小栗栖健治著『熊野観心十界曼荼羅』

評者:鷹巣 純
「絵解き研究」23(2011.5)

 一九八〇年代に盛んに事例報告と分析がなされた熊野観心十界曼荼羅(あるいは熊野観心十界図)の研究が、今世紀に入って新たな活況を迎えている。絵解き研究会にあっても、二〇〇五年に「フォーラム絵解きの世界 熊野観心十界曼荼羅を読み解く」を岡山県立博物館他と共催し、二〇〇七年の『絵解き研究』第二十・二十一号合併号ではこのフォーラムの成果を中心に熊野観心十界曼荼羅の総特集を組んだことが、記憶に新しい。
 この活況の背景には、続々と確認される熊野観心十界曼荼羅の新出作例に対する興奮があることと思う。実際、二〇〇五年のフォーラムの席上でも数件の新出作例の存在が明らかとなり、会場は大きな興奮に包まれた。一九八三年に萩原龍夫氏が『巫女と仏教史』で紹介した時点ではわずか九件が確認されるにすぎなかった作例は、現時点で五十八例を確認するまでに膨れ上がっている。
 とは言え、現存する熊野観心十界曼荼羅の確認数は、今世紀に入って急に増大したというわけではない。一九八九年に黒田日出男氏が十七件の、一九九三年には脊古真哉氏が二十四件の現存作例を確認しているように、熊野観心十界曼荼羅をめぐるデータは、静かに着実に蓄積されていたのである。
 熊野観心十界曼荼羅研究をめぐるこの「静かな」状況を打破する直接の起爆剤となったのは、小栗栖健治氏が二〇〇四年に『塵界』第十五号に発表した「熊野観心十界曼荼羅の成立と展開」だったように思う。掲載誌の大部分を占めたこの大部の論考は、膨大な図版とデータを駆使しての系統分類を行なっただけでなく、当時知られていた熊野観心十界曼荼羅全四十二件を、関連作品と併せてモノクロながらすべてA四判の全図で紹介するというものだった。確認される件数ばかりがいたずらに増えてゆく一方で、その内容を確認する拠り所となる図版やデータの入手が困難だった熊野観心十界曼荼羅の研究環境は、この労作の登場によって一変した。
 今回刊行された小栗栖氏の新著は、氏の熊野観心十界曼荼羅研究の集大成として、『塵界』論文をはるかに上回るインパクトを発する。データブックとしての側面だけに着目しても、紹介される熊野観心十界曼荼羅は十六件増の五十八件、フリーア本住吉祭礼図をはじめ熊野比丘尼の活動を描いた近世絵画はその全図と部分図、熊野観心十界曼荼羅と影響関係のある作例はそれぞれ全貌を理解できるように一具すべての全図、それらのほぼすべてがカラー図版で掲載される。巻末には裏書などの墨書類の翻刻と、紙継ぎ・折り幅に関するデータが集成される。熊野観心十界図をめぐる現在知りうる基本情報のすべてがここにあると言っても過言ではない。本書と、熊野比丘尼をめぐるやはり労作の資料集『熊野比丘尼を絵解く』(根井浄・山本殖生編、法蔵館)を携えれば、熊野観心十界曼荼羅の調査・研究で困ることは当面あるまい。
 論考編も実に充実している。以下にその構成を示そう。

第一部「熊野観心十界曼荼羅」の成立と展開
 第一章 熊野比丘尼と絵解き
 第二章 「熊野観心十界曼荼羅」の構造と形式分類
 第三章 定型本の展開と図像変化
 第四章 「熊野観心十界曼荼羅」の図像的成立
 第五章 「熊野観心十界曼荼羅」の物語
第二部「熊野観心十界曼荼羅」とその周縁
 第一章 伊勢・志摩の熊野比丘尼
 第二章 熊野比丘尼の「浄土双六」
 第三章 社寺参詣曼荼羅と「熊野観心十界曼荼羅」
 第四章 「熊野観心十界曼荼羅」の制作工房
 第五章 「熊野観心十界曼荼羅」の縁起的側面
 第六章 地獄絵に描かれた仏教習俗

 このうち第一部は、熊野比丘尼および熊野観心十界曼荼羅の生成と展開について、絵画の系統分類を主軸に確認したもので、『塵界』論文を中心に再構成されたものである。
第一章では、熊野比丘尼の宗教活動がまとめられる。ここでの氏の主な関心は、現存する熊野観心十界曼荼羅との関連の深い、地方における比丘尼の活動に向けられる。とりわけ、大黒天札の配札をめぐる考察は、地方における熊野比丘尼の活動実態を具体的に描き出して興味深い。
 第二章では、まず熊野観心十界曼荼羅の伝存状況が整理される。そのうえで、兵庫歴博本をサンプルに図像面での基本構造が、武久家本を中心に表装面での基本構造が、それぞれ確認される。武久家本は熊野観心十界曼荼羅の原初的表装をとどめるものとしてこれまでも頻繁に紹介されてきたが、傷みが激しく、保存状態の良好なものではなかった。ここでは制作時期は下るものの状態のよい新出の個人蔵本を参照することで、これを補っている。これらの前提の上に、氏の独自の形式分類がなされ、熊野観心十界曼荼羅は定型本(さらに甲本・乙本・丙本に細分される)と非定型本(さらに模写本・別本に細分される)に大別される。
 第三章では、氏の分類するところの定型本の展開過程が興善寺本を起点に復元され、これに続く第四章では、熊野観心十界曼荼羅の成立過程が近世初期風俗図の描写内容から推測される。
 この中で氏は、図像数やその細部の整合性の検討を通じ、定型本諸作例中もっとも古様をとどめるものとして興善寺本を挙げる。そしてこの作例との類縁関係から六道珍皇寺の古例(甲本)を熊野観心十界曼荼羅の現存最古本であると推定する。自然主義的な老いの坂表現を持つ六道珍皇寺甲本の編年をめぐっては、室町時代に遡る最古本とみなす説と、江戸時代に降る定型本成立後の新様式とみなす説との、両極に判断が分かれる状態が続いた。氏は画面構成の系統分類を緻密に行い、六道珍皇寺甲本を、定型本に先立つ作例と確認し、さらに熊野比丘尼の活動状況とのすり合わせから、同本の成立時期を江戸時代前期に置く。分裂した二説を統合するこの判断は、どちらの説からの批判にも耐えうる、現在最も整合性のある判断である。
 熊野観心十界曼荼羅の成立時期をかなり下方修正した氏の判断は、結果として熊野観心十界曼荼羅の成立過程の推測という困難な作業に可能性を与える。フリーア美術館本住吉祭礼図屏風や、個人蔵本遊楽図屏風といった、いずれも十七世紀前半成立の風俗図に描かれた熊野比丘尼の絵解きが、熊野観心十界曼荼羅の成立以前の状況を示す可能性が強まるからである。その絵解きの場に描かれた絵画を、氏は従来のように熊野観心十界曼荼羅の略画とは見ずに、その先行形態と見る。この分析はある種の冒険をはらんでいる。しかし重厚な図像分析によって明かされた、簡素な図像構成が徐々に大量で複雑な図像構成へと発展してゆく定型本の展開を前提とするなら、その祖形にこうした簡素な画像による絵解きが存在した可能性は、十分検討されるべきだろう。
 第五章では、氏の分類するところの非定型本のうち別本系統を個別に確認し、そこに表出された内容と定型本の内容との統合が試みられる。

 第二部は熊野観心十界曼荼羅をめぐる周辺環境が論じられる。このうち第一章・第四章は書き下ろしである。
第一章では、熊野観心十界曼荼羅の現存作品数の最も多い伊勢・志摩両国での熊野比丘尼の活躍の復元が試みられ、伊勢信仰に重なるように街道沿いに展開した比丘尼たちの活動が確認される。
 第二章では、熊野観心十界曼荼羅と併せて伝存する浄土双六(熊野系浄土双六)について考察がなされる。この事は『絵解き研究』第二十・二十一号合併号に掲載された論文の再録である。氏は『還魂紙料』・『異説まちまち』など近世の随筆類に残る記事のなかに、浄土双六と熊野比丘尼との関係性を見出す。そして熊野系浄土双六の現存作例を子細に検討し、これが通例の浄土双六とは明らかに異なる特徴を共有する、特殊な浄土双六であることを明らかにする。氏は分析の中で、双六遊びの盤としては熊野系浄土双六が不適切であることを確認し、これが双六遊びを離れて熊野比丘尼の絵解きと連動して用いられた可能性を指摘する。使用方法の実態についての復元的考察は行わないものの、熊野系浄土双六を熊野観心十界曼荼羅などに続く「第四番目の熊野の絵」として見出した氏の見識は、大いに評価されるべきである。
 第三章・第四章では、熊野観心十界曼荼羅とその関連作品を制作した工房の問題が論じられる。第三章では一具として伝存する熊野観心十界曼荼羅と那智参詣曼荼羅を軸に、紙継ぎや折り幅の測定値に基づく分類をおこなう。第四章では特に長命寺穀屋寺から近年発見された熊野親心十界曼荼羅二件と長命寺参詣曼荼羅三件とを詳しく紹介し、熊野観心十界曼荼羅が熊野以外の参詣曼荼羅や禅林寺本十界之図などとも共通した制作工房が存在する可能性を明らかにした。
 第五章では、熊野観心十界曼荼羅の図像的中核をなす観心十方界図の教義・儀礼的背景について、勧化文の分析を通して検討される中、氏の所蔵する「善光寺如来観心十方界図勧化文」が新たに紹介され、観心十方界図が善光寺如来信仰や西国三十三所巡礼にまで結び付いていたことが強調される。参詣曼荼羅をめぐるこれまでの研究史と熊野観心十界図研究とを架橋する重要な指摘である。
 第六章では、日本における死後世界観の変遷が概観され、その中に熊野観心十界図を位置づける試みがなされる。

 以上、概述したように、近世における死後世界のイメージの視覚化をめぐる氏の研究の、一つの重要な柱がこの熊野観心十界曼荼羅をめぐる研究であり、本書によって氏の研究構想は十全に開陳されたといえよう。その特質は、即物的な論拠に基づく徹底した実証性にある。後続する研究者のバイブルとなる本書が、こうした手堅い方針に基づいて纏められていることは誠に幸いである。近世における死後世界のイメージの視覚化をめぐる氏の研究の、もう一つの柱である聖衆来迎寺本系六道絵の近世模本をめぐる研究についても、本書に劣らぬ成果を期待したい。

(たかす・じゅん 愛知教育大学准教授)


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