板垣貴志・川内淳史編『阪神・淡路大震災像の形成と受容』 |
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評者:高野宏康 | |||||
「LINK 神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター年報」3(2011.8) |
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一 はじめに 東日本大震災が起こって以降、地震や災害はかつてないほど注目を集めるようになった。なかでも、阪神・淡路大震災は直近の最大の地震災害として特に関心を集めており、これまでにさまざまな視点からの関連書籍が多数刊行されている。しかし、多様な視点からの研究や報道等のさまざまなメディアの膨大な言説や映像によって、阪神・淡路大震災像は何重にも折り重なって堆積しており、門外漢には容易に近づくことができないように思われる。 二 本書全体の特徴 本書の目次は以下のとおりである。 序 奥村 弘 「序」と「はじめに」では、本書全体の問題意識が明確に示される。まず、「序」では、阪神・淡路大震災直後から現在に至るまで、歴史資料ネットワーク等を通じて、資料保存活動に深く関わり続けている奥村弘が現状を述べる。奥村によれば、震災一五年目頃から「震災体験の風化」がみられ、マスコミ等が震災を体験しない世代に「記憶」を引き継いでいく取組みに注目するようになってきたとし、そのことを「震災を社会的に歴史として位置づける時期がはじまったのではないか」と指摘する。また、報道関係者や研究者だけでなく、地震直後から、多くの市民が手記を書き、映像や記録を残してきたことに注目する。その仲介をするのが歴史研究者の役割で、現在では直接震災を体験しなかった若手研究者がその役割を担うようになってきたという。 「はじめに」では、その「直接震災を体験しなかった世代」で、本書の編者の一人である板垣貴志が、自らの歴史資料ネットワークでの活動および、「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」(以下、人と防災未来センター)の震災資料専門員として勤務した経験をふまえ、本書の背景となっている問題意識について具体的に説明する。人と防災未来センターには、市民から提供された一次資料が約一七万一千点、災害・防災に関する二次資料が約三万三千点収蔵されており、多数の被災者が資料の閲覧や寄贈のため、資料室を頻繁に訪れている。板垣は、そこで被災者の「いま」と接する機会が多くもったことで、震災はまだ終わっておらず、膨大な資料の利活用方法を考えていく必要性を痛感したという。震災から一五年を経て、被災地最大の都市である神戸でも三人に一人が震災を体験しておらず、今後、提供者の「想い」が刻み込まれた震災資料が重要になってくるなかで、震災資料を媒介として、個々の体験・記憶を普遍的な「歴史」へと昇華し、“伝える”必要があると指摘する。 もう一点、強調されているのは、新聞報道への着目である。人と防災未来センター所蔵資料群には、膨大な新聞原紙と新聞スクラップが含まれており、板垣はそれらを「被災者自らが新聞を資料化していったもの」と位置づけ、歴史学が大震災を研究対象とする際に、まず新聞報道に着目する必要があると考えるようになったという。そして、新聞に付託した被災者および新聞記者の「想い」を読み解く「歴史家の眼」が重要であること、さらに、その「想い」(二次情報・メタデータ)をも記録化しておく必要があると指摘する。 また、注目しておきたいのは、本書とこれまでの震災研究との違いである。震災像の形成については、成田龍一が関東大震災の「哀話」や「美談」の分析を行い国民意識形成との関連で論じた研究があるが、本書では、震災報道を単なる「哀話」「美談」とみなすのではなく、「想い」の持つ意味を積極的に分析することの重要性を強調する。同様の視点は本書全体にみられる。例えば、震災を描いた絵を取り上げた第五章では、記憶論でよく強調される、記憶の「表象不可能性」や「共有不可能性」に対し、語りつくせない「想い」に真摯に耳を傾けることが重視される。また、震災後の日常と非日常の関係性を取り上げた第七章では、震災による日常の断絶を強調する社会批評の成果をふまえつつも、震災以後に生まれた新たな関係性のあり方に、より積極的に注目する。このような問題意識は、本書が阪神・淡路大震災像の形成過程を対象にすることで、従来の国民国家論や記憶論、現代社会論を更新しようとする意欲を示しているといえよう。 以下、本書の個別論点として、(一)震災資料の可能性、(二)現代を読み解く視点、(三)震災の記憶を“伝える”こと、を取り上げて検討し、評者なりに問題提起を行ってみたい。 三 個別論点からの問題提起 (一)震災資料の可能性 震災資料という概念は本書の最も重要なキーワードである。一見、ありふれた用語のようにも思われるが、震災に関する歴史資料については、被災文化財がしばしば言及されることに対し、震災資料とは生活品なども含めたより広い概念を意味していることがポイントである。このような意味での震災資料という概念は、いまだ一般的に認知されているとは言い難く、明確な定義が存在していない。本書では、「被災と復興に関する、行政・団体・個人などが作成した様々な文書資料、映像資料、現物資料など」と定義し、具体的には「文書・日記・ビラ・アンケートの原票、写真、絵画、映像、音声・電子資料、また、歪んだ側溝のフタや止まった時計などの現物資料、市民や自治体などが作成した記録集など」、「震災についてのあらゆるものが収集の対象となり、その範囲は極めて広範かつ多様である」と説明されている。人と防災未来センターでは、以上のような「未知数の可能性」を秘めた、多様な震災資料の収集・保存が続けられている。震災資料という概念を明確に提起し、これらの分析・活用を主張する視点は重要である。 【一次資料】 震災資料を、一次資料と二次資料に分類し、記録活動の種類により分類することで、学問分野や関心で対象とする資料を限定せず、震災資料全体での位置づけを明確に意識することができると思われる。例えば、一次資料を用いて事実を確定することが目的とされる従来の歴史学では、報道や映像作品などの二次資料によって形成される震災像の持つ影響力についてはうまく対象化することができなかった。震災を総合的に捉えるには、一次資料と二次資料の資料としての特質をふまえて分析することが求められるのである。 (二) 震災資料から現代史を読み解く 本書の大きな特徴は、震災資料を切り口に現代を読み解く視点である。阪神・淡路大震災および地下鉄サリン事件が起こった一九九五年は、戦後日本社会の大きな転換点であると多くの論者によって指摘されているが、社会の変化が具体的に問われることはあまりない。 第1章「報道の温度差」(山中茂樹)では、一般的に地下鉄サリン事件以降、大震災は「ローカルな災害になった」といわれる傾向について、事件後、震災の記事数は減少していくが、事件の影響や「風化」の一言で片づけるのではなく、背後に真の意味を明らかにすべく被災者支援や復興報道をめぐる「温度差」の中身を具体的に検証していく。被災者支援について、被災者が家賃補助などの様々な補助を受けることへの非難に対し、被災地の苦しみを理解していないと反論した事例について、対立の背後に「被災者支援のありよう」があることを指摘する。 第5章「市民が描いた阪神・淡路大震災」(吉川圭太)では、大震災を描いた絵を手がかりに、絵に込められた「想い」を考察する。被災者が描いた絵には一人ひとりの体験が投影され、忘れられない情景や印象が表現されている。それらを美術作品として扱うのではなく、震災資料としてそこに込められた「想い」を共有していくことに着目する視点が特徴となっている。 第七章「日常と非日常の断層−大震災を生きる−」(川内淳史)では、大震災に遭遇した人々の震災体験文をもとに、「日常」と「非日常」とが折り重なる空間としての「被災地」に着目し、震災後の人々の「生」のあり方を考察する。 (三) 震災の記憶を“伝える” 震災の記憶を“伝える”ことは、本書全体に共有される論点である。第1部で取り上げられた新聞報道、第2部で取り上げられた、震災の絵、ミニコミ、震災体験文などは、いずれも震災の記憶を“伝える”震災資料であるが、“伝える”ことは必ずしも自明ではなく、極めて意識的な行為だということが、本書を読むことでよく理解できる。「おわりに」で、編者は、「想いの集積体」である震災資料は、震災の記憶を後世へと“伝える”と同時に、現在を生きる人々が、その記憶に対して主体的に関わっていく契機となるとし、震災資料を活用することで、大震災の個々の「体験・記憶」を「歴史」として引き継いでいけるのではないかという。震災資料の意義を強調する編者の「想い」が伝わってくる指摘である。震災資料の可能性についての模索はまだ始まったばかりで課題は多い。以下、本書が切り開いた地平をさらに展開し、震災の記憶を“伝える”ための課題をいくつか指摘しておきたい。 まず、本書で取り上げられなかった様々な阪神・淡路大震災をめぐる記憶表現について、文学、映画、マンガ、アート等、あらゆるジャンルにわたることは周知のとおりである。震災像の形成の問題を考える場合、これらの分析は不可欠であろう。また、慰霊や展示といった震災の記憶の継承に直結する表現に関しても言及されていなかったが、それらについても同様に考察していく必要があろう。震災資料という概念はこれらを総合的に分析する可能性をもっている。 方法論については、「想い」、「生」など本書のキー概念の有効性はよく理解できるが、ともすれば共同体回帰的な疎外論に陥りかねない危うさがあるようにも思われる。現代の「共同体的価値観や歴史性から切り離された「郊外」的空間」、そして、東日本大震災によって顕在化したさまざまな日本社会の「分断」状況に対峙していくためには、さらなる方法論的な工夫が不可欠であろう。社会批評の成果や、「記憶の共有不可能性」の問題から、「分有」という概念を提起したこれまでの記憶論と切り結ぶことで、方法論をより鍛え上げる必要があるだろう。 最後に、震災資料の収集・保存・活用にあたっての課題を指摘しておきたい。その役割を担う人と防災未来センター所蔵資料は、一部の写真貸出を除き、一次資料はほとんど活用されておらず、資料の利活用に向けて、展示や研究などの新たな取り組みが求められている現状にあるという。二〇一一年に開催された企画展「戦後神戸の歩みと阪神・淡路大震災」のような優れた企画が今後も実施されることを期待したい。奥村弘の、「残念ながら大震災被災地には、現在のところ阪神・淡路大震災を歴史として継続的に研究する機関は全くありません」という指摘を重く受け止め、改善するために何が必要なのかを考えていく必要があるだろう。震災の記憶を“伝える”一人一人の「想い」がそれを実現させる。本書はその希望を示す稀有なブックレットである。 |
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