松本一夫著『下野中世史の世界』 |
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評者:月井 剛 | |||||
「歴史と文化」20(2011.8) 栃木県歴史文化研究会 |
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一 本書は、中世東国史を研究テーマとする松本氏が、大著『東国守護の歴史的特質』(岩田書院、二〇〇一年)を上梓後、平成三年(一九九一)から同二十一年までに発表した、鎌倉・室町時代における下野国内の領主や足利庄支配の問題に関わる旧稿に、新稿三篇を加えてまとめられたものである。松本氏が勤務されていた栃木県立文書館では、毎年『研究紀要』を発刊しており、その調査研究の成果が、本書の中心となっている。 第一章 中世における下野の位置−地政学的アプローチー 二 次に、各章の内容について紹介する。第一章では、中世における下野の歴史的特質について、日本列島における下野の地理的位置、奥州や京都・鎌倉・古河など各時代における政治的要地との距離などの点から、検討が加えられている。下野が、奥州との境界に位置しているため、宇都宮・小山・那須地方などのようにしばしば軍事勢力の境界となり、下野国内の領主層の動向を規定していた側面があったこと、旧族領主層の割拠状態は極めて強固で、戦国末期に至るまで統合は実現せず、分権的な特質を維持し続けたことが述べられている。 第二章では、寒河尼の功績を明らかにすることで、従来の小山氏への過大評価に対し、警鐘を鳴らしている。すなわち、文治三年(一一八七)十二月一日源頼朝袖判下文の文中に見られる寒河尼の「大功」とは、それまで源氏との関係が強くなかった小山氏を頼朝軍に参加させたことを指し、この時与えられた寒河郡並びに網戸郷の地頭職は、新恩であること、後に両郷は尼の孫にあたる寒河氏・網戸氏へそれぞれ伝領され、両氏が地頭としての実務を分担したことなどが論じられている。 第三章では、南北朝〜室町中期における足利庄在地支配の変遷について、検討されている。各時期の足利庄の管理者・代官などを確認した上で、足利庄内の大部分は、南北朝期までは公文所、室町期には惣政所と呼ばれた機関が年貢・公事などの徴収にあたり、郷村ごとに下部機関である御雑色所が存在していたと推定されること、庄代官・公文所(惣政所)の使節には、主に在地武士が登用されたことなどが論じられている。 第四章では、南北朝・室町前期における国人領主茂木氏の動向と上級権力上の関係が考察されている。建武三(一三三六)〜四年には、茂木氏自身の所領回復のために、広域大将として北関東に派遣された足利一門の桃井氏に従軍したこと、南北朝中・後期には、下野国内における存立の安泰を図るため、幕府・鎌倉府双方との直接的結びつきを保とうとしたこと、応永末年には、足利持氏の奉公衆と呼ぶべき存在であったが、永享の乱の際に幕府方についたこと、が指摘されている。 第五章では、茂木文書の伝来の経緯並びに古文書学的特徴について、検討されている。伝来の経緯については、明治時代に入って経済的に困窮した茂木氏が、前代では組下の武士であった吉成家から経済的な援助を受けるようになり、そのような関係の中で、家系図などを残し重代の文書が移管されるに至った、という。また、従来十分に明らかにされていなかった古文書学的特徴については、建武五年四月茂木知政軍忠状に据えられた桃井貞直の裏証判の位置、法量の大部分に関する情報などが報告され、特に、鎌倉期の文書並びに室町期の鎌倉府発給文書は、紙に厚みのあるものが多いことが指摘されている。補論一では、鎌倉期・南北朝期の茂木保の領有関係の変遷について、再検討が試みられている。東茂木保は、茂木氏の本領でありながら、西茂木保に比べて茂木氏による支配が安定しない地域であったことが論じられ、当該期武家領主にとっての本領の位置づけ・意味について再吟味する必要性が述べられている。また、補論二では、茂木賢安の置文からうかがわれる東国武士の信仰生活の一端、補論三では、隣国どうしの守護佐竹氏と茂木氏との文書のやりとりの意味について、いずれも興味深い指摘がなされている。 第六章では、「宇都宮」姓を名乗った当主の近親者や有力庶子家の動向を網羅的に再検討し、彼らが「宇都宮」姓を名乗った意味について、考察を加えている。南北朝期以降、本宗家の名(姓)は一族間で特殊な意味を持つようになったため、室町期以降に本宗家当主の立場が動揺した宇都宮氏では、有力庶子家がその地位をとってかわらんとする意志をもち、「宇都宮」姓を称した、という。 第七章では、一連の芳賀氏発給文書の特質から、越後守護代芳賀高貞・高家の立場や文書の実際の伝達ルートなどについて、検討されている。在職期間中ほとんど越後にいなかった守護正員の宇都宮氏綱に代わって、守護代である芳賀高貞あるいは高家が、実質上守護としての職権を行使したこと、足利尊氏の下文は、実際には宇都宮氏綱を介さず、直接芳賀氏のもとに届けられた可能性があることなどが指摘されている。 第八章では、足利一門大将として下野・常陸で活躍した桃井直常及び一族の桃井貞直が、ほぼ同様の花押を使用していること、南北朝初期の下野守護小山朝氏が、桃井六郎の花押を模倣した可能性が高いこと、小山常犬丸祖母のように、女性が惣領の代行者として軍忠状に証判を加えるケースがあったこと、が指摘されている。 第九章では、昭和五十九年(一九八四)から平成二十年(二〇〇八)までの下野中世史研究の動向が、テーマ別に紹介されている。成果としては、下野各地域の領主研究が飛躍的に進歩したこと、下野という地域的特質や歴史的背景を踏まえた研究が主流になってきたこと、日光山に関する研究が大いに前進したことが述べられている。課題としては、今後は下野の中世全体、あるいはその前後の時代をも見通すような大局的な見解を示していくべきこと、東国と歴史的背景が比較的似ている鎮西地域など、他地域の研究も参考にしながら、東国全体の視点から下野の中世を見るという試みを一層進めていくことが挙げられている。 三 評者は、昨年まで松本氏とともに栃木県立文書館に勤務しており、研究に対する真摯な姿勢を含め松本氏から多大なる学恩を受けてきた。特に本書からは、下野の中世全体を見通した視点や、下野以外の他地域の事例をも考慮に入れた研究手法など、多いに学ばせていただいた。また、古文書そのものの伝来の経緯(第五章)や、武家における本領支配の位置づけ(第五章補論一)、文書の実際の伝達ルートを考慮に入れた守護・守護代による管国支配の実態(第七章)など、従来見過ごされがちであった重要な論点が、本書によって改めて提示されたことは高く評価される。東国という史料が極めて限定された中での、精緻な史料批判・実証に基づいて論述された本書によって、鎌倉・室町期における下野領主の基礎的な動向や領主支配の実態解明が、大きく前進したと言えるだろう。 まず、第三章で示された足利庄の在地支配の実態については、松本氏自身も課題に挙げているように、足利庄に派遣された関東管領上杉氏の庄代官と公文所(惣政所)がどう関連して在地支配を実施していたのか、知りたいところである。史料的制約がある中での検討のため、無い物ねだりであるのは重々承知しているが、在地支配の核心部分を成すと思われるこの点についても、松本氏自身の見解を述べてほしかった。年貢・公事などを徴収するという、南北朝期の公文所と室町期の惣政所が、ほぼ同じ機能を果たしていたのかなども含めて、支配機構の具体的なあり方についても、さらなる解明が望まれる。 以上、些末な疑問点や愚見を述べたが、評者の不勉強により、誤解・曲解をしている部分や的外れな評言もあったかもしれない。著者及び読者のご海容を請うのみである。 [栃木県立文書館指導主事 つきい ごう] |
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