垣内和孝著『郡と集落の古代地域史』

評者:田中 広明
「日本歴史」757(2011.6)

 福島県郡山市を舞台とする古代集落の展開と、陸奥国南部(福島県)の古代行政単位の成立が、どのようなかかわりで進められたか。それを説くことが、本書の課題である。
 著者の垣内氏は、自身の勤める郡山市やその周辺で行われた発掘調査の成果にもとづき、集落の消長や特質を述べる。また、古代行政単位の成立にかかわる問題でも、陸奥国安積郡、磐瀬郡、磐城郡、そして会津四郡といった著者に馴染みの深い地域を取り上げ、国造、郡司を登場させて論を展開する。

 まず、「第T部 郡と古代豪族」では、いわゆる「国造本紀」に登場する東北地方南部(福島県)の国造の特色を鈴木啓、工藤雅樹、篠川賢、今泉隆雄、米田雄介氏らの諸説を引用、批判しながら、とくに阿尺国造と会津地方、安積地方とのかかわりを論じる。そして、阿尺国造が、中通り地方の安積地方に拠点を置きながら、会津地方までも包括する国造とする。
 つぎに、安積郡とその郡領氏族である丈部直と阿倍安積臣について論じ、両者が国造系、非国造系という枠組みで結論づけた。これに付論として、石城国、石背国の成立と廃止を論じる。
 また、磐瀬郡では、国造、陸奥磐瀬臣そして七世紀の古墳を取り上げ、磐城郡では、中央の阿倍氏と磐城臣、於保臣の関係を論じる。そして、会津四郡では、著者の前著『室町期南奥の政治秩序と抗争』ともかかわり、「蒲生領高目録」という一六世紀末の史料から遡って、会津郡の成立過程を検討されている。
 安積、磐瀬、磐城郡については、郡家や関連遺跡をふまえて郡(評)の成立期をあつかい、郡領氏族の展開に触れ、政治的な拠点を古墳や生産基盤の検討を行う。史料上の制約もあるが、会津郡についても成立期や古墳の検討をふまえた歴史的動向についても考察すべきだったと思う。
 会津地方には、七世紀のいわゆる終末期古噴がみられず、大規模な集落遺跡も展開しなかった。国造未設置の問題とかかわり、会津地方を阿尺国造が内包していたというだけではなく、積極的な回答が必要となろう。

 さて、ここで厄介なのが、陸奥国の南部で国造の「クニ」から「評」そして「郡」といった枠組みが、共通する地名や人名だけでは、地域を掌握した権力や行政単位としての連続性を保障できる確信がもてないことである。
まず、評は、複数の有力豪族が、総領(大宰)に立評を申請したのち評の官人となる。
 立評にあたり国造は優遇されるが、国造以外のたくさんの有力豪族が評の官人となる。つまり、評を立てることによって、有力豪族が国家の行政組織にあまねく組み込まれていくことになる。
 そうした立評の事情をさらに追求するためには、国造以外の有力豪族を安積、磐瀬、磐城郡の前身となった評の中に探す努力が必要となろう。そのヒントは、群集墳から一歩抜き出たいわゆる終末期古墳や郡内に複数存在する寺院跡の歴史的な評価である。とくに七世紀末の寺院は、その前身に豪族の居宅が存在していた場合が少なくない。
 ところが、孝徳朝前後の段階、陸奥国南部では、評を単位とした評造の墓に匹敵するような大形方墳や大形円墳の造墓を確認できず、まして大形古墳のない地域(評)が存在する。また、建立が七世紀末に遡る寺院もきわめて数が少なく、初期の地方官人となった者たちは、地域権力の可視的なモニュメントを残さなかったようである。
また、仮に国造の「クニ」が、空間的な領域をもち評に引き継がれ、さらに郡に発展したとしても郡の名称は、代表的な地名(人名、集団名)にもとづいていたに過ぎない。さらに国造名も郡名(評名)から遡源的に付帯された可能性もある。
 ところで考古学によって、遺物や遺跡のまとまりからある一定の地域の枠組みを抽出することは可能である。しかし、建物の構造の違いや土器の型式、古墳の内部構造、横穴墓の型式の違い等からつかむことができる枠組みは、古代国家の論理にもとづく評や「国」といった行政的な枠組みと直結するとは限らない。
 さらに、孝徳朝の立評以降も評を分割し、新しい評を立てる運動が各地でおこり、評の官人は増加の一途をたどる。こうした歴史的プロセスを陸奥国南部の諸郡成立を通じて解き明かそうとしたのが本書であろう。
 さて、地域史研究は、その目的の一つに地域が、いかに全体史(日本史)とかかわり、歴史の潮流を受け止め、突き動かしていたのかを探るという命題がある。そのためにまず、「地域」という枠組みが、どのように形成され、どのような手法(分析方法)でとらえられるかを研ぎ澄ます必要がある。

 「第U部 集落の政治性」では、陸奥国安積郡にかかわる集落遺跡について、遺構や遺物の構成要素、集落を構成する竪穴住居の量的変化などから、各集落遺跡が帰属した郷を推定し、個々の集落がかかえた役割やその地域的特質などに検討を加える。
 まず、集落の変化を竪穴住居の量的変化から読み取ろうとする。しかし、章ごとに時期区分や時間幅が異なるため、章相互の関連性はつかみにくい。そのうえ六章では、土器の変遷を先行研究に依拠して独自に一一期に分類するが、古墳時代中後期を七期、奈良時代を二期、平安時代を二期とするなど時間幅が異なる。また、八章では、一時期を一〇〇年として論を進めることを前提に読み進めなければならない。
 さて、個々の集落遺跡が、古代のどの郷に所属していたかを図ることは、とても難しい。
 古代の郷が、行政的に編成された存在であり、人的結合にもとづき形成された集落遺跡の集合体とは、元来一致しない。しかし、租税や徭役などの行政権力を遂行するために必要とされた編成単位が、地域単位として熟成された可能性は高い。
 問題となるのは、中世の郷からの遡源的な検討である。なぜならば、古代の集落が一○世紀末に途絶し、中世の集落とは連続しないからである。だから、『倭名類聚抄』所載の「郷」の検討では、中世以降の地名検証ではまずい。少なくとも九、一○世紀の集落遺跡をどのようにくくるかにかかる。この点、地の利を生かし、郡山市周辺の集落遺跡の所管「郷」を割り振る著者の姿勢は正鵠を得ている。
 ところで、著者の言う三つめ「某郷」は、どのように考えたらよいだろう。『倭名類聚抄』所載「郷」の所管した範囲の推定が違うのか、同書の記載から漏れた、郷名を変更した、「餘部」郷や「駅家」郷など特殊な郷、集落が絶滅した、季節的に営まれた山間地の集落などが思いつく。
 しかし、同書所載郷から一見、あふれたような集落遺跡も、実は帰属する郷があり、その可能性を導き出した点に本書の意義を見出したい。なお、人口の増減にともなう郷数の変化は、郡司の定員と密接にかかわる。そのため、国家も注意を払ったことから六国史などにも登場する。しかし、郷名や郷域の変化は登場しにくい。
 また、安積郡の政治的権力構造を復元するために、郡司の政治的活動拠点(郡家)を郡山市清水台遺跡とし、東山田遺跡の「官衙風建物群」をその行政的下部機構である同郡小川郷の「郷倉」とする。これには、豪族の居宅という意見もあり今後、「郷倉」の実態をふまえつつ議論を深めていく必要がある。
 ところで、第U部の「集落の政治性」とは何か。郡山市の集落遺跡に残る行政権力の痕跡を探し出したことであろうか。「郷倉」、官人の帯金具、陶硯、あるいは鉄、薪炭、須恵器生産などの国家や郡司の関与、古代的墓制の登場、仏教的施設の展開など他方面の切り口が準備されているようである。今後の新展開を期待したい。

(たなか・ひろあき(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団調査研究部)


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