西村敏也著『武州三峰山の歴史民俗学的研究』

評者:菅野 洋介
「早稲田学報」1176(2009.8)

一、内容と構成

 早速、本書序章の内容からみていく。本書の課題とは、武州三峰山=地方霊山が「地位や、経済力・知名度など、あらゆる面で驚異的なまでの発展を遂げ、歴史の表舞台に登場してくる」という発展的状況の過程やその要因を探ることにあるとする。そして本書を貫く分析手法として、権力・地域社会・信仰という三つの要素をそれぞれ検討し、最終的に総合化することを強調される。なお権力・地域社会については、歴史学的方法論、信仰は民俗学的方法論でアプローチされることが述べられている。
 続けて、近年までの山岳信仰研究を整理され、本書を地方霊山研究に位置づけることが示されている。なお歴史学をこえた山岳信仰の研究状況にも叙述がさけられており、筆者(西村氏)の広い問題関心がわかる。さらに近世の宗教史研究について整理される。概ね国家史・社会史研究を参照される。その中でも、権力をめぐる問題では高埜利彦氏の研究、社会史研究との関連では宗教の民衆への影響を意識されている。

 次に三峰山に関する研究史を述べられる。代表的研究史として横山晴夫氏の成果を収り上げられる。この内、越生山本坊と三峰山の関係性、文化期以降の三峰山住職独礼の問題などにみえる権威の高まり、「講」の組織化に注目されている。そして、「中央における権威の上昇が三峰信仰の拡大を促し、結果的に三峰山が発展していく」とする見解を確認される。さらに横山氏の三峰信仰と講についての見解を確認される。特に享保期に眷属請けが始められ、その後関東一円に広がりをみせたことを位置づけられる。この他、農村では害虫除・江戸では火災・盗賊除のご利益が求められたこと、寛政期に御焚上祭が開始された点をふまえられる。なお講に関して、桜井徳太郎・宮田登の分析手法を取り上げる。そして、近年の成果として三木一彦氏の成果を取り上げられる。その中で、農村における害虫除けから火盗除けへの変容事例、三峰山が様々な神仏を取り込んで展開したことを確認される。さらに材木流通に伴う動向、安政五年のコレラ除けの問題を確認される。

 以上が主な研究史整理である。そして、ここで全体の課題と方法、各論の主な論点等が述べられている。そして本書の手法が、横山氏の成果に依拠しつつ、地域社会分析という要素を付加することが強調されている。そして、歴史学的・民俗学的手法を駆使して描き出された結果を最終的に統合し、相互の関係性を明らかにしようとすることも強調される。以下、評者の問題関心を軸に各章の内容整理を試みる。

第一部 三峰山と権力
 第一章 三峰山の縁起と由緒
 第二章 三峰山と本末体制
 第三章 三峰山と修験道本山派総触頭
第二部 三峰山と地域社会
 第四章 三峰山の組織
 第五章 神領三峰村の構造
 第六章 三峰山と地域社会との対立
 第七章 三峰山地域社会との交際
 第八章 霞・里修験の在地展開
第三部 三峰信仰の展開
 第一章 三峰信仰の在地展開
 第二章 三峰分霊社の在地展開

 第一章では、主に三峰山研究に由緒論の成果を組み入れている。また、二つの由緒書の性格を述べられている。由緒・縁起は、三峰山が神々や幕府との関係を構築する上で機能した旨を強調されている。

 第二章では、三峰山を当該期の宗教編成の中に位置づけている。キーワードは異宗門間交渉と言える。すなわち三峰山において真言僧侶が天台宗(本山派修験)の住職になっている状況に注目される。このような三峰山の状況こそが寺社奉行から尋問を受けた背景とされている。なお、叙述の中には「近世以前の山岳宗教にとって、天台・真言・修験道の三宗兼帯は、ごく一般的なことであった」とする叙述、つまりは幕府宗教政策の理解が示され、さらに「三峰山は中世以来の本山派教団所属継続の道を選んだ。戦国期から近世初頭に三峰山は没落状態にあった。三峰山が行動を起こし、表舞台に登場してくるようになったのは享保期以後のことで、発展してくるのは近世の後期になってからのことである」とされる。享保期以降、三峰山が「発展」するという構図が示されている。
 次に注目されるのは、日光の三峰山入院である。日光の入院が神領百姓の精力的な活動によって完遂したことが示される。そして本野上村多宝寺への「一夜住職」という事象の重要な指摘がある。寛保期が一つの画期的な時期と評価されている。次に多宝寺の寺格上昇等の内容が明らかにされつつ、三峰山と多宝寺の関係性に注目されている。但し、文政期に入ると、三峰山と多宝寺の関係が解消されるという。つまり、三峰山は江戸や京都といった中央の地へ住職を求めるという。このような状況を、「異宗門間交渉の脱在地化」と示される。なお、「江戸と三峰山」として、紀州藩への札の配布、輪王寺宮への札献上が述べられている。後者については、「一つの教団の一員として狭い枠の中での思考は見受けられない。思い切った発想は、一教団に縛られない異宗門間交渉を実践している自信により得られたものと言えよう」とする。最後に本章のまとめで、「近世の中の中世」(高埜利彦氏の見解)の中に三峰山を位置づけ、さらに三峰山が天台系の本山派の動向と真言僧の師資相承関係が構造化されていたことを強調される。

 第三章は、本山派修験の触頭大乗院と三峰山の動向を取り上げられる。まず触頭大乗院の成立について、将軍吉宗の動向と関連づけた理解が示される。次に江戸城への御礼献上をめぐって、三峰山と触頭の関係に注目されている。特に三峰山が触頭不安定状況の中で、触頭を相対化する状況を生み出したとされている。最後に、天保期の民間宗教者の問題にも言及されている。

 第四章は、三峰山の組織を整理されつつ、山内での職掌をめぐる問題を追及されている。まず前章までの成果を元に、三峰山は近世に発展した後発型の山岳霊山と位置づけつつ、中世的な要素が内在する旨を述べられる。次に『新編武蔵風土記稿』の内容から山内の基礎的なあり方を示されている。そして、山内の配下修験にかかわる小先役に言及される。結局、小先役は確立せず、別当観音院の主導性を強調されている。なお、小先役をめぐっては、越生山本坊にならったとすることも指摘されている。

 第五章では、神領三峰村の基礎的なあり方、いわば三峰村の構造分析を試みられている。まず神領百姓の檀那寺は、新・古大滝村の七寺院に分散されている。七寺院は人別改めを行い、その後三峰山が取りまとめて聖護院へ提出したという。この他、戸数、婚姻等の人々の活発な交流、寛政四年以降の年番名主制移行が示される。さらに、生業については畑作中心であり、四季鉄砲の使用、山稼ぎ、炭焼きの一端が取り上げられる。次に領主としての三峰山に注目される。年貢は、近世を通じて年貢高の変化があまりみられず、初期には年貢として大豆・小豆、後期には金納になるという。そして、五人組でまとめられた年貢が名主へ差し出され、名主が三峰山へ納入するという。さらに三峰山が百姓を支配した象徴として山法を取り上げる。この他の例からも、三峰山は寺社奉行から一定の裁量権を保証されたことを指摘されている。最後に、一八世紀後半以降の神領の状況を追求される。天明期には筏仲間に加入する百姓がみられ、安永期には出稼ぎを実施する百姓がみられるという。さらに、近代以降の民俗資料を取り上げられる。以上、神領三峰村は山村という村落共同体を形成しつつ、一方では三峰山という宗教組織の一員という二つの性格をもったことが示された。

 第六章では、幕末期の三峰山騒動を分析されている。土地所有や用益をめぐる村側と三峰山の状況に注目される。村側は、神領の存在を否定し、その領域を稼山・御林・御巣鷹山と主張する。これは幕府の山林支配の論理を正当性として、三峰山からの用益権奪取の拒絶を意味したという。一方、三峰山は縁起の内容を背景として、領域の正当性を示したという。

 第七章では、三峰山と人々の交際のあり方を示される。まず、三峰山の交際者の居住範囲を整理される。次に三峰山から山内の人々及び地域等への贈答品の一覧が作成される。前章では、村と三峰山の対立関係が指摘されるが、両者の円滑な関係を築くべく「努力」が強調される。そして、三峰山周辺地域が準門前町となっていること、「異人」が地域社会の外側から訪れるために生じた諸矛盾を指摘される。次に、三峰山の村への融通、街道の整備など、地域へ資金を還元する状況も明らかにされている。最後に、三峰山をめぐる村側の意識が取り上げられる。たとえば、村側が三峰山を権現ではなく大明神であると主張し、氏子の共同管理・参画を希望したという。

 第八章では、秩父郡の里修験のあり方を追求されている。山本坊の編成に伴い、還俗の修験が明和期に改めて本山派修験の方式伝授がなされた例を示されている。寛政一二年には、越後国の霞が神力院から三峰山へ移ることも明らかにされる。この際、神力院は山本坊へ霞を返還せずに、三峰山へうつしたことを、山本坊の権威失墜と評価されている。次に、下吉田村の吉田坊を取り上げる。同坊は、明和六年、山本坊より常陸信太郡の年行事職を補任されるが、寛政期になると三峰山下に編入されたという。なお、同坊は山本坊霞下段階から三峰山の名代となるなど、関係は密接であったという。そして、山本坊の経済的な逼迫から吉田坊は三峰山下に編入されるという。同郡域における複雑な修験編成の状況が判明する。さらに峰蔵院(里修験)が三峰山の援護を受けて年行事職を補任されたことも述べられている。最後に里修験の存在形態として、村落内での活動を示されている。
 以上をふまえつつ、修験の霞が「在地の法則」に規定される状況を強調される。

 第三部では、近世後期から昭和にかけての三峰信仰の展開を取り上げられる。民俗学的手法を重視される。

 第八章は、狼信仰に注目される。なお信仰圏の問題を念頭においた叙述となっている。まず代参講・団参講を取り上げられる。この内、大正期の「御眷属拝借心得」の内容が示される。特に各地に御眷属が祀られる経緯がわかる。なお近世段階では、三峰山役人が年に一度、講の世話役などを廻る檀廻が存在したという。次に産見舞い・オタギアゲ、つまりは狼の奉賽儀礼に注目される。各地の事例収集が試みられ、その位置づけがなされる。そして、狼の儀礼が三峰信仰で重要視されていたことを強調される。最後に三峰山が狼信仰を、自らの信仰に取り入れ、整備・制度化したことを指摘される。

 第九章は、長野県伊那郡豊丘村堀越の堀越三峰神社の事例研究である。主に幕末期生まれの神職丈吉一代目のライフヒストリーに注目される。次に堀越三峰神社の立地状況を確認しつつ、三峰講形成のあり方が示されている。概して、本章では秩父以外で三峰信仰が展開したことを明らかにされた。なお、丈吉氏は木曽御山嶽信仰の行者であったという。すなわち御嶽行者が三峰信仰を取り入れ、一つの信仰形態が成立したことを述べられている。

 終章では、各章の整理がなされ、全体を通じた結論及び課題が提示されている。このうち、「……権力との関係を取り結び(中略)三峰山は、社会的権力として、地域を編成する側の存在であったと同時に、地域社会の民衆と儀礼・交際を通じて関係を取り結び、地域社会の一員として存在していたのであり、この二つの側面を有する三峰山と地域社会の民衆らによって地域秩序を形成させていたのである。」が重要な結論であろう。この上に狼信仰の展開があったことを指摘される。すなわち、権力・地域社会との関係・信仰の三者有機的連関が、三峰山の繁栄につながったという。歴史学と民俗学の手法を総合化することに、本書の最大の特徴があることを強調されている。

二、各章の評価点と若干の疑問点

 以上、全体を通じて、現状の三峰山研究の到達点が示された。また地方霊山研究においても、近世史研究をふまえた貴重な成果として位置づけられる。また秩父郡研究の基準ともなりえよう。ここでは各章の評者なりの評価点および若干の疑問点を述べる。

 第一章では寺社の縁起研究を進める上で、日本近世史研究が蓄積した由緒論に依拠され、重要な見解が示された。この点は評価できようが、由緒論の成果は、研究史上において「役論」の問題から進展したことが知られる。したがって寺社縁起を取り扱う上では、これらの成果も重要であろうが、より比重をかけるべきは寺社縁起論とも言うべき研究領域への目配りではなかったか。本書に限らない研究課題のため指摘にとどめる。
 ただし、次の点は疑問点として掲げる。それは縁起の作成年次に伴う問題である。すなわち元禄期は役行者千年忌が実施される。これに伴って縁起が作成された状況はなかったのか。たとえば相模国走湯山の縁起は元禄期に作成される。さらに、この時期、武蔵国の本山派修験は組織編成を進展させていた。したがって、評者は修験編成のあり方から、縁起内容への着目が必要ではなかったと考える。すなわち、先の由緒論のあつかいにも関係しようが、「修験の縁起論」とも言うべき研究領域との交渉も必要でなかったか。この点は、次章以降の問題とも関連する。すなわち「異宗間交渉」というキーワードにも関係しよう。

 第二章では、一八世紀段階の三峰山を捉える上で重要な指摘が多い。特に、日光の住職就任経緯についての叙述は見事である。さらに、紀州藩・輪王寺宮といった宗派以外との関係性も重要な指摘と言えよう。しかし、紀州藩については、『近世高尾山史の研究』(名著出版、一九九八年)の成果があり、それへの叙述がほしかった。また、評者は輪王寺宮と在地社会のあり方へ関心をもつが、関係をもった例として三峰山も位置づけられることになる。

 第三章の本山派修験の触頭問題は、修験研究における重要研究である。江戸触頭の存在を捉える上での、一つの視角を三峰山研究から得ることができたと言えよう。すなわち、江戸における修験研究を進展させる上では捨象できない成果が生み出されたとみられる。

 第四章では、観音院の権限の強さが示されており、手堅い論証がなされている。三宗兼帯の状況を捉える上で注目される。

 第五章は、主に領主=三峰山の基礎的なあり方が示される。神領三峰村が山村という立地条件に存立しつつ、三峰山という宗教組織の一員であるという二つの性格の整合性が見事に描きだされている。さらに山村の生業分析が試みられており、山村研究の成果としても興味がもたれよう。

 第六章は、三峰山と村側の対立にいたる両者の状況が明らかにされた点は特筆される。一方、第七章では三峰山と村側との交際のあり方が分析されている。したがって両章を通じて、三峰山を中心とした村側との「対立と交際」のあり方が明らかにされている。また両者の常態的な関係は円滑であることも示されている。三峰山と地域の状況が克明に描かれている。
 ただし、三峰山と地域の関係は、他の地方霊山には見出しにくい状況なのか。すなわち、地方霊山の状況を抽出すれば、一定度「対立と交際」の状況は見出されるだろう。したがって、当該事例がこれまでの他霊山のあり方と比較しつつ、「対立と交際」の背後にある何らかの特徴的問題は見出せなかったのか。西村氏が慎重な叙述を試みられている故に生じた評者の疑問であろうが、この点は社会的権力の使用方法と関連させて後述する。
 なお第七章では三峰山の女人受け入れについても言及がなされている。女人の対応についても、他の霊山との比較を試みる上では重要な問題となろう。東国女人高野太陽寺の存在も指摘がなされており、今後の課題となりえよう。

 第八章は、秩父郡における百姓山伏の状況を指摘した重要な成果である。この点は、百姓山伏を捉える上では、重要視されよう。

 以上、ここまでを小括する。本書は日本近世史研究に対して、いくつかの論点を提示したとみられる。概ね、以下のように把握することも可能であろう。第一章は由緒論との関係、第二章・第四章は、異宗間交渉を念頭においた宗教社会史研究、第三章及び第七章は修験研究、第五章・六章・七章は、山村研究(村落史研究)。言うまでもなく、各章の成果は一つの線でつながるが、西村氏の研究成果が多くの分野に影響を与えることになろう。

 次に第三部の内容を述べる。ここでは日本近世史というテーマから離れ、近代以降までも見通しつつ、三峰信仰の位置づけを試みている。そして何よりも三峰信仰における狼の存在を明確化させた。ただし、近代史の叙述がやや単線的な印象をもった。つまり、第二部までに試みられたように、ここでも一定の構造分析がなされ、そこへ狼信仰を位置づけていくスタンスが求められたのではないか。あるいは、本書に限らず、ここに近世近代移行期の地方霊山研究の課題も含まれているのではなかろうか。この点は終章で今後の課題として記されており、今後の分析が注目されよう。なお明治以前まで参詣が隆盛した「場」が、その後、参詣の衰退をむかえるという事例も存在しよう。このような事例を念頭におきつつ、三峰山を再度位置づける作業も必要ではなかろうか。また、三峰山の信仰圏の問題が言及されている。このうち、宮田登氏の成果を重視し、第一次信仰圏=大滝村、第二次信仰圏=三峰講展開の地域、第三次信仰圏=堀越三峰神社、以上のような類型がなされている。しかし、一般的な批判であろうが、やはり信仰圏モデルは、以下のような批判があろう。たとえば当該期の江戸の状況と村々のあり方が、同心円モデルで単一に括って理解することが妥当かという批判である。
 第八章では、木曽御嶽信仰との関係が指摘され、当該期の宗教事情を捉える上での貴重な成果と言えるのでなかろうか。なお、狼信仰に関連した様々な習俗を捉えていくことにも成功しており、習俗と信仰のあり方という論点提示もうかがえる。

三、全体を通じた疑問点

 最後に全体を通じての疑問点を三点掲げる。主に日本近世史研究の問題に引き付けて述べてみたい。

 第一は、社会的権力の用語使用についてである。これは結論部分に使用されている用語である(三峰山=地方霊山が社会的権力)。日本近世史における社会的権力の使用については、関東近世史研究会の大会運常委員会が、端緒とするという。その後、各論者が社会的権力を使用し定着をみたと言える。一般に当用語は領主権力というよりは、むしろ領主権力に規定されなくとも存在した権力の有り様を示す概念であったとみられる。そこで改めて本書の社会的権力の使用方法をみると、三峰山=地方霊山が社会的権力であると評価される。しかし、この評価は、やや違和感をもたざるをえない。本書では三峰山が領主としての存立したことが明らかにされたからである。このような存在を社会的権力として評価することは妥当なのか。つまり、三峰山の領主的あり方は、どのように評価されるのか。いずれにしても、この用語使用には何らかの説明が必要ではなかったか。

 第二は「近世の中の中世」の使用方法についてである(第二章結論部分)。この用語は、高埜利彦氏が示したものであるが、本書では三宗兼帯が「近世の中の中世」を示す事象であるとされる。そして本書でも述べられている通り、「近世の中の中世」という用語には、本来、中世から存在した在地慣行が解体されずに近世社会を規定していくことに主眼があった。しかし本書では、享保期以降に三峰山の整備が進展することが強調されている。勿論、中世の影響が全くないとは言えないが、むしろ本書を通じて一八世紀以降に新たに再編された三峰山の状況が明確にされたのではないか。したがって、三峰山の状況を「近世の中の中世」という評価を下すのは、やや違和感をもった。評者としては、むしろ三峰山を「新興の地方霊山」といったキーワードで示したほうが、各章の分析にも沿った評価となったのでないかと考える。そして、ここにこそ中世とは違う、近世の宗教史研究の意義も存在したのではないだろうか。

 第三は、研究史の把握、特に青柳周一氏の信仰登山集落の研究との関係である。同氏は、概して富士山御師の集落が、多くの参詣者を迎えることで地域が形成されることを描きだした。青柳氏の成果は、同書ではどのように把握されていたのか。今後の課題で提示がなされているが、他の信仰との比較を行う上でも重要な成果であろう。要は、日本近世史の地域社会研究の成果への言及が、もう少し必要ではなかったか。

 以上、いくつか評者の問題意識を中心に述べさせていただいた。先にも述べたように本書は、三峰山研究及び秩父郡の地域研究、他に修験研究など、様々な分野に影響をもたらす、大変重厚な成果である。日本近世の宗教社会史や山村研究などを対象とする研究者には、必読の書である。多くの研究者に一読を進めたい。


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