永井隆之・片岡耕平・渡邉 俊編『検証 網野善彦の歴史学』

評者:川戸貴史
「歴史学研究」870(2010.9)

 本書は2008年8月に開催されたシンポジウム「〈歴史家網野善彦〉をめぐる知の冒険−無縁・日本・天皇−」を基に編まれた論集である。主な内容は,赤坂憲雄「無主・無縁のフォークロアは可能か」,先崎彰容「1968年革命と網野史観」,村上麻佑子「網野貨幣論の到達と限界」,片岡耕平「聖なるものの転換をめぐって」,渡邉俊「法の観点からみた網野史学」,永井隆之「新無縁論」の各論考を中心とし,佐藤弘夫「〈聖なるもの〉をどう捉えるか」,小路田泰直「『無主・無縁』と『有主・有縁』の弁証法」,入間田宣夫「網野史学の何をどのように受け止めるべきか」のコメントを得ている(それぞれ副題は省略)。日本中世史以外も含め多彩な分野から論者を得ており,かつ1990年代以降に歴史学を志した若手を中心とする陣容となっていて,若手世代が網野史学をどう捉えるかが興味を誘う。また入間田による各論考へのコメントは,全体の議論を引き締める効果的なスパイスとなっている。

 各論考の分析は極めて丁寧である。網野のテクストを確実に読み込み,その思想的背景を丹念に抽出している。先達の克服を目指すとなれば勢い飛躍が目立つ嫌いもあるが,本書においてその懸念は小さく,安心して読み進めることができる。これは.本書の前作に当たる永井・渡邉・片岡編『日本中世のNATION−統合の契機とその構造−』(岩田書院,2007年)の基となったシンポジウムが.聴衆に「受け入れられなかった」(2頁)経験が活きたのであろうか。赤坂・入間田など,網野と交流のあった諸氏が入り,またシンポジウムの討論も掲載されたことによって,網野史学の理解を巡ってなされた生の世代間対話も体感できる。その内容からは現在の歴史学を巡る諸課題も垣間見られ,刺戟的である。
 一方で網野の天皇観や「聖」性については,かつて安良城盛昭や永原慶二らが厳しい批判を加えたことは周知の通りであるが.これらの批判に関する言及はほとんどされていない。史学史から自由な「現在」という視座から網野を問うという趣旨からすれば無い物ねだりであろうが,これら網野史学の根本に対する「網野批判の歴史」を「現在」はどう捉えるかも聞いてみたかった。

 紹介者の関心から個別に一点紹介すると,村上は,網野は米・絹等の物品貨幣こそ貨幣の本質と見なしていたと喝破している。つまり網野の貨幣論は,根源的にマルクス貨幣論から脱却できなかったのである。1980年代にはすでにマルクス貨幣論の克服を目指す潮流があったことを踏まえれば,網野のマルクスへの“定住”というある種意外な一面,あるいは網野史学の本質の一端を認識させられる。村上は金銀が貨幣たらしめる要因に「装飾概念」をあげているが,まさしく金銀こそが神仏を荘厳する存在として結びつくことを勘案すれば,中世では貨幣であると言い切れないとはいえ,網野の貨幣論は金銀を中心に据えた方が筋が通っていたのかもしれない。
 先崎が言及するごとく,網野史学は「マルクス主義」という“定住”から当てのない“漂泊”へと論壇を導いたと理解されている。本書がその“漂泊”する我々にとっての「海図」となるかどうかは,直接味読して確かめられたい。


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