国文学研究資料館編『藩政アーカイブズの研究』

評者:新井 敦史
「ヒストリア」219(2010.3)

   一

 本書は「あとがき」によれば、二〇〇六年三月二三日・二四日、国文学研究資料館において開催された「地域支配と文書管理」を共通テーマとした共同研究会が契機となって、当日の研究報告を中心に一書に編まれたものである。これまで個別に進められてきた各藩の藩政文書についての管理史研究を踏まえる形で、全一国的な視野に立って藩政文書記録の管理・保存・編纂・伝来といった具体的な展開を把握することが目的とされている。
 本書の構成は、以下のとおりである(カッコ内は執筆者名)。

序 章 藩政文書管理史研究の現状と収録論文の概要(高橋実)
第一章 松代藩における文書の管理と伝来(原田和彦)
第二章 萩藩における文書管理と記録作成(山崎一郎)
第三章 対馬藩の文書管理の変遷−御内書・老中奉書を中心に−(東昇)
第四章 近世地方行政における藩庁部局の稟議制と農村社会
      −熊本藩民政・地方行政担当部局の行政処理と文書管理−(吉村豊雄)
第五章 熊本藩の文書管理の特質(高橋実)
第六章 鹿児島藩記録所と文書管理−文書集積・保管・整理・編纂と支配−(林匡)
第七章 村方文書管理史研究の現状と課題(冨善一敏)
あとがき(高橋実)



 次に、各章の内容について紹介する。

 序章の高橋論文は、第一節において、すでに戦前に文書の原形保存、現秩序尊重の原則という指摘があったことに触れながら、一九八〇年代半ば以降独自の研究分野として設定され、村方文書を中心として研究が進められてきた文書管理史研究の概要や個別藩政文書を対象とした研究の現状について述べている。そのなかで、諸藩において文書管理システムが近世中期〜後期に導入されるようになった理由として、@「社会の発展にともなう藩機構の整備と吏僚化が進められてきたこと」、A藩政が拡大したことにともなう文書記録の増加、B「領民が直接的間接的に政治参加するケースの増加」の三点を挙げている。また、藩庁内での文書管理方法については、「原文書記録そのものの管理保存方式と、原文書記録から必要な部分を書写し主題毎に編成する留帳・日記・類聚作成方式との併存する形が一般的である」が、業務量の多い在方・町方の統治部門では、後者の方式から前者(原本編綴や袋入り一括保管など)へ方式を変化させたとの指摘もなされている。
 続く第二節では、本書に収録される諸藩の文書管理史に関する六論文と研究史に関する二論文の概要と位置付けが述べられており、最後に藩政文書管理保存史研究文献一覧が掲載されている。

 第一章の原田論文は、信濃国松代藩主真田家伝来文書群の伝来経緯について検討している。
 第一節では、従来の真田家文書研究が真田宝物館所蔵文書と国文学研究資料館所蔵文書の内容的・形態的な特徴などに注目してきたことを踏まえた上で、昭和二六年(一九五一)の真田家による古文書委譲前の同家伝来文書を徴古史料としての文書群と藩庁文書に分け、前者を「吉文書」、後者を真田家文書と定義している。そしてこの二系統から構成されているという認識は、すでに江戸時代以降大正期にかけて存在しており、それぞれの文書群は帳面によって管理されていたと述べている。
 第二節では、「吉文書」について、核となる文書はすでに江戸時代初め頃には成立しており、藩主の御殿たる松代城花之丸御殿の「御広間」に飾られるという姿で成立するのは宝暦一三年(一七六三)のことで、天保四年(一八三三)の整理に際して新たに文書が追加され、「吉文書」の最終的な姿が成立した、としている。さらに、「吉文書」は「吉光御長持」内に納められていた「吉光御箱」・「青貝御紋付御文庫 外小箱」に収納されており、差出人を基準として分類されていたことを指摘している。なお、「吉文書」については、歴史意識の高揚の中、江戸時代から明治期にかけて古文書収集が続けられたことにより、個人所蔵文書の流入が確認されるという。
 第三節では、多くの日記の存在を特徴とする真田家文書(藩庁文書)が、明治期の文書整理によって、真田家松代別邸の二番倉に残された「民政上累年の書留帳簿類」と「箪笥に押し込められている多数の書類」という二系統に分かれたこと、及び前者が国文学研究資料館の真田家文書に、後者が真田宝物館所蔵のそれに相当することを論じている。

 第二章の山崎論文は、自身による一連の萩藩文書管理史研究を総括し、萩藩の文書管理や記録作成のあり方に見える特徴について考察を加えている。
 第一節では、当職所・郡奉行所・上勘所・目付所・代官所といった各役所での文書管理・記録作成について概観している。そのなかで、財政・民政を統括する国許の最高職たる当職所は多様なあり方で情報管理を行っていたが、一八世紀中期以降、「通常業務で生み出される文書記録とは別に、新たな記録を作成して情報管理を行う方式を主とするあり方から、通常の文書記録をベースに、そこから迅速な情報検索を可能とする体制の整備へ重点を移し」たことを指摘している。
 第二節では、藩全体として見たときの特徴について次のように考察している。すなわち、一七世紀後期〜一八世紀初期には各役所における文書保存の不充分さが問題となり、文書を残すための対策が採られ始め、この時期は「役職経験者の元に文書が残る傾向の強かった段階から、各役所へ組織的に文書が残されるようになる段階への移行期、あるいは、役務遂行上、口伝に依拠する比重が高かった段階から、文書に依拠した合理的な執務が強く指向される段階への移行期」であるとしている。一八世紀中期以降については、各役所で保存する文書が増大し、必要とする情報を迅速に検索するシステムを構築すべく、その対策が進められた段階と捉えている。さらに、宝暦一三年(一七六三)に江戸御国大記録方が設置され、それにともなう形で各役所において文書目録が作成されたことは、萩藩の文書管理上特筆すべきことであるという。また、萩城の櫓が文書の保管場所として利用されたことについて「藩が大量の文書を保存する上で有効に機能したと評価」している。第三節では、萩藩の各役人の文書保存に対する意識が強かったことを述べている。
 「おわりに」では、密用方が藩庁全体の文書管理を統括していたという従来の評価に対し、そうした理解の原因を江戸御国大記録方との混同に求め、密用方を主体とした文書管理制度については確認できないと述べる。

 第三章の東論文は、対馬宗家文書の大部分を占める御内書・老中奉書の管理の変遷について考察を加えている。
 第一節では、まず享保一二年(一七二七)及び宝暦五年(一七五五)の「御内書御奉書員数目録」の検討により、御内書の全点が成巻され、老中奉書については全体の約三割が選別成巻されて、それぞれ箱に収納されたことを述べている。そしてこれらの箱は「年寄中御預長持」に収納されていたが、この長持についての詳細な目録としては明和二年(一七六五)の古帳と文化一〇年(一八一三)の新帳があり、古帳成立段階では一番長持から七番長持までの七番体制であった(江戸時代後期には文書の増加により長持の数も増えた)という。これら長持の保管場所については、当初の表書札方蔵から唐門脇の御納戸蔵、さらに御銀蔵への移動があったが、虫干しを怠ったことを原因として、天明四年(一七八四)には「長持の底が腐り、箱入の大切な書物が破損」していることが発覚し、各部署の責任についての議論がなされ、修復事業に及ぶところとなったという。
 第二節では、寛政八年(一七九六)に宝暦二年(一七五二)まで中の選別成巻されなかった老中奉書と宝暦二年以降の全ての御内書・老中奉書が成巻されたことの要因として、一八世紀以降の「対馬藩政、財政の幕府依存体制への転換」を想定し、全ての老中奉書を重要文書と認識して成巻したと述べている。御内書・老中奉書の対馬藩での管理のあり方については、「@両書はまず江戸藩邸にもたらされ江戸表書札方で記録される。Aその後藩士が対馬へ帰国する際にいくつかまとめて持ち帰る。Bそれを国許表書札方で記録し、「年寄中預御書物」長持に入れて管理する。Cある程度まとまると成巻し、藩主別の箱に入れ、それを長持に戻し管理する」という流れを示している。

 第四章の吉村論文は、熊本藩の藩庁民政・地方行政担当部局(郡方)の部局帳簿たる「覚帳」を系統的に分析することにより、その記載形態と文書処理方式についての諸段階を近世通じて検討し、藩の民政・地方行政の根幹が農村社会からの上申文書に依拠しうるような行政の実態について解明している。
 第一節では、宝暦改革期以前・同改革期以後・寛政末年以後という三段階の史料を検討し、「覚帳」が宝暦改革期を境として、農村社会からの上申文書とそれについての部局による行政処理過程を記録することを主体とするようになること、及び寛政末年を境に「覚帳」が農村社会からの上申文書の原物を収載し、上申文書を起案書として部局の稟議制的な行政処理がなされる過程を記録するものとなることを明らかにしている。
 第二節では、一九世紀になり農村からの上申事案の増大化・多様化のなかで、郡方が審議・決議済みの事案文書を選別しながら、収載事案に通し番号を付けて年次別・郡別の「覚帳」とするか、継続性の高い事業や事案の系統的集積が望まれる特定事案を一冊に帳簿化した「覚帳」とするかして、目録等を備えて文書管理していたことを指摘している。また、一九世紀には厖大な数量に及ぶ水利・土木事業が藩庁部局に上申されずに、郡代・惣庄屋の裁量により企画・実現される行政段階に至っており、上申されて「覚帳」に記載されるのは、土地(石高)・年貢の変更をともなうような領主支配に関わる事案を中心とするようになるという。
 第三節では、「覚張」の一件文書の例として、文化一一年(一八一四)から同一三年にかけての宇土郡郡浦手永の三角浦村と長浜村の零落救済関係事案を検討し、個別上申事案に対する藩庁部局の高度な文書管理体制や継続的・系統的な行政処理を評価している。
 第四節では、通潤橋による遠隔通水事業の実現過程を検討することにより、彪大な資金と労力・技術を要する大型プロジェクトについても、実質的に手永(郡と村の中間となる地方行政区域)・村のレベルで計画され実現していたことを明らかにしている。

 第五章の高橋論文は、近世中後期〜幕末期の熊本藩の文書管理のあり方について具体的に検討し、同藩の文書記録管理システムの特質を解明している。
 第一節では、刑法方及び寺社方・町方という部局の簿冊目録の検討により、それらの部局が執務現場で現用・半現用文書記録を管理保管し、長期保存文書記録・永年保存文書記録を諸帳方の主管になる御蔵・坤櫓へ移管していたことを明らかにしており、近世後期から文書記録のライフサイクルという考え方が生まれていたと述べている。
 第二節では、熊本藩の文書記録管理が分散・集中併用型方式となっており、文書管理専任の部署「諸帳方」が存在したところに同藩の文書記録管理保存制度上の特質を見出している。諸帳方は各部局から文書記録を引き継ぐと、原物の文書記録の整理、入目録作成、箱・袋などへの収納、配架位置の決定を行い、管理用台帳としての「御蔵入目録」帳に記入していたのであり、御蔵保存文書記録中より永年保存文書記録を坤櫓へ移し替えることも行っていたと述べる。そして坤櫓における管理保存のために「坤御櫓入目録根帳」を作成していたという。

 第六章の林論文は、薩摩藩職制上での記録所の成立過程とその職務内容を解明し、記録所以外の各役座における文書管理についても、近世中後期には増加傾向に対する簡素化・簡略化が求められていたことを明らかにしている。
 第一節では、記録奉行が従来の文書奉行の職務を吸収していきながら、元禄期には従来の文書所(文書方)という呼称も確認されるが、やがて記録所という役座名の確定となるという見通しを示した上で、記録所が城内の本丸内に設置されたが、一八世紀初頭には二の丸の下屋敷内に移され、その後も変遷があったことを指摘している。そして記録所(記録奉行)の制度が一八世紀初頭に順次整備され、島津氏系図編纂に関わる古文書等の調査・保管、現用文書の収納保管、諸家の筋目・系図の由緒についての調査を本務とするようになったという。
 第二節では、記録所での文書保管の事例を示しながら、現用文書がその役割を果たした後、保存すべき場合には記録所へ移管される体制が一八世紀初頭までには成立していたことを明らかにしている。さらに、明和・安永・天明初期において、島津家家譜編纂事業の推進や記録所・文庫の新造等との関係で、諸役座保管文書の整理と記録所への移管が順次進められていったことにも言及している。
 第三節では、享保初期以降、一八世紀半ばに家督を相続した島津重豪の積極的関与まで島津氏家譜編纂が滞った背景を、記録所が対応すべき業務量の増大や多様化に求めている。こうした事態への対応策として、記録所内で必要に応じて分担や専任が設けられたことも指摘している。

 第七章の冨善論文は、日本近世の村方文書管理史研究の現状を整理し、安藤正人による文書管理史の提唱により、近世村方文書管理史研究が進展し、研究分野として定立して、由緒論・儀礼論といった日本近世史研究独自の視点を重視した形での研究の成熟が認められると述べている。そして文書管理史研究の今後の課題について、@近世村方文書の作成過程の研究、A幕藩領主による文書管理の村方における文書管理に対する規定性、B文書主義ともいうべき近世社会の質を問う研究、C異なる地域間での比較研究や類型化という四点を挙げている。

   三

 本書は、藩政文書管理史及び近世村方文書管理史についての研究史を整理し、松代藩・萩藩・対馬藩・熊本藩・鹿児島藩の藩政文書についての管理保存のあり方を具体的に解明している。またそればかりでなく、萩藩の当職所・郡奉行所・上勘所・目付所・代官所・江戸御国大記録方、対馬藩の表書札方、熊本藩の郡方・郡代・郡横目、同藩の刑法方、寺社方・町方、諸帳方、鹿児島藩の記録所といった藩政組織のあり様や文書管理との関わりについても明示しており、実証性に富む内容となっている。下野黒羽藩の史料保存について少し検討したことのある評者にとっては、学ぶべき点が多かった。

 ただ、若干の疑問点や意見もあるので、次に述べさせていただく。一点目は、第一章の原田論文三七・三八頁で明治一三年(一八八〇)成立の『海津旧顕録』「花之御丸之事」という史料を引用・解釈しながら、松代藩の「吉文書」が松代城花之丸御殿(藩主の御殿)の大広間・床の間に置かれた長持に収納されて、「番頭ほか番士五人が昼夜列座して警護してきたもの」という従来の説を否定している点である。確かに三八頁に引用されるこの史料には「此所」すなわち「御広間」について「御番頭壱人、御番士五人ツツ列座昼夜面番なり」と記されており、原田氏は「番士は「吉文書」ではなく「御広間」を警護していた、と読むのが自然であろう」と述べている。しかし、この「御広間」の「御床にハ当家第一之品・吉光御長持并御腰物箪笥」が置かていたと明記されており、「吉光御長持并御腰物箪笥」のなかに「吉文書」が収納されていたのであるから、「吉文書」についても番頭・番士による警護対象となっていた可能性は低くないのではなかろうか。

 二点目は、第三章の東論文九八頁において、対馬藩の御内書・老中奉書についての目録とそれらが収納される箱との照合がなされていることに関してである。ここで御内書入りの箱が正方形、老中奉書入りの箱が長方形と記されているが、それぞれの木箱の材質や寸法、箱・蓋の構造等の特徴についても記すなどして、御内書入り箱と老中奉書入り箱の違い、特徴についてもう少し丁寧に説明して欲しかった。

 三点目は、第五章の高橋論文二一七頁で目録に見える保管形態表記について、常用の一件文書の場合、通・冊単位での表記とともにまとまりの群単位で表記していることに対して、「御蔵での長期保存文書や坤櫓での永年保存文書の目録であれば、そのほとんどが冊・通単位の整理と目録表記となる」と述べていることに関してである。この部分は二三三頁の記述内容との間に多少の懸隔を生じているように思う。すなわち二三三頁では、「御蔵入目録」での数量把握について「一冊一通単位で把握するとともに、文書記録を塊や一括として認識していた」、さらに「坤御櫓入目録根帳」についても「一冊・一通単位で把握し表記することが多いが、しかし、それでも塊や箱単位でも把握し表記している」と記しているのである。このことに関しては、重要性の低い文書が塊とされて目録に記載され、重要性の高い文書が一冊・一通単位で把握されるということよりも、むしろ文書管理のしやすさや管理担当者の便宜上の理由によって文書が一まとまりにされていたと考えた方が実態に近いのではないだろうか。

 また、第五章において、公文書等の保存について論じられる際に使用される現用・半現用・非現用という用語が用いられているが、表現しようとしている意味内容は理解できつつも何か違和感があるように思う。それぞれの用語について、改めて定義することがあっても良かったのではなかろうか。

 最後になるが、「あとがき」において、残された諸課題解決のために「広範な史料調査検討による実証の奥行きを深め間口を広げることと、新しい分析視角が必要不可欠である」と記すことに関連して、愚見を述べたい。すなわち、藩侯の文書が主な対象とはなるであろうが、藩主が藩政改革の必要性に迫られる現実のなかで、かつて同様の志向を有していた過去の藩主の遺志を尊重し引き継ぐに際して、その遺品としての文書・史料も引き継ぎ保存する側面(拙著『下野国黒羽藩主大関氏と史料保存』随想舎、二〇〇七年)というような、藩が直面していた喫緊の課題や藩主・藩政担当者の意識との関連性に留意して文書管理の問題を考えるのも、一つの視角となるのではなかろうか。

 以上、本書の内容を紹介し、若干の疑問・意見を呈したが、評者の力量不足により、各執筆者の意図を十全に汲んだものとなっているか心許なく、また、誤解・曲解している点や的外れの評言もあろうかと思う。各執筆者ならびに読者の御海容を請うところであるが、本書は藩政文書管理に関する論文をまとめ一書とした嚆矢と位置付けられ、本書刊行の意義は実に大きなものである。本書が今後の藩政文書管理史研究や藩政史研究の推進・進化に資することは確実と言えよう。


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