渡邊大門著『戦国期赤松氏の研究』

評者:小川 雄
「ぶい&ぶい」20(2011.5)日本史史料研究会

 本書は、渡邊大門氏が二〇一〇年四月に岩田書院「戦国史研究叢書」の一冊として刊行した論文集であり、一九九八年〜二〇〇九年に発表された論文に新稿を加えたものである。はじめに本書の構成を掲げ、さらに詳細の紹介をおこなうことにしたい。

序章 赤松氏研究の現状と課題
第一部 赤松氏と守護代・国人層
 第一章 西播守護代赤松政秀の権力形成過程
 第二章 東播守護代別所則治の権力形成過程
 第三章 戦国期における播磨国一宮伊和神社と宇野氏
 第四章 赤松春日部家の基礎的研究
 第五章 美作地域における奉公衆の研究
 付論1 戦国初期の宇喜多氏について
 付論2 中近世移行期における宇喜多氏の権力構造
第二部 戦国期赤松氏の領国支配構造と展開
 第一章 戦国期赤松氏の領国支配の構造
 第二章 戦国期赤松氏の領国支配の展開
終章

 本書の議論は、戦国期赤松氏の権力構造、そして赤松氏を支えた守護代・国人層の動向等を検証し、赤松氏領国における地域権力の形成を明らかにしようと試みたものである。従来、戦国大名の分析視角は、北条氏・武田氏・毛利氏などのように、領国支配の完成度が高い大名の研究に主眼が置かれてきたものの、渡邊氏は、小規模ながら領域支配を展開した地域権力の研究を進展させることで、戦国期領主権力の多様性・特殊性が明らかになると展望する。戦国期の赤松氏は、播磨・備前・美作三国の守護職を有しながら、強大な権力を持つには至らず、三国では複数の地域権力が族生し、赤松氏守護家も一つの地域権力を形成するという経緯を辿った。たしかに、北条氏などとは違った戦国大名概念を考察するうえで、好個の事例となるであろう。

 序章において、渡邊氏は従前の「赤松氏衰退論」から脱却した歴史像の構築を提言する。つまり、赤松氏の守護権力弱体化について、浦上氏などによる下克上として評価するのではなく、むしろ守護・守護代・国人層の地域権力化から捉えようとする問題意識である。渡邊氏の理解によると、戦国期の播磨・美作・備前では、守護・守護代・国人層がより強い公権力を求めて結集しつつも、守護が守護代・国人層を完全に掌握するのではなく、守護代・国人層とほぼ対等の立場で領国を支配したことになる。そして、第一部・第二部の諸論考は、こうした渡邊氏の理解に基づいた研究である。

 第一部は、赤松氏領国(播磨・美作・備前)における地域権力の形成を検証した論考によって構成される。
 第一章・第二章では、西播守護代の龍野赤松氏、および東播守護代の三木別所氏を研究対象とする。龍野赤松氏の登場は、応仁の乱という赤松氏再興期にあって、赤松政秀が播磨国回復の軍事指揮官となったことに始まり、政秀は播磨一国守護代として、赤松政則・浦上則宗が在京した間隙を突き、地域権力化を遂げたとする。しかし、龍野赤松氏の一国守護代は、文明年間の山名氏襲来を境として、西播守護代に勢力範囲を縮小されたという。山名氏の播磨侵攻に敗れた赤松政則は、有力被官の支持を喪失する危機的状況に陥るが、別所則治の忠勤によって復権し、その過程において、則治は軍事指揮官として東播守護代に相当する地位を築いたとする。渡邊氏の指摘では、龍野赤松氏・三木別所氏とも出自は不明であり、応仁・文明期に軍事指揮権という側面から台頭した新興勢力だったが、やがて在地に勢力基盤を築き、地域権力化を遂げたことになる。
 第三章は、播磨国宍栗郡における宇野氏の領域支配について、一宮伊和神社との関連から論じたものである。赤松氏は応仁の乱で播磨国守護に復帰すると、前代以来の一宮伊和神社の保護政策を継承したものの、勢力範囲の縮小とともに、天文年間には一宮保護政策を停止し、むしろ本拠の置塩城に近い、惣社の射楯兵主神社を崇敬・保護するようになったという。そして、一宮の保護政策は、宇野氏に委ねられ、宇野氏は一宮支配を梃子として、宍栗郡に地域権力を形成させた。つまり、宗教的な側面においても、赤松氏は播磨国守護としての公権を放棄し、地域権力として存続したことになる。
 第四章は、赤松氏庶流の赤松春日部家に関する系譜と動向を整理したものである。赤松春日部家は、守護家とは別個に御供衆として室町幕府に仕え、ときに守護家を脅かし、嘉吉の乱以後も所領・家名を維持しながら、在地支配は不十分であり、また貞祐・元祐父子と範行・元範父子の両系統に分裂・抗争し、幕府の衰退とともに没落しており、自立した地域権力の形成には至らなかったとする。
 第五章と付論1・2は、赤松氏の非本国にあたる美作国・備前国を研究対象として、中小の自立した領主権力が諸勢力と連携する両国の特性を指摘したものである。
 まず第五章では、美作国の奉公衆として、安東氏・広戸氏・三浦氏など、御供衆として赤松上野家が取上げられた。奉公衆の諸氏は荘園の代官職などをもとにして、その勢力基盤を拡大したが、室町幕府の衰退とともに、存在基盤が消滅して没落、あるいは赤松守護家・浦上氏への従属度を高めていったと評価した。但し、三浦氏のみは美作国西部で在地性を強め、尼子氏の侵攻に際し、美作地域の中小領主の盟主として活動したともする。また、赤松上野家については、守護家に対抗した春日部家と違い、守護家への従属度を高め、「御一家衆」という家格秩序のもと、領国支配の一方の核として重んじられたという理解を提示した。
 次いで付論1では、文明年間から大永年間に至る備前宇喜多氏の動向、とくに浦上氏との関係を論じ、宇喜多氏(能家期)は、金岡東荘を中心に領主権を確立しており、備前国における赤松氏の支配機構(守護代・郡代・奉行人など)の系列には入らず、浦上氏に軍事的に従属しつつも、強固な主従関係は認められないとする。また、守護・守護代と直接の被官関係を結ばず、守護からの制約を受けずに地域権力化した事例とも位置付けた。
 さらに付論2は、弘治年間から天正年間の宇喜多氏権力を分析したものである。ここでは、第一に、直家期の宇喜多氏が領域支配を進展・拡大させ、発給文書においても、赤松氏・浦上氏の事例を前提とせずに支配を確立したことを指摘し、第二に、家臣団の構造から官僚機構の整備や直属強制力の存在など、また内書・副状による文書発給システムから家臣団編成の充実などを見出し、能家死後の断絶期を除いて、宇喜多氏は戦国大名と同質の一個の確立された地域権力であったと評価した。

 第二部は、赤松氏権力の基本的性格を検証した二つ論考によって構成される。
 第一章は、赤松氏の領国構造について、守護家の「公儀」が守護代・国人層に依存しており、守護公権が守護代・国人層に下降分有され、各勢力の地域権力化が進行するという視点から論じられている。すなわち、第一に、守護職が幕府の任命や守護代・国人層の意向に左右されていたこと、第二に、赤松氏惣領家の守護職は安定しておらず、争乱に際してしばしば有力被官人が一族・庶子を擁立したこと、第三に赤松氏と室町幕府が権威付与・財政負担などで相互補完の関係にあったことを指摘する。赤松氏領国が室町幕府−守護体制の枠内にあったという理解でもある。そして、享禄四年(一五三一)に赤松晴政が浦上村宗を討滅すると、守護代・国人層が赤松氏一族を擁立して、守護家よりの奪権をはかる動向は無くなり、むろ各有力被官層の地域権力化が進行したとして、室町幕府−守護体制の形骸化を見出している。
 また、第二章は、戦国大名権力を公権力または国家権力と規定した石母田正氏の見解を引き、法秩序・官僚制などの領国支配機構や寺社祭祀権から、赤松氏における公権力・地域権力の形成過程を論じたものである。まず法秩序については、在地における各調停機能も十分に機能しており、赤松氏が整備した家法や守護法廷は過大評価できないとする。また、官僚制についても、赤松氏が譜代・新参から成る奉行人制を充実させつつも、やがて「寺奉行」浦上則宗・祐宗が文書発給権を獲得して守護公権を行使するようになり、その状況すら則宗没後は終焉したと考察する。さらに寺社祭祀権においては、各地域権力が天文末年から支配領域を「国」と称して祈祷依頼をおこない、赤松氏守護家に代って、寺社造営や勧進・奉加を実施したとする。そして、こうした動向から、赤松氏権力は地域権力化した守護代・国人に下降分有され、守護家は一地域権力に後退せざるを得なかったと論じた。

 終章では、戦国期赤松氏権力の実像について、播磨一国の強固な領域支配すら伴わず、一族・庶子、守護代、国人、被官人層との関係はフラットに近い状態にあったとする。そして、その体制原理に関して、地域権力を形成した守護代・国人・被宮人が、赤松氏守護家を推戴して、共同支配をおこなう「地域的集権体制」と位置づけた。さらにその「地域的集権体制」も、守護家が共同利害を達成できなくなると、しばしば動揺して、天文年間に尼子氏の播磨国侵攻によって体制は崩壊、各地域権力の自立化が進行して、守護家も一つの地域権力として存続せざるを得なかったと結論した。また、今後の課題として、相対的に関連史料が少ない美作国・備前国における守護職の実態、考古学的成果や近世地誌類も参考にした経済圏・流通圏の究明、そして関連史料が減少する「地域的集権体制」崩壊期の赤松氏研究を提示している。

 以下においては、若干の私見を述べていくことにしたい。
 評者としては、本書の議論によって、戦国期の赤松氏権力から、近世大名との相似性を見出すこともできると考えている。
 周知のごとく、赤松氏守護家は嘉吉の乱で没落し、播磨・備前・美作三国の守護職を喪失、その後は長禄の変で復権して、戦国期に入ると、応仁・文明の乱で山名氏から播磨・備前・美作を奪還することになった。室町期と戦国期の赤松氏領国には、無視しえぬ断絶が生じていたと想定して大過無いだろう。戦国期の播磨国(赤松氏本国)で地域権力を形成しえたのは、従前から室町幕府とつながつていた奉公衆・御供衆ではなく、守護家が取立てた龍野赤松氏・三木別所氏であり、また守護家の権力機構を掌握した「寺奉行」浦上氏や「段銭奉行」小寺氏だったのである。
 ところで、初期の近世大名においては、主君に取立てられた出頭人が、しばしば権勢を背景に独自の拠点・領域などを形成し、次代以降に主家と対立する事例が見出される。赤松氏においては、すでに政則の代から、新興地域権力が独立的志向を持ちつつある状況に直面していたが、これは守護家の力量不足、あるいは赤松氏をめぐる政局が安定を欠いたことに起因すると考えられる。文明末年に赤松政則が山名政豊に大敗すると、浦上則宗などの重臣が有馬慶寿丸を三国守護職に擁立したのはその象徴的な事例だろう。
 渡邊氏が第一部で論じたように、龍野赤松氏による地域権力形成は、赤松政則が応仁の乱当時にいまだ在京しており、実力者の浦上則宗も、若年の政則を輔弼して在京したことから、赤松政秀が播磨奪還の軍事指揮官となったことを端緒とする。また、文明期の山名氏による播磨国侵攻も、政則を解任した重臣グループでは克服しきれず、政則とこれを支えた別所則治に合流してようやく解決しており、三木別所氏を地域権力として台頭させることになった。
 つまりは、龍野赤松氏・三木別所氏とも、赤松氏守護家が山名氏から播磨国を奪還・防衛する過程で取立てた新興勢力である。その意図は別としても、戦国期の赤松氏守護家は、新たに地域権力を創出しえたことになる。また、龍野赤松氏・三木別所氏に限らず、播磨国の各地域権力は、概して赤松氏権力の執行者として在地を掌握し、地域権力たりうる勢力基盤を構築するという経緯を辿っている。備前宇喜多氏のように、赤松氏との関係を前提とせずに地域権力を形成したわけではない。それ故に守護家を推戴した「地域的集権体制」が成立しえたのであろう。
 近世初期においても、出頭人の悉くが、次代以降に主家と対立するわけではない。大勢においては、むしろ代を重ね、職制が確立するとともに、重臣層として藩政を支えていく傾向にある。戦国期の赤松氏守護家も、強固な支配体制こそ構築できなかったものの、政則・義村・晴政の三代(または義祐も加えた四代)にわたり、ともかくも「地域的集権体制」を維持したことに留意すべきである。
 たしかに、文明末年には山名氏、天文期には尼子氏の侵攻によって、赤松氏の「地域的集権体制」は、たびたび瓦解の危機に見舞われた。渡邊氏は山名氏・尼子氏の侵攻に際し、守護家が「地域的集権体制」の統合者たる責務(知行地確保・外敵排除など)を果たせず、守護家の播磨国支配は、その実態を喪失したとする。近世大名も、しばしば御家騒動に見舞われながら、安定を求める政治的・社会的状況の中で、騒動を乗越えて藩政を確立していった。しかし、赤松氏の「地域的集権体制」は、戦国時代という動乱の中で、守護家の力量不足を克服することも叶わず、ついに安定せずに解体してしまったと理解することもできる。
 評者の感覚では、近世大名権力の雛形は、武田氏・北条氏などの「強大」な領国支配のみならず、赤松氏の「地域的集権体制」からも見出せるように感じられる。すなわち、戦国期に形成された大名権力のあり方は多様であり、いずれも近世への連続性となりうる側面を少なからず孕んでいたと考えられる。本書で提示された「地域的集権体制」の議論も、戦国期あるいは中近世移行期の研究に一石を投じる、大きな成果となるのではないだろうか。

 以上、簡単な書評をさせていただいた。評者の理解不足と、近世史から戦国期の研究に入った経緯から、本書の議論を多分に読み誤った恐れもあるが、著者および読者のご海容を乞うばかりである。


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