10)

 本書は、聖心女子大学名誉教授の高牧實氏(以下、著者)が、二〇〇五年から二〇〇九年にかけて『聖心女子大学論叢』において発表した四篇を補訂し、新たに一項を加え二〇〇九年に上梓された論文集である。本書は、小林一茶・滝沢馬琴の心情の変化、滝沢嫡家の分家である滝沢清右衛門の暮らしについて、馬琴の関わりのなかで検討されている。また、従来の研究では詳細にはされていない江戸勤番藩士の生活について詳細に検討されている。
 本書の構成は次の通りである。

 まえがき
一茶の易占と観音詣・念仏
  はじめに
 一 『易経』の句訳と易占
 二 寺社参詣と観音信仰
 三 念仏と晩年の心境
  おわりに
滝沢馬琴の暮らしの心情と信心
  はじめに
 一 嫡子再興・祖先まつりと孝
 二 呪・籤・方位
 三 仁と天明
 四 神霊と信心
  おわりに
馬琴と分家滝沢清右衛門
  はじめに
 一 当日祝儀挨拶と歳時
 二 慶事と仏事
 三 生業と公用
 四 諸事手伝い
  1 著作生活にかかわる用事の手伝い
  2 元飯田町旧宅表店にかかわる手伝い
  3 食品購入、その他の手伝い
  4 下女奉公人にかかわる手伝い
  おわりに
土佐藩士 森正名の江戸勤務と生活
  はじめに
 一 御雇の御馬廻御番手
 二 秋月藩黒田勘解由の御側
 三 御馬廻御番手と病気欠勤
 四 品川の浜川新規御台場築立御用
 五 山内容堂の御小姓
 六 上書と攘夷
 七 武芸入門と馬術稽古
 八 学問の研修
 九 江戸見物、参詣、墓碑銘調べ
 十 書画・鐔の蒐集
 十一 暮らしと養生
 十二 酒と酔犯
  おわりに
  あとがき

 以下、各章にそって内容を確認したい。

 「一茶の易占と観音詣・念仏」では、小林一茶に関わる著書・研究の多くは文学の視点からアプローチしている。著者は青木美智男氏の研究成果を受け、歴史の視点から小林一茶の暮らしの心情の変化を明らかとしている。
 浄土真宗門徒であった一茶だが、四〇歳代前半まで易占を行ったり、陰陽師に占ってもらったり、観音信仰をいだき、浄土真宗の信仰を深く意識していなかった。しかし初老に入り、その心情に変化が見られるようになる。父の三回忌と母の三三回忌を向え、資産分与をめぐる弟との争いに決着がついたことから故郷を思い、そして死所を意識するようになり、浄土真宗の信仰を自覚し、「念仏・称名・『あなた任せ』」の句作をするようになる。
 一茶は、浄土真宗門徒であることを自覚する一方で、金比羅や如来といった神仏を拝んでいる。陰陽道・仏教・神道が混在する当時の暮しに溶け込み、「そうした俗信、呪法の俗信の信仰をもち、阿弥陀如来の称名をとなえて浄土への救いを願い、俳譜師としての生き方を続けて、晩年、花の咲く娑婆に寂光浄土をみたり、虚構の創作に地獄へおとされる恐れをいだいたり、難病からの救いを普門品にとなえ続けて観音に頼み、長生を願ったりして、生涯を終えた」と結論づけている。

 「滝沢馬琴の暮らしの心情と信心」では、滝沢馬琴の「生涯の暮しの時の経過のなかで、馬琴の考え方、心情とその行動が如何様であったのか」、その「主要な考え方、心情、その行動」について検討している。
 滝沢馬琴は武士身分の嫡兄の死去により母の遺訓を意識し、嫡兄の死去により断絶した滝沢家の再興・継続を思うようになる。長男・宗伯に嫡家を継がせて滝沢家を再興したが、天保六年に宗伯が病死し、滝沢家は再び断絶してしまう。馬琴は孫・太郎のため、蔵書を売り御持筒同心株を購入し、滝沢家の再興・継続をはかっている。
 滝沢家再興・継続をはかりながらも馬琴は、祖先まつりを丁寧に営み、家譜編纂を行い祖先に対する孝を尽くした。祖先に対する孝を意識するようになったのは、長兄の没後、母の遺訓を自身の課題として認識したためである。馬琴は、先祖への孝を尽くすことで、子孫は祖先の余福応報を授けられると考えていたためである。
 また、馬琴は五〇歳代末になり自らの病厄、特に子・宗伯の病厄を免れるため方位風水を学ぶようになった。しかし宗伯の病気の悪化と死去、そして馬琴自身の視力低下などの多難を天運とする心情を抱くようになる。天運との心情を抱き、天運を知るためには易が必要と理解した。そして、馬琴はこれまで熱心であった方位撰択などを行わなくなる。方位撰択は仁義をないがしろにするものとし、仁を重視するようになる。仁の重視は、著書の『八犬伝』にも見られる。そして、子孫に対しても仁を重視するよう書き遺すのである。
 馬琴が孫・太郎興邦に与えた遺訓は、「馬琴が長年にわたって実行してきたこと」であり、「武士身分の嫡家を再興し、その家風が続くこと」を願っていたのである。筆者は、馬琴の教訓・遺訓に加え、滝沢家代々の持仏が阿弥陀如来、神棚の掛仏が善光寺如来、菩提寺の深光寺が浄土宗の寺院であることも留意すべきだと指摘している。馬琴は、先祖伝来の持仏阿弥陀如来の木像を菩提寺・深光寺に寄進しているが、自身は念仏者流ではないと主張している。馬琴の日記・書簡から念仏・成仏などは確認されず、かわりに諸霊・先霊などが記されていることを指摘している。
 馬琴は、陰陽道で祀る北辰・北斗に対して信心をいだき、星祭を行っていた。五十歳代の馬琴は、子・宗伯の病気は自身が方位撰択を過ったためと後悔し、北辰・北斗を信じるようになる。筆者は『馬琴日記』から年により四回から七回、星祭を行っていることを指摘している。北辰・北斗を信じていた馬琴であったが、宗伯の死去により陰陽道を行わなくなる。
 子・宗伯の死は馬琴の心情変化に大きく影響し、陰陽道の信心を捨てさせた。そして馬琴は、「天を自然と理解し、仏神も天命をまぬがれることができないと考え、何事も天命との心情をいだき」「『仁』をないがしろにしないよう」書き残している。馬琴は「晩年まで、甲子大黒祭・庚申祭・稲荷祭・弁天祭を続け、水天宮を祀り、水天宮のお札を呑んだり、観音品、観音符の呪法に頼ったり、民間に広まる信心を抱いていた」と、著者は結論づけている。

 「馬琴と分家滝沢清右衛門」では、滝沢清右衛門の行動を『馬琴日記』・『吾仏乃記』から読み取り、「当日祝儀挨拶と歳時」・「慶事と仏事」・「生業と公用」・「諸事手伝い」から検討している。長男・宗伯に滝沢嫡家を再興させた馬琴は、文政七年に婿養子・勝茂に家督を譲っている。清右衛門は、馬琴に年始祝儀・五節句・月次の挨拶など行い、まるで「主人に対する従者」のようであった。
 子・宗伯が病身のため、老年の馬琴が家事などを一人で行わねばならならず、また著作・編集も行わなくてはならなかったため、外廻りの用事は清右衛門に任せていた。筆者は、清右衛門の外廻りの用事を、「著作生活にかかわる用事の手伝い」「元飯田町旧宅表店にかかわる手伝い」「下女奉公人にかかわる手伝い」から検討をしている。
 馬琴は、外廻りの諸用事を清右衛門に依存し、清右衛門も馬琴の手伝いを真摯に勤めていたが、馬琴は清右衛門の不埒・不実・不行届などを叱責することも多かった。しかし馬琴は、宗伯と清右衛門の死去により「老後の不幸、天命を恐れ、嗟嘆の外ない」心情を吐露している。

 「土佐藩士 森正名の江戸勤務と生活」は、本書の大部分を占めるものである。従来の研究では、江戸勤番武士の勤務と暮らしについて詳細に検討されているものは少なく、筆者は土佐藩士森正名の『森正名江戸日記』を用い、江戸勤番武士の暮らしについて一二節にわたり検討をしている。本章で取り上げている森四郎正名は、森家の庶子であったが、嫡兄の死去により文化五年に家督を継いでいる。『森正名江戸日記』(以降『日記』と略す)は現在、高知県立民俗博物館に所蔵され、森正名が庶子のときに作成されたものである。森正名は、文政一一年に初めて在府し、文政一二年・天保五年・嘉永七年・安政三年に在府し、『日記』は巻一〜巻一〇まであるが、巻五が欠本となっている。
 文政一〇年、江戸出府願いを許可され、初めて在府した森正名は、御雇御馬廻御番手を命じられ、若殿の江戸城初登城・将軍御目見に動員されている。その後は、暮れ六ツ時から翌朝五ツ時までの宿番や、夜四ツ時から暁八ツ時までの御門締り廻番などを勤めている。正名は勤役をほぼ休みなく勤め、鍛冶橋上御屋敷・日比谷御屋敷を騎乗で、家来一人を従え廻番している。そして文政一二年、御雇御馬廻御番手を免ぜられ高知へ向け出立している。
 森正名は土佐に帰国した六ヶ月後、再び江戸に出府した。二度目の江戸在府は、秋月藩黒田家の養子となる黒田勘解由の御側を勤めている。正名は、勘解由に信用され勤務後「御詩作に御供して、暮れ時から御人払いの上で御用を勤め」ている。この在府では、体調不良で欠勤することが多く、文政一三年八月五日に藩より暇を命じられ、同二六日に江戸を出立した。山内家から黒田家へ養子に入った黒田勘解由の御側勤めは、秋月藩の管理下に置かれている。黒田勘解由の「御側」勤めが土佐藩側より派遣され、秋月藩の管理下に置かれている点は非常に興味深い。
 天保五年四月一六日、母・妻お柳・女子お半をつれ、家来二人を従え高知を出立し、五月二七日に日比谷御屋敷に到着した。日比谷御屋敷に入る前に品川の鮫頭御屋敷に寄り、高輪大木戸で一同着替えている。巻五が欠けているが、巻七・八・九に天保六・七年と推測される箇所が断片的に見られる。嘉永七年六月一〇日の記事に、四年間在府したと記載されている。天保八年まで在府し、森沖右衛門の家来を借り、若党・小者を従えて新堀御屋敷の黒田勘解由様方へ挨拶に伺っている。ここでは従者の貸し借りが行われている。体調を崩すことがあったが、病臥することなく勤務した。
 嘉永七年三月一七日、品川屋敷への転居を命じられた。家来に鑓を持たせ、借りた小者に具足櫃などを持たせている。嘉永七年六月一四日、家老から目付を経て、馬廻組頭より御判物守方御番の人数削減が言い渡されている。従来一二名であったところを、森正名を含む四名に削減している。森は御判物守方御番を、重要な役目ではあるが、暇で退屈な勤務と記している。同年六月二七日、鍛冶橋上屋敷において御台場新規築立御用(普請奉行)に任じられた。台場完成後、森正名は元の御判物守方御番へ戻った。著者は閑職であったが森正名は精勤していると評価している。
 安政三年八月一五日、土佐藩主山内容堂が高知を出立した。森正名は次男乙吉と小者を連れ出府した。江戸へ向う途中、御膳番を命じられた。着府後は宿番を勤めている。繁多のためか九月一八日から一〇月一〇日までの動向は、詳細に記載されてはいない。『日記』には、次男乙吉が小姓と騒ぎ火尻窓を破損したため、小姓頭より慎みの処分を受けたこと。安永四年四月八日、勤務後に増上寺へ参詣し、住持のすすめで酒を飲み大酩酊し門限を破っている。森正名が門限切れを犯したのは二度であり、御目通りを差し控えられ、四月一〇日より自ら慎みをしている。五月二〇日から閏五月四日までの日記がないものの、閏五月六日に宿番を勤めていることから、閏五月六日以前に許されたと考えられる。御目通差抑を許させたのち、暇を願い閏五月一六日、江戸を出立した。途中、板橋で家来を返し、中山道を経て帰国した。
 森正名は在府中、武術稽古や学問を熱心に行っている。武術に関しては、尾張藩御弓役の杉立信書から弓術を習いたいと願い許可されている。しかし、杉立信吉に師事した様子はみられないようである。また、土佐藩屋敷詰の山本馬之助からは馬術を習い、年末には歳暮を贈っている。馬術稽古に励み、文政一二年の馬術御上覧の場に出ている。他に軍学を学んだり、槍術を学んだりしているようである。また学問に関しては、在府中、幕府の儒者古賀小太郎からは漢学を習いたいと願っているが、その様子はみられない。斉藤一斎に師事し、『書経』の臨講などに出席したり、一斎に同道して小浜藩下屋敷など、他藩の屋敷に赴いたりもしているようである。また在府中、本の購入・筆写・貸与なども積極的に行っていたようである。酔犯による慎みの間も読書をしていたが、御日通指扣が許され、帰国するまでは読書ができなかったようである。これらから在府中における、他藩士との交流や、贈答関係について知ることができる。
 『日記』からは、在府中、久留米藩上屋敷内の水天宮を参詣したり、深川八幡宮三十三間堂や高輪泉岳寺の四十七士の墓を見学したり、浅草東本願寺脇寺真福寺の新井白石の墓碑銘を摺り取りに行ったりしている。他に台徳院御霊屋を拝礼するなどしている。森正名は在府中、様々なところへ参詣し、様々なものを見学している。森正名は、鐔や書画の収集に熱心であり、在府中に道具屋・書画屋巡りをしている。前田利常自筆書状の巻物・寛永の江戸図を購入や様々な鐔を購入など行っている。また、中国・朝鮮・日本の古銭の収集をしているが、四度目・五度目の在府以降は行っていないようである。
 森正名は五度の在府中、土佐藩の鍛冶橋上屋敷・日比谷屋敷・築地屋敷・芝屋敷・品川屋敷の己屋、秋月藩新堀屋敷の己屋を住居としている。ただし、初めの在府は兄の己屋であった。『日記』には国許との交信の様子や、ともに出府した次男乙吉についても記載されている。森正名は酒が好きであったようであり、『日記』からも飲酒に関る記事が多く見られ、森正名の交友関係を窺うこともできるだろう。酒に関わる事件などもあったようである。前述のように、安政四年には大酔のため屋敷の門限を破り、御日通指扣の処分を命じられ、自身も十日間以上の慎みを行っている。

 本書の特徴は、やはり心情や暮らしに注目した点であろう。著者が「一茶・馬琴についての諸研究でとりあげられなかった問題が明らかになってくる」と述べているように、今後の小林一茶・滝沢馬琴研究にとって非常に大きな成果であると考える。最後に、藩政史を専攻している評者の関心から、若干の指摘を行いたい。「土佐藩士 森正名の江戸勤務と生活」は、著者が「まえがき」で述べているように「事例として詳細に提示」され、大変興味探かった。秋月藩黒田家へ養子に入った黒田勘解由の側役を勤めていた点、学問の研修における他藩士との交流など、今後の藩政史研究において重要な課題を提示しているのではないだろうか、是非一読して頂きたい。


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