榎森進・小口雅史・澤登寛聡編『エミシ・エゾ・アイヌ』

評者:新井 隆一
「法政史学」71(2009.3)

 本書は、法政大学国際日本学研究所の「日本学の総合的研究」プロジェクトのなかの「日本の中の異文化(アイヌ文化の成立と変容)」の最終報告書として刊行されたものをもとに、時代によって二分冊とし、一部の論文については加筆訂正を施し、さらに新稿を加えて、市販本として世に問うたものの上巻にあたる。最終報告書は一般には入手しがたかったが、今回の公刊で容易に手にすることができるようになったことをまずは喜びたい。
 このプロジェクトは、本州・中国・九州を真ん中に挟んで、北の北海道と南の琉球ならびに島嶼からなる日本列島を、異なる地域文化の複合体として捉え、北と南から日本列島を眺めることを通して、日本文化を相対化することを目的とする。そのなかでも、本書は、北の人々が創造した文化にスポットを当てて、「日本史」の時代区分で古代から中世併行期の、日本のなかの「異文化」を析出したものである。
 本書の構成は、以下のとおりである。

刊行にあたって<澤登寛聡>
エミシ・エゾ・アイヌ−本巻の課題と梗概−<榎森進>
第一部 エミシ・エゾ・擦文文化をめぐって
  考古学からみたアイヌ民族史<天野哲也>
  東北北部におけるエミシからエゾへの考古学的検討
  −天野哲也「考古学からみたアイヌ民族史」へのコメント(1)−<伊藤博幸>
  文献史料からみた「エゾ」の成立
  −天野哲也「考古学からみたアイヌ民族史」へのコメント(2)−<小口雅史>
  渡嶋蝦夷と津軽蝦夷<八木光則>
  擦文文化の終末年代をどう考えるか<小野裕子>
  夷俘と俘囚<永田一>
第二部 オホーツク文化の世界
  オホーツク文化の形成と展開に関わる集団の文化的系  統について<小野裕子・天野哲也>
  北海道東部における「中世アイヌ」社会形成前夜の動向
   −列島史のなかのトビニタイ文化の位置−<大西秀之>
  一一〜一二世紀の擦文人は何をめざしたか
   −擦文文化の分布域拡大の要因について−<澤井玄>
  アイヌ文化の前史としてのオホーツク文化
   −松法川北岸遺跡を事例として−<涌坂周一>
  EPMA分析画像の解析によるオホーツク海沿岸出土の土器研究
   −土器に含まれる砂粒の成分分析と産地同定−<竹内孝・中村和之>
  千島列島への移住と適応−島嶼生物地理学という視点−<手塚薫>
第三部 アイヌ文化の成立−北海道の中世−
  「日の本」世界の誕生と「日の本将軍」<小口雅史>
  和人地・上之国館跡 勝山館跡出土品に見るアイヌ文化<松崎水穂>
  北海道南部における中世墓<越田賢一郎>
  北海道における中世陶磁器の出土状況とその変遷<石井淳平>
  札幌市K三九遺跡大木地点の中世遺跡をめぐって<上野秀一>
  松前家の家宝「銅雀台瓦硯」について<久保泰>
むすびにかえて−本書刊行に至る経緯−<小口雅史>

 ここに掲げたように、本書は、大きく分けて、Tエミシ・エゾ・擦文文化をめぐって、Uオホーツク文化の世界、Vアイヌ文化の成立−北海道の中世−の三部から構成される。全体を通して、北海道・北奥羽(現在の岩手・秋田・青森県域)の考古学の成果を論拠としながら、エミシ・エゾそしてアイヌと、時代をくだりながらも、なお独自性を持ち続けた北の文化は、閉ざされた世界の所産などではけっしてなく、交易・交流のたまものによって形成・展開されたと位置づけたこと、そうした知見をふまえつつ、文献史学の側からも、いまだ定説をみない、北奥羽におけるエミシからエゾへの転換とその背景や中世の「日の本」がどの地域を指すかなど、認識論にとどまらず、より現地の側の実態に踏み込んで論究されていることが、興味深い特色である。以下、テーマごとに、各論考を紹介しつつ、まとめていきたい。

 Tは、古代国家の支配者層からエミシ・エゾと名付けられた人々の生活・文化を対象とした。そして、地域的にも、北海道の擦文文化とそれと密接なかかわりをもつ北奥羽に絞り込み、交易・交流からアイヌ前史に接近した。
 まず、擦文文化からアイヌ文化への変遷過程において、交易が果たした役割を評価することによって、物質的な側面とともに、その背後にある生産、儀礼などから、アイヌ文化成立のための指標を指摘した。その例として、本州産の鉄鍋などを獲得するために、海岸沿いに集落が展開し、活発に交易品の生産を行ったこと、道東でオホーツク文化と擦文文化の接触が始まる時期に、飼い熊送りなど、アイヌ文化につながる儀礼が創出されたことなどが挙げられる<天野哲也>。
 ただし、擦文文化とアイヌ文化の相違点の一つは、土器の使用の有無であるが、擦文土器の終末の年代をめぐつて、研究者間で大きな意見の食い違いがある。これを克服するために、擦文からアイヌヘの転換を、中世日本海交易など、日本列島や北東アジア規模の動きを含めた、より広い視野のなかで見極める必要がある。アイヌへ向かう過程で、交易体制の強化が図られた一端は、鉄鍋の対価である毛皮獣を捕獲する銛頭の性能があがったことに表れる<小野裕子>。
 また、それ以前、北奥羽においても、エミシからエゾへの変遷がみられる。その過程において、現地における実態的な変化があったかどうか、すなわち、古代国家の中華思想的な立場を前提とした異民族・蝦夷(エミシ)に対して、エゾは、古代国家の支配者層が現実的に別のエスニックとして認識できる人々であったかが大きな論点である<小口雅史>。 そこで、考古学の成果による物質文化面では、十世紀後半以降をその転機として、北奥羽のなかでも、奥六郡・仙北三郡とそれ以北で食膳用具に地域差が表れること、北緯四〇度以北に、いわゆる防御性集落が出現することなどの特徴を、エゾの成立と関連づける<伊藤博幸>。
 こうした地域差は、すでに、九世紀中葉あたりから、奥六郡・仙北三郡の轆轤成形甕、北緯四○度以北の非轆轤成形甕、北海道の擦文土器というように、土器の差異にみられだすという<八木光則>。
 文献史学の側では、エゾの史料上の初見は、「延久蝦夷合戦」を記した応徳三年(一〇八六)「前陸奥守源頼俊款状案」のなかにみられる「衣曾別嶋」である。この合戦以後、北奥羽一帯に郡郷制が施行された段階で、古代国家の支配者層は、安倍氏や清原氏を含む奥六郡・仙北三郡と、それより北の北奥羽の集団や北海道の擦文文化の集団を、自分たちとは明らかに異なるエスニックをもつもの、エゾとして認識した<小口雅史>。
 また、遡って、およそ九世紀、古代国家はエミシを俘囚・夷俘・俘・狄俘などと多種多様に把握するが、これは彼ら・彼女らが帰降した時期や集団性によるものである<永田一>。 さらに、踏み込んで、古代国家が一様に把握できないのは、エミシからエゾへ移りかわる過程において、北奥羽の人々が文化的な多元性をもったからと捉えられないであろうか。実際に、津軽エミシは「其党多種」(『日本三代実録』元慶二年(八七八)七月十日条)、「自津軽至渡嶋。雑種夷人」(『藤原保則伝』)と評されており、国家側は、多彩で雑多な諸集団によって、構成されているという認識をもっていた(1)。ところで、エゾの範囲を北海道の擦文文化まで含めると、エゾがのちのアイヌとつながるかという疑問が出てくる<小口雅史>。
 このことは、研究史のなかでも、本書Tにおいて、改めて浮き彫りにした課題であり、今後、なお議論の余地がある。

 Uでは、北海道のオホーツク海沿岸から知床、根室にかけて展開したオホーツク文化とその後を受けておよそ十世紀以降、道東にみられるトビニタイ文化、さらにオホーツク海沿岸に進出した擦文文化について、論じられている。
オホーツク式土器は、道北の「刺突文系」、道東の「貼付文系」など地域によって、様相が異なっている。とくに、道北の「刺突文系」はサハリン南西部のものと密接なつながりをもっており、道北のオホーツク文化はサハリンからの集団の移住によって形成されたことが推測される。ひとくくりにオホーツク文化といっても、かなり地域性があるようである<小野裕子・天野哲也>。
 こののち、おもに道東で成立したトビニタイ文化は、道央の擦文文化が全道的に拡散するなかで、オホーツク文化との接触・交流が不可分となり、オホーツク文化が変容することによって生まれた。その背景には、古代国家の城柵支配が衰退した九世紀後半以降、鉄製品・須恵器などの生産を開始した北奥羽のエミシ集団と擦文文化の集団との交易が活性化したので、本州の人々が求める交易品を得るために、擦文文化が道東へと拡がっていったこと、それに呼応してオホーツク文化の集団も、交易品の生産を行いつつ、文化変容の道を選択したことがあった<大西秀之>。
 そして、擦文文化は、およそ十一世紀前半、オホーツク海沿岸にまで到達し、大規模な集落群を営んだ。彼ら・彼女らは、鷲羽など本州の貴族・武士などが渇望する品々の狩猟・生産活動に積極的に取り組み、北奥羽から安定的に鉄器・食糧などを獲得していた<澤井玄>。
 これらとほぼ重なるかやや遡る時期、知床半島羅臼の松法川北岸遺跡では、オホーツク文化後期の遺構から、炭化木製品が多く出土している。とくに、「熊頭注口木製槽」と呼ばれるヒグマの頭部とシャチの背鰭が彫刻されたものは、アイヌの「レプンカムイ・シロシ」あるいは「イトッパ」に酷似している。近隣のオタフク岩洞窟では、岩陰のような浅い洞窟で、近世以降のアイヌのイオマンテを想像させる仔グマ飼育型のクマ送りが行われた痕跡が窺われる。これらは、擦文文化との接触が始まる過程において、なおオホーツク文化の習俗・信仰にあたるもので、つぎのアイヌ文化とオホーツク文化との親近性を感じさせる<涌坂周一>。
 また、近年では、オホーツク文化を取り巻く交易・交流を理解するために、オホーツク式土器の生産地の同定のために、砂粒成分の分析(竹内孝・中村和之)、
 千島列島の島嶼環境や捕食者としての人類の移住・環境への適応などという視点から研究が行われている<手塚薫>。

 Vでは、まず文献史学の立場から、中世安藤氏が名乗った「日の本将軍」(=エゾを支配する将軍)の「日の本」の範囲は、蝦夷地(=北海道)とともに、安藤氏の本拠の津軽なども含まれることを指摘した。もともと「日の本」は、七世紀後半から八世紀初頭に創られた国号「日本」から派生したもので、中国(唐)に対する東の果てという意味が込められていた。そして、中世に入り、「日本」を中心に、その東辺辺境にもう一つの「日の本」が設定されたとする。ただし、九世紀あたりまで、津軽はほぼ「北方」と認識されており、これが、観念的に、いつ「東方」に切り替わるかは、なお議論が望まれる<小口雅史>。
 中世以降、道南には、安藤氏とその配下の和人が進出し、函館市志海苔から上ノ国の間に一二の館を築いた(=道南十二館)。さらに、上ノ国勝山館では、一五・六世紀ころの遺構・遺物が大量に出土し、多種多様な貿易陶磁とともに、アイヌ文化にもかかわる骨角器やアイヌ墓が検出されている。和人とアイヌの不断の接触・交流が、こののちのアイヌ文化の展開に大きく寄与したことは疑いない<松崎水穂>。
 この時期の道南には、進出した和人の墓とアイヌの墓の両方がみられる。それぞれ墓壙の形態や副葬品などに特徴があり、和人に分類されるものは北奥羽と類似している。両者は、近接した場所にあっても、それぞれの集団が共通の意識をもって、独自の墓制を営んでいたのである<越田賢一郎>。
 北海道では、擦文文化の終焉とともに、土器が造られなくなる。本州の中央部とは異なり、かわらけなどの中世土師器が欠落することが、大きな特色である。そこで、遺跡の年代や生活文化を知るうえで、重安なメルクマールとなるのが、貿易陶磁である。一二世紀後半から一四世紀前半のT期では、積丹半島の余市周辺、一四世紀後半から一五世紀中葉のU期では、余市周辺と道南の上ノ国町・松前町・函館市周辺、一五世紀後半から一六世紀中葉のV期では、道南の上ノ国町・松前町・函館市周辺に分布が集中する。こうした陶磁器を使い、生活していた人たちが、和人なのかアイヌなのか、大きな問題であるが、むしろ両者の交流のなかで生まれた文化形態で、斉一的に区別するのは難しい<石井淳平>。
 考古学の出土遺物をもって、文献にみられる民族(集団)を、安易にあてはめるべきではないのではないか。また、札幌市K三九遺跡大木地点では、擦文文化後期から続く文化層が発見され、一四世紀前半の鉄製の刀・内耳鍋・釣針、銛頭・鏃・刺突具などの骨角器、木器、イネ・ヒエ・キビなどの植物遺存体、サケ・エゾジカなどの動物遺存体が出土している。この遺構は、焼土を覆う形で、厚い「灰」の集積が認められており、送り場の可能性がある<上野秀一>。
 松前家に伝わる「銅雀台瓦硯」は、中国製のもので、アムール河口、サハリンを経由してもたらされた。その過程やそこにどのような人々がかかわったかなどを明らかにすることは、擦文からアイヌをつなぐ重要な資料となるであろう<久保泰>。

 さて、ここで、本書を通読したうえで、全体の感想を記しておきたい。本書は、副題にあるように、アイヌ文化の成立に至るまでの交易・交流を、北奥羽、オホーツク(道東)、道南という北海道島の周縁部から見通したことが大きな特徴である。そして、各部ごとにT北奥羽のエゾ、U道東のオホーツク文化、V中世の道南の和人社会が、アイヌ文化の形成に及ぼした影響を浮き彫りにしようとしている。ただ、その反面、考古学の成果の伝えるところに依拠しているので、各論考が設定した場面での出土遺物による交易の事実は明確であるが、果たして、それがどのような形でアイヌ文化へつながるのか、道筋がはっきりしないものも多かったように思われる。逆にいえば、冒頭の天野哲也の論考で、「アイヌ文化は交易によって形成された」と定義づけているので、これを前提に読み進めれば、理解が深まっていくのであろう。また、サハリンからのオホーツク文化の渡来、擦文文化の道東への拡散、道南への和人の進出など、具体的な人の移動・移住によって、交易・交流が行われたこと、移動・移住の背景などに迫る、いわば交易の具体的な様相を解き明かした試みは、非常に興味深く読み取れる。

 そこで、評者も本書で顕れた課題のなかで、「津軽に対する方位観念」と「エゾ」に関連して、若干の意見を述べてみたい。評者は、およそ九世紀以降、北奥羽の各地で、斎串・刀形などの木製祭祀具、箸・曲物・椀・農耕具などの木製品の出土する遺跡群が出現することに関心を抱いている(2)。これらの遺跡群は、陸奥側では、鎮守府胆沢城周辺の奥州市中半入遺跡・落合U遺跡を起点に、北上市下谷地B遺跡、盛岡市飯岡林崎遺跡、出羽との国境付近の北秋田市胡桃館遺跡、青森市野尻(4)遺跡・野木遺跡などにみられる。つまり、陸奥国の胆沢城をスタートとして、およそのちの「奥大道」のルート上に、津軽まで分布する。さらに、箸・曲物・竪杵などの木製品は、津軽海峡を越えて、札幌市K三九遺跡などでも出土している。しかも、これらは当時の北海道に植生しないスギ・ヒノキなどを原材料としたといわれる(3)。
 要するに、こうした木製品の分布は、一点目は陸奥国から北上して、津軽、道央低地帯へという文化伝播、交易ルートがあったことを窺わせる。とすれば、このことは、陸奥と津軽の関係、津軽がいつから陸奥、すなわち「東方」に入るかという点にもかかわるであろう。二点目は、これらが水辺から出土することは、水辺での祭祀が行われたことを推測させる。すでに、古代国家から蝦夷と呼ばれた人々(エミシ)は、七世紀中葉の『日本書紀』に、■[歯+顎の左]田蝦夷の恩荷が自らの信仰する■田浦神に服属を誓った様子が記されており、浦の神のような自然神、アニミズム信仰をもっていた。水辺で行われた祭祀は、彼ら・彼女らの基層信仰に基づいたものであろう。そして、九世紀後半あたりから、それとともに、北奥羽の各地で、固有の信仰に基づきながら、木製品を導入した祭祀方式・形態の再編があったとは考えられないか。エミシからエゾへの転換点、すなわち、当初のエゾの人たちの精神文化の指標として、木製品を用いた水辺の祭祀を位置づけたい。
 このような木製品の分布からみた評者の仮説からすると、「津軽=東方」、「エゾ」の成立時期は、とくに現地の実態に即した形では、本書の提示よりもさらに遡り、九世紀後半くらいになるのではないか。少なくとも、この段階で、そうした動きの一端は認められよう。しかも、その発端が胆沢城周辺だとすると、エゾの南限は奥六郡であったと想定できる。本書のなかで小口雅史が指摘するように、一〇世紀以降、奥六郡を束ねた安倍氏は、エゾに含まれるであろう。そして、多量な木製祭祀具・木製品などが出土した青森市新田(1)遺跡がのちの「外ケ浜」付近に形成され、『小右記』長和三年(一〇一四)二月七日条には、鎮守府将軍・平維良が藤原道長に馬・鷲羽などを貢納したこと、『御堂関白記』長和四年(一○一五)七月十五日条には、藤原道長が唐(宋)の僧侶・念救に「奥州貂袋」を送ったことがみられるなど、安倍氏とほぼ重ねる時期には、「奥大道」ルートでの交易が、文献・考古の史資料のうえから確かめられる(4)。

 ただし、安倍氏と同時期の奥六郡には、木製祭祀具の出土する遺跡群は存在しない。むしろ、その北の津軽に多く分布する。木製祭祀具に変わり、奥六郡には、仏(神)像が造られるようになる。こうしたもののなかには、ノミ痕を意識的に残し、「カミ」が霊木のなかから現れることを意識した鉈彫りや北上市万蔵寺の神をイメージしたものがみられる(5)。従って、この地域の仏像は、在来のアニミズム的なものを基盤として製作されたのである(6)。要するに、安倍氏を代表とする奥六郡のエゾたちは、自らの精神文化の表象、信仰対象を固有の観念を残しつつ、仏像へと変化させていったのではないか。エゾにも、地域性、時代性があったと思われる。
 また、さらに付言すれば、木製品の分布は、道央低地帯の木製品をどう理解するかという課題も生み出す。文化伝播のルートや北奥羽のエゾとの精神文化の共通性などは、指摘できるであろう。むろん、道央低地帯の木製品を用いた人々は、エゾに入ると捉えられる。とすると、彼ら・彼女らの持つ信仰・習俗がアイヌにつながるかということが、クローズアップされるのである。本書のなかで松崎水穂が紹介した、上ノ国宮ノ沢右岸で出土したイクパスイのようなアイヌの木製品とエゾの木製品を、それを用いた祭祀の具体的な場面から、比較検討していくことは、エゾとアイヌの関係をつなぐうえで、重安な作業となるのではないか。本書がもたらしてくれた、評者への宿題の一つである。なお、千歳市美々8遺跡では、一〇世紀中葉から一七世紀初頭のイクパスイ、削りかけの痕跡のある木幣などが出土している。最も古い年代とすると、擦文文化の後期において、アイヌ文化と同様の儀礼が行われていたとも考えられる(7)。

 ともあれ、本書は、「日本史」の時代区分での古代から中世併行期の、北海道島を取り巻く交易・交流、すなわち「擦文文化」と「オホーツク文化」や「中世道南のアイヌ文化」の変遷・展開過程などに関する研究の現状を把握するうえで、とても有益な一書である。とくに、蝦夷征討、交易品の収奪など、本州の古代・中世の国家との関係に基軸を置くのではなく、異なる文化をもつ人々の接触、交易・交流による文化変容・形成を中心に据えた「北方史」の枠組みの構築を目指した点が、意義深く感じられる。つまり、より現地の文化・社会の実態に即した歴史復元を試みたといえよう。
 一方で、だからこそ、例えば、擦文文化の道東への拡大、トビニタイ文化の成立を、都の貴族が渇望した交易品の生産と関連させているが、このことは、道東から都までつづく、物流のルートがあったことを暗示している。そうだとすると、現地のリアルな交易・交流の実相に突っ込んで理解することを通して、地域の文化形成から「日本史」そのものを見通すことも可能になるのではないか。中央から地方をみるのではなく、地方から中央をみる視点を鮮明に打ちだせるように思われる。
 また、それとは全く別に、そうした「日本史」の時間軸にとらわれないで、日本列島北方社会の交易・交流と文化形成の関係から、人間の歴史にとって普遍的なテーマを見いだせはしないであろうか。考古学の成果が伝えたそのときそのときの人々の移動・移住と交易の様相に触れながら、このプロジェクトのこれからの方向性が発展途上だと感じた点である。

 そして、オホーツクから擦文にかけての道東、中世の道南で、それぞれ数本の論考を用意し、独立した「部」を設けたことは興味深かった。これにより、これまで大雑把に「擦文文化」→「アイヌ文化」とされてきた文化変容の過程は、北海道島のなかでも、地域差・年代差があることがほぼ明確になったのではないか。この点は、いまだ研究者間で意見の一致をみない擦文土器の終末時期の問題にもかかわってくる。それとともに、相当数の竪穴住居の数を保持した道東の擦文文化や上ノ国周辺に顕著な道南のアイヌと和人との関係など、道東や道南の歴史像を復元することは、今後さらなる課題となるのであろう。
 以上のように、本書は、広範な時代幅で、北海道島とその周縁で形成された多彩な文化に対する歴史的理解を求めたものであり、評者の力量では、個別の論考に対する意見を述べることはなしえなかった。よって、テーマごとに各論考をご紹介する形にならざるを得なかった。ご容赦願いたい。


(1)蓑島栄紀「津軽蝦夷の特質と交流−本州北部社会と北海道の交流の変遷−」『古代国家と北方社会』吉川弘文館 二〇〇一年
(2)新井隆一「古代北奥羽の律令的祭祀」『古代文化』五八−一 二〇〇六年
(3)藤井誠二「札幌市出土の木製品」『新北海道の古代3擦文・アイヌ文化』北海道新聞社 二〇〇四年
(4)斉藤利男「安倍・清原・平泉藤原氏の時代と北奥世界の変貌−奥大道・防御性集落と北奥の建郡−」『十和田湖が語る古代北奥の謎』校倉書房 二〇〇六年
(5)北上市立博物館『きたかみの古仏』一九九一年
(6)大矢邦宣「古代北奥への仏教浸透について−北緯四〇度の宗教世界」前掲注(4)書
(7)田口 尚「アイヌ文化の木製品」『新北海道の古代3擦文・アイヌ文化』北海道新聞社 二〇〇四年


詳細 注文へ 戻る