宮本袈裟雄著『里修験の研究 続』

評者:真野 俊和
「山岳修験」47(2011.3)

 この本は日本山岳修験学会副会長でもあった宮本袈裟雄氏の遺稿集である。タイトルからもわかるように、氏の出世作であり代表作というにふさわしい『里修験の研究』の続編である。旧著が別の出版社からそのままの形で復刻されることになり、同時に遺稿集としてこの本が教え子のかたがたの手によって編まれた。

 宮本袈裟雄氏は二〇〇八年一二月一八日に急逝された。その一年余り前、重い病が体内に巣くっていることが判明したとはいうものの、治療のよろしきを得てなんとか病気と折れ合いながら再起を目ざしておられたという。しかし最期はまさに急逝というしかないほど不意に襲ってきた。残酷なものである。そのいきさつは宮本由紀子夫人が執筆された、本書「あとがき」を読んでいただきたい。そして二〇一〇年秋、加賀白山の麓で開催された日本山岳修験学会第三一回学術大会のおりの『山岳修験』編集委員会で、本書を書評でとりあげることがきまり、その役目が評者に割り当てられたのである。少しだけ私事におよぶことを許していただけるなら、宮本氏と評者は東京教育大学史学方法論教室でともに民俗学を学んでいたころからの、一歳違いの友人であった。このことが、適任とみなされたことの大きな理由であろう。もっともうかつにそのときは失念していたのだが、その後、評者はかつて『里修験の研究』への批評――書評とはいえないほど短いものではあったのだが――の筆をとったことも思い出した次第である。

 そのような公私にわたるいきさつもあるので、本書評は続編である本書だけでなく、旧著のほうへもある程度の目配りをしながら書いていくことにしたい。

 なお解題によれば宮本氏は、旧著の続編としてではなく、増補版の出版を考えておられたようである。しかしそのもくろみは先述の事情により果たされることがかなわず、旧著以降もしくは未収載の論文のみで構成される本書が、西村敏也、乾賢太郎両氏を中心に編まれることになったのである。

 さて本書の構成を紹介するところから本書評をはじめることとしたい。本書は大きく二部構成になっており、前半第一部は「T 里修験の地域的展開」、後半第二部は「U 修験道の諸相」と題されている。ひとまず収録論文のタイトルをあげておきたい。なお論文番号は仮に評者が付したものである。

 T 里修験の地域的展開
@「民俗宗教の東西―その予備的考察―」、
A「他信仰―修験の定着と活躍―」、
B「恐山民俗祭祀の構造」、
C「村の修験者」、
D「日光山と関東の修験道」、
E「男体山信仰」、
F「古峰ヶ原信仰」、
G「関東地方の山岳信仰と高尾山」、
H「茨城県勝田市の講集団」、
I「埼玉県大井町の講集団」、
J「長野県の山岳信仰」、
K「信濃国における修験道の組織化」、
L「山岳信仰と愛宕山信仰」、
M「修験道儀礼と地域」
 U 修験道の諸相
N「修験道と呪(まじな)い」、
O「不動信仰」、
P「修験道と道教」、
Q「修験道における五来重先生の足跡」、
R「修験道の修行・食物」、
S「修験者のいきがい」

 以上、単純に分量配分についてみれば、収録論文の本数とともに、第一部が二三二ページ、第二部が五七ページと、圧倒的に前者にかたよっている。つまり宮本の関心の方向は一貫して地域における修験者の活動にむけられ、論文もそれぞれの地域を舞台としたケーススタディという形をとることのほうが多いということがわかる。

 もちろんそうした個別事例の報告・分析にとどまらず、一般的に修験、とりわけ里修験とは何か、という普遍的な問題に切り込んでいく論考も含まれている。とりわけ論文Aはその意味で重要であろう。素材としては下北半島で活動していた修験道の動向をとりあげているのだが、いっぽうで、近世的修験者すなわち里修験としての特質についても踏み込んだ記述を行っている。宮本はそれを
(1)信仰の伝播者としての役割
(2)呪術師・祈祷師としての側面
(3)師檀関係にもとづく宗教活動
の三点に集約した。

 このうち(1)に関しては、具体的にどのような活動をさしているのかといえば、たとえば正月の権現廻り、神楽・能舞などを想定しているようである。これは新たな信仰圏の開拓といったものとは少し異なるようにも思えるが、他の二つの活動とも一線を画し、かつ修験の活動としては重要な意味をもっていることを考えれば、この側面に言及しておくことは不可欠であろう。つぎの(2)についてはいうまでもない。修験道発祥以来の、中核に位置する活動といわなければなるまい。それにくらべれば(3)には里修験としての固有の性格を色濃く見てとることができるだろう。もちろん近世以前の修験にも師檀関係は存在した。ただそれは寺社参詣あるいは参詣講の引導者としての役割に限られていたといえる、いっぽう近世期にはそれだけでなく、在地に定住した修験者たちが、村落堂社の司祭者としての性格をも持つに至るのである。

 さきに評者は近世的修験者と里修験とを、ほぼ同等の概念とみなすかのように書いたが、それはまさしく旧著における宮本の問題意識であった。ここで上述したむかしの『里修験の研究』に対する書評の一文を引用しておこう。

ここでいう「里」とは「山」に対置される概念で、山が修験者にとって修行の場であるばかりでなく、宗教者としての力そのものの源であるとも考えられてきたのに対し、里は山で獲得された超自然的能力がもっぱら発揮される場にほかならなかった。本書(注―旧著をさす)の最大の特色は、そのような意味をもつ「里」を主たる活動の場とした修験者たちを描いたところにある。だからここには、鈴懸の衣を身につけ、手にはいらたかの数珠をもち、天狗か猿のごとくに山中を駆けめぐる、いうなればなじみの修験者たちは登場しない。里修験とはマチやムラに住んで山に登ることはほとんどなく、求めに応じて加持祈祷をおこない、時にはムラの鎮守の別当職にたずさわり、日常的には百姓仕事にも精を出す、山伏ならぬ山伏たちのことである。里修験・里山伏を百姓山伏とよぶゆえんでもある。(『週刊読書人』一九八四年一二月一〇日号)

 この視点にたって里修験という存在とその宗教史的意義を正面から論じたところに、宮本の功績があったことはいうまでもない。そして新著にもこの視点は一貫して流れている。そればかりでなく、確実にその視野は広がりをみせてくれた。修験者たちはたんに村落に定住し、堂社を管理し、百姓仕事にはげんだだけでなく、ある程度の土地を集積して経済的社会的な上昇をはたすものさえ現れたという。論文Cではそのような事例にいくつか触れている。彼らはかならずしも村落の上層にまで到達したわけではなかったが、在地における修験者への宗教的ニーズがそれを可能にする規模で存在したことをあらわしているといえる。

 もう一つの視野の広がりは、村落における講集団への注目(主として論文HおよびI)である。在地における講集団の一つの類型である参詣講を引導するのは、しばしば修験者の職掌となっていた。これは後述する御師型修験といえるのだが、さきの機能分類にたちもどるならば、ケースによって(1)あるいは(3)の活動に相当することになるだろう。いずれにしても講集団とは近世期に民間での発展期をむかえた信仰形態であることから、これも里修験の主要な活動領域であったことになる。

 旧著において宮本は修験を、T型「山籠・山岳抖■(手偏+数)型修験」、U型「廻国・聖型修験」、V型「御師型修験」、W型「里型修験」と四分類した。宮本の里修験研究以前にも、もちろん里修験という存在が知られてはいたが、それはけっして修験本来の、あるいはあるべき性格とは見なされていなかった。だからたとえば本山派・当山派の成立過程といった教団史的関心だとか、熊野・羽黒、英彦山など霊山を拠点とする寺院史のなかで論じられるのが、オーソドックスな修験道研究の方向だったといってよい。それはそれで重要な研究であり、本書でも在地における教団の消長に各所で目が配られている。しかしそうした前提のうえで、宗教とはすべからく信者あってこそだという基本的な事実を想起するならば、宮本の開拓した里修験研究は、今後もその重要性を失うことは決してないのである。

 以上、本書評は内容紹介よりも里修験研究の意義の再確認といった側面にかたよってしまった面は否めない。そしてその開拓者たる宮本氏の新しい研究に学ぶことはもう不可能になってしまった。宮本袈裟雄氏の冥福を心から祈りたい。


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