安藤正人著『アジアのアーカイブズと日本』

評者:高江洲昌哉
「記録と史料」21(2011.3)

 本書は安藤氏が2000年代に発表した論文・小論・講演を一冊にまとめたものである。折に触れ、謦咳に接した者の一人である評者は、まとまった形で氏の発言を確認することができ、本書が出版されたことを喜びつつ読むことができた。今回、紹介の機会が与えられたので、本書の内容を伝えたいと思う。まずは、定石とおり本書の目次を紹介したい。
 本書は3部構成で7章からなっており、初出も含めて記すと以下のとおりである(副題省略。またカツコ部分は、初出情報)。

 第1部 アジアのアーカイブズと日本
  第1章 アーカイブズから考えるアジアの中の日本
   (『アジ経ワールドトレンド』114号、2005年3月)
  第2章 戦争とアーカイブズ
   (2003年10月、日本アーカイブズ学会設立準備大会講演)
  第3章 アジアにおけるアーカイブズとアーカイブズ研究
   (『論壇 人間文化』2号、2008年3月)
 第2部 地域に足を世界に目を
  第4章 地城資料の活用拡大のための課題について
   (『歴史科学』187号、2007年2月)
  第5章 阿波根昌鴻さんのメッセージを未来に伝えるために
   (『花は土に咲く』4号、2002年)
 第3部 アジアのアーカイブズ学研究
  第6章 アジアのアーカイブズ学研究とアーキビスト教育
   (『アーカイブズ学研究』2号、2005年3月)
  第7章“記録を守り 記憶を伝える”
   (『専門図書館』229号、2008年5月)

 またはしがきで、長文の学術論文を除き「内容には互いに重複も多いが」(9頁)と断りを付けた上で、本書と関連する収録されなかった文章−小論(長文の学術論文を除く)−15本のリストも付せられているので、収録以外の小論についても読書を考えている者への便が与えられている。収録以外の小論の初出年も含めて、発表の軌跡を考えると2003年から2005年の間にかなり活発な発言をしていたことがうかがえる。
 本書収録の各章については、著者自身がはしがきで概要を紹介しているので、ここでは各章ごとの概要を書き連ねるのではなく、未読の読者に本書の魅力を伝えることで紹介の責をはたしたいと思う。

 本書刊行の意図を著者の言葉で表すと「自分ではアジアと日本の関係に日を向けながら、アーカイブズ学の新しい側面を切りひらこうと、それなりの努力をしてきたつもりである」(5頁)と言うように、これまでの日本国内の地域資料の保存に関する発言から、アジアへの広がりを経た議論をまとめたものであり、このことは本書の三つの部構成からも確認することができる。

 ここで「アジアと日本の関係」と“さらっと”書いているが、第1部収録の文章から具体的ないきさつ−ロンドン大学留学時代(1986年)でのインドネシア・マレーシアからの留学生(両者とも文書館の職員)からの問いかけ(日本占領時代の資料の所在確認)や、2004年の国文学研究資料館アーカイブズ研究系主催のシンポジウムでの韓国側報告者からの問いかけ(植民地統治における本国である日本側の記録公開を求める発言)−を読むと、安藤氏の取り組みの道程は平坦なものではなく、日本の植民地責任・戦争責任への取り組みという深刻な問いとの格闘の産物であることが分かる。ちなみに安藤氏の『記録史料学と現代』(1998年、吉川弘文館)のあとがきによると、先述のロンドン留学時代の思い出をのべつつ「第二次大戦期のアジア太平洋地域において記録史料がたどった運命を、戦前・戦後の連合国側の動きも含め、アーキビストの目で確かめたい。……私としてはこれも日本の記録史料学が担うべき重要な研究課題のひとつだろうと思っている」と書き記しているので、安藤氏のこの2000年代に果たした実践は「アジア」からの問いに対応した貴重な応答といえよう。

 なお蛇足ではあるが、安藤氏も関わっている『日韓近現代歴史資料の共有化へ向けて』(2005年)を読むと、韓国における朝鮮総督府文書のデジタル検索が紹介されており、また、別途台湾でも台湾総督府の文書がデジタルで検索できることも知られている。さらには、日本でもアジア歴史資料センターにおけるデジタルアーカイブズの現状などを考えると、この2000年代(特に後半)の東アジアにおける資料公開の進捗は驚嘆すべきであり、「歴史資料の共有」が格段と進んでいることは否定できない事実であろう。このことは一方で、歴史研究の立場からは「かつて一、二の文書を発掘しただけでも重要な研究業績として評価されていた時期もあったが、パソコンを短時間操作するだけで、大量の一次資料が入手できるようになった今日、あらためて資料の内容を読み込む眼力が問われる時代になった」(森久男『日本陸軍と内蒙工作』、講談社、2009年、16頁)という、資料読解の能力が再検討される段階にきていることを意味し、もう一方で「公開」の内実を考えれば、川島真氏が述べているように「アーカイバル・ヘゲモニー」(文書を保存し、公開した国こそが、将来に形成される国際政治史や外交史に発言権をもつ、『東アジア近代史』第8号、7頁。または「「現代」に歴史を刻む」『日本経済新聞』2005年6月16日号夕刊も参照)という、文書を公開することで、正当性を主張するという環境が整備されつつあるということでもある。かかる点から、今日はアーカイブズが日々生産されている現場または公開の仕方についても「眼力」が問われる段階になったといえる。このように「資料共有」が進んだ2000年代をどのような文脈で評価し、より良い環境に方向付けしていくのか、今後の課題といえよう。

 「記憶を守り記録を伝える」ということは、アジアとの関わりだけでなく、地域(地元)の視点からの言及もなされている(第2部)。資料を残す契機には「人の力」が大きな役割をはたすことが分かり、アーカイブズはシステムで残るのではなく、人によって残されるという側面が強いことが分かる。それでは、アーカイブズと人について見てみるが、本書には一章割り振られている阿波根昌鴻氏以外にもアーカイブズ学的に興味深い人物が取り上げられている。例えば、熊本県本渡市の安田公寛市長(本渡市立天草アーカイブズ設置に関する決断の速さとして紹介されている。もちろん、設置に関する市長の英断は記録されるべきであるが、天草史料調査会の活動も大事である)や、愛媛県西予市城川文書館開設に至る柚山俊夫氏(自費で桐箱を購入し、自分が調査・整理した古文書を、所蔵者に返す「桐箱を贈る運動」を行っている人物として紹介されている)の活動などを報告している。このように第2部の文章を読むと、「記録を守り記憶を伝える」ことの心構えとして印象に残るものが多かった。

 さて、本書第7章で紹介している阿波根昌鴻資料の整理については、本章が2002年で初発の作業報告であったとするならば、トヨタ財団の研究助成を受けて2008年に『阿波根昌鴻資料の調査報告書』やDVDで『阿波根昌鴻と資料調査会』が作成されており、それら報告資料によって、調査会がどのような作業をしてきたのか、その活動軌跡−この特異なパーソナリティによって集められた膨大な資料の整理過程−をうかがうことができる。

 また、本書にはアーカイブズ学を考えるものにとって興味深いフレーズがいくつかある。一つは、「アーカイブズ学の研究領域は、……アーカイブズ資源が、過去の歴史においてどのように保存されてきたのか、ということだけでなく、どのように失われてきたのか、さらに現在、どのように失われつつあるのか、という、いわば「アーカイブズ消滅の歴史」を明らかにする、という課題がある」(20頁)という表現である。これは「分散して残存する関連資料の相互関係を知るために」アーカイブズ史は「アーカイブズ学の基礎的分野」(58頁)という、アーカイブズ史への関心惹起の文章と結びつけて読み解けば、『アジアのアーカイブズと日本』という書名とアーカイブズ学に込めた安藤氏の研究倫理(使命感)を了解することができると思う。また、「アーキビストは、今や単なる古文書の管理人ではなく、現代的アーカイブズ・システムの構築と発展を担う高度情報専門職として世界各国で広く認知されている」(103頁)という表現を読むと、評者は歴史資料からアーカイブズ学に接近し、歴史という枠に閉じこもって考えがちな者であるため、改めてアーキビストは歴史と現在とを睥睨する者であり、アーキビストが担っている、その困難さと偉大さに敬意を感じた次第である。

 この点と関連するが、歴史研究者は史料に「耽溺」することがままあり、資料の状態を自己完結型の環境と表現すれば(もっとも、歴史研究にも問題関心という現在性もあるし、それよりも、現在はそうした「耽溺」も難しくなっているが…)、第3部の文章を読むと、アーキビストに求められているのは、現在への感覚や資料の電子化といった現在進行形の技術習得など、アーキビストは現在と厳しく対峙していることが分かる。また、アーカイブズの生成に注目しても、アーカイブズをめぐるさまざまな環境に付随している現在的要請の強さが了解できよう。アーキビスト(アーカイブズ学)は、否が応でも、常に自らの置かれた環境を更新していかなければならない、更新型の環境に置かれているかがわかる。

 さて、本書のメッセージと関連するが、評者は今夏、奇縁があって、日本で安重根に関する資料調査を行った韓国人研究者の手伝いをするという経験をした。個人的なことなので、詳述は控えるが、感想を一言述べれば、まさしく本書がいうところの「資料共用」の難しさを実感した。

 著者は「記録を守り記憶を伝える」という言葉に思い入れがあることは本書でも表明しているとおりであり、評者もこの文意を支持するものである。また「アジアの隣国との間に存在する歴史認識のギャップを埋めるためには、歴史共同研究も大切だが、なによりもまず、アーカイブズ資源の共有という基礎的な土台作りこそ優先されるべき」(59頁)という提言にも同意するので、少し問題提起的な発言(2点)をしたいと思う。

 一点目は、評者は現在大学で講義をし、日本人学生のアジア観に興味があったので、アンケート・小感想文などで、材料収集をしているが、現在の若者は「中国脅威論」と拉致問題を契機とする「北朝鮮脅威論」を土台としている者が多いことが分かった。知り合いの学者などに聞いてみても、ほぼ同意であった。詳細な全国調査に基づくデータがないので、主観性は免れないが、若者のアジア観の内容としては大きなズレはないと思う。ところで、この一世代前のアジア観(アジア研究の方向性も含めた)の違いをもった若者を前にしたとき、資料共有を目的としたアーカイブズ環境の整備を喜びつつも、アーカイブズ学が記録資料を次世代へ継承していくことも重要な任務であると考えたとき、はたして彼らは「有効」にアーカイブズを活用することができるのか、アーカイブズの環境整備も大事であるが、次世代の利用者が置かれている環境というものにもアーカイブズ学は留意すベきだと思うが、どうであろうか。

 二点目は、厳密に言えば評者の問題提起ではないが、オーラル資料とアーカイブズの関わりからの問題がある。もっとも、この話は現時点では特段目新しいものではないが、2010年9月に日本民俗学会主催で「オーラルヒストリーと〈語り〉のアーカイブズ化に向けて」という国際シンポジウムがあり、それに参加した折、改めて気づいた点である。このシンポジウムで「中国近現代口述史における『語り』とオーラルヒストリー資料」(報告は佐藤仁史氏・太田出氏)という演目があり、この中で「日本における外国史としての中国史口述記録のアーカイブズ化には大きな問題点に直面している…それは…大学乃至地域を背景とする組織的な整理・保存・公開のシステムを構築していない点です」(ワーキングペーパー34頁)という発言があった。これは日本における外国史研究の口述資料の組織的なデジタル公開の欠点を述べたものと言えようが、組織的な収集・公開の点は敷桁して言えば、2008年に東アジア近代史学会の大会での資料セッションでの「私蔵」文書の収集・保管と関連するものであり、けっして外国史やオーラル資料に限定されない、問題であると思う。話をオーラル資料のアーカイブズ化に戻して、このシンポジウムでの佐藤・太田両氏の問題提起を考えると、ここで紹介している安藤氏の著書やアーカイブズ学とも関連すると思われるし、当日の出席者は民俗学・オーラルヒストリー関係者が多いと感じたので、この場を借りて紹介した次第である。

 最後に、安藤氏は2007年に「第二次世界大戦期アジアの日本植民地ならびに占領地における記録とアーカイブズの取扱いに関する研究」で学位を取得されたようである。こちらの公刊も楽しみに待ちつつ、本書の紹介を締めることとする。

〔神奈川大学〕


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