由谷裕哉著『白山・立山の宗教文化』

評者:中山郁
「神道宗教」217(2010.11)

 大学の授業や市民向けの講座などで、山岳宗教や修験道の歴史について話をしていると、ふと疑問に思うことがある。つまり、山の信仰とは、すなわち修験道だけといえるのだろうか。さらには、修験道の教えと実践とは、本当各派のもののみといえるのか、ということである。もちろん、山の信仰の歴史は長く、その裾野は広いものであるということは周知の事実である。しかし、少ない授業時間の中で多くのことを語り尽くすのは不可能である。かくして、授業で話す内容は吉野や葛城、熊野の山々を中心に発生した修験教団の展開と修行に絞られ、そえもののように羽黒や英彦山のような地方の霊山に―それも、しばしば熊野修験との関わりのなかで捉えて―言及して終わってしまう。本当にそれでよいのだろうか、と。
 確かに多くの霊山は中央の修験の影響を受けてきたし、それによって修験の文化が広範囲に展開し、日本の山岳信仰をより彩り深いものにしていったといえる。しかし、それとともに各霊山には、独自の崇拝対象や開山伝承、世界観が大切に守られ、それを反映させた修行が営まれていたのである。この、中央の修験と地方の霊山の関係を、普遍性と個別性の問題と捉えるならば、その両者はいかなる関係にあったのであろうか。この問いかけこそが、先にあげた疑問点を解決していくものと思われる。今回紹介する由谷氏の『白山・立山の宗教文化』は、以上の課題に対する答えを導き出そうとした意欲作といえる。
 著者の由谷裕哉氏は、小松女子短期大学で教鞭をとる気鋭の宗教民俗学者として知られるとともに、長年にわたり白山、石動山、立山など北陸の霊山研究に意欲的に取り組んでこられた。本書は前著『白山・石動修験の宗教民俗学的研究』(岩田書院、一九九四)以来、十四年振りに刊行された、いわば著者のホームグラウンドをといえる山々に関する論考が収められている。先ず、本書の構成については、左記の目次を参照されたい。
 
目 次
序 論 地方霊山の位置づけと研究視角
 一 中央および地方霊山とそこでの宗教活動
 二 地方霊山の研究史とその代案
 三 本書本論の構成
本 論・第一部 立山の地獄説話と開山伝承
第一章 立山の宗教文化と地獄説話:概観
 一 立山の宗教的環境概観
 二 立山の開山と地獄説話
 三 日本における地獄の観念と地獄説話概観
 四 第二章・第三章への展望
第二章 『法華験記』に描かれた立山地獄説話:立山開山伝承と比較して
 一 問題の所在
 二 立山の開山伝承と『法華験記』所収立山地獄説話
 三 立山の開山伝承と地獄説話の前後関係
 四 『法華験記』における立山地獄説話
 五 まとめ
第三章 『今昔物語集』巻十七における立山地獄説話とその中世的展開
 一 問題の所在
 二 『今昔物語集』全体について
     ―『法華験記』との比較に留意しながら―
 三 『今昔物語集』巻十七における立山地獄説話と『地蔵菩薩霊験記』
 四 『今昔物語集』巻十七の内的構成と立山地獄説話
 五 中世以降の立山と地獄説話の変容
第四章 中央と地方霊山における本地説と開山伝承
 一 はじめに
 二 中央霊山における聖性
 三 中央霊山における本地説の登場
 四 本地感得譚と中央霊山における修験道の成立
     ―院政期を分岐点として―

本 論・第二部 白山加賀側の長吏・衆徒・社家
 第一章 十四世紀から十五世紀前半までの白山加賀側の衆徒
 一 問題の所在
 二 白山比盗_社蔵中世文書の評価について
 三 白山本宮の宗教施設と組織及び祭礼
 四 本宮衆徒の僧兵的な側面と宗教者としての側面
 五 中宮八院の衆徒
 六 まとめ
第二章 一揆時代における加賀白山
      ―本宮とその長吏を中心とした概観―
 一 問題の所在
 二 本宮長吏の歴代と一揆勢力との関わり概観
 三 十五世紀後半以降に存続した南加賀山麓地帯における白山関連宗教施設
 四 十五世までに南加賀(とくに江沼郡)に展開していた真宗寺院と白山
 五 十六世紀における南加賀の真宗寺院と白山
 六 まとめと残された課題
第三章 一揆時代の加賀白山を巡る五つの宗教的テキストについて
 一 問題の所在
 二 廻国雑記
 三 白山禅頂私記
 四 三峰相承法則密記・奥書
 五 大永神書
 六 拾塵記
 七 まとめ
第四章 一揆時代後半における三代の白山本宮長吏について・再考
 一 問題の所在
 二 『言継卿記』における澄祝
 三 『言継卿記』における澄辰
 四 澄意のテキストにおける澄勝
 五 まとめ
第五章 近世下白山における長吏と社家との関係
 一 問題の所在―加賀藩政における神社とは―
 二 神社としての下白山―澄勝長吏期を中心に―
 三 越前側の登拝口や平泉寺との間の十八世紀前半までの争論
     ―澄意長吏期に注目して―
 四 下白山組織内での長吏と神主中との相克
     ―十八世紀半ば以降の澄盛長吏期を中心に―
 五 まとめと今後の展望
結 論 成果と課題
 一 要約
 二 成果と課題
あとがき
欧文要旨

 次に、各章の内容について紹介したい。
 先ず、序論においては、本書の中心テーマとなる「中央」に対する「地方霊山」を位置付けるため、中央の修験霊山研究の動向を整理したうえで、地方霊山に関するこれまでの研究を、@地方霊山信仰史の研究 A里山伏の在村活動の研究 B廻檀活動や山岳登拝講の研究と分類し、地方霊山における組織化を、中央の修験道形成とともに地方の山林修行者がとりこまれることによってなされた(開山)といえることから、地方霊山の形成過程を研究するためには、その霊山の「開山以前」に注目すべきであると論じる。そのうえで、第一部では霊山組織の制度化と中央との本末関係の確立を示す伝承として開山伝承をとらえたうえで、摂関期から院政期に知られるようになった『法華験記』『今昔物語集』等の仏教説話所載の立山地獄説話をもとに、中世以前の立山信仰について検討している。

 第一章では、これまでの立山信仰史を検討しつつ、立山地獄説話を、越中側から立山に入る南北の登拝道に展開した宗教勢力のうち、南側に関わって残されたものと論じたうえで、『日本霊異記』所収の説話を分析。従来の国文学研究が、これらの説話を仏教受容の幼稚さと土着の他界観を反映したものとしてきたのに対し、古代律令国家の戒律重視を背景とした、悪報としての地獄落ちを強調する唱導説話群として見ることが出来ると位置付けている。

 次に、第二章では、『法華験記』の説話を検討し、旧来の立山信仰研究において、立山の開山伝承が、この記録にさかのぼるとされてきたことを否定する。その上で著者は、『法華験記』所載の説話が、権門に組み込まれる以前のローカルな地勢を宗教的に意味づける言説を含む、戒律や善行を求める律令国家の仏教観をにじませた、「立山開山以前、すなわち権門寺社勢力によって一山が形成される前の立山の宗教環境を示す、注目すべきものである」と論じている。

 さらに第三章では、『今昔物語』巻十七所収の説話について、法華験記やこの説話の典拠ともされる『地蔵菩薩霊験記』と全体構成や影響関係、位置付けについて検討を行っている。それを踏まえて、立山の中世における開山伝承は、熊野三山のそれの影響を明らかに受けていることを示すものであり、こうした説話の変遷は、中世以降、立山一山組織が熊野系の宗教者を主体としたことを示すものであり、今昔巻十七に伝えられた段階では、「地蔵の代受苦を説くにとどまっていた立山の周辺に、中世前半頃には阿弥陀による西方往生を説く、本来の(天台)浄土教的な環境が確立してきたことを示唆している。すなわちそれが、立山開山の実態であったのだろう。」としている。

 そして第四章において、立山地獄説話の宗教社会史的な位置づけを、吉野の金峰山および熊野三山という、中央の霊山の本地説の登場と、開山伝承の成立過程の比較検討を通じて試みている。すなわち、中央では、本地説の初出が吉野が十世紀後半、熊野が十二世紀、山中修行者による本地感得開山伝承成立は両山とも十二世紀ともされている。これらの伝承では律令的神祇が無視される傾向にあることから、院政前期の修験教団の確立と対応している。反面立山の場合、院政権力と結びつく契機を持たなかったことが本地説、開山伝承成立の遅れにつながり、地方霊山としての位置づけに至ったと論じている。

 一方、第二部「白山加賀側の長吏・衆徒・社家」では「開山」以後の組織の展開と変容について、中世後期から近世にかけての白山加賀側の白山本宮(現、白山比盗_社)の一山組織について、長吏、衆徒、社家など、組織の展開について議論がなされている。

 第一章では十四世紀から十五世紀前半までの白山本宮の組織に関して、神社所蔵の中世文書『白山記』『三宮古記』『白山宮荘厳講中記録』にもとづき分析が試みられている。そのうえで、この時期の衆徒が僧兵的性格を強く持ち、祭礼の担い手であったものの、修験的な存在がそのなかにどれ位居たのかは不明であり、また、荘厳講衆は修験ではなかったと考えられると論じている。

 第二章は加賀一揆時期の六代の長吏の動向を、南加賀の真宗勢力との関係を中心に概観し、永正一揆(一五〇六)前は白山側、本願寺勢力ともにおおむね好意的、寛大・鷹揚な対応であるのに対し、後期には本願寺側の勢力増大とともに、白山側は従属的な立場になっていったと考えられるとしている。

 一方第三章では、中世後期の十五世紀後半〜十六世紀前半の成立の『廻国雑記』『白山禅頂私記』『三峰相承法則密記』の「奥書」『大永神書』『拾塵集』という、白山で記されたもの、また白山について言及しているテキストの分析が試みられている。そして、これらのテキスト各々の白山修行観や宗教的位置付けの差異を示し、そこから、当時の白山において、多様な白山修行観や信仰が存在し、それが山の禅頂道や聖地、宮の展開に関連している可能性が指摘されている。さらに、十六世紀の白山加賀側では「白山禅頂に宿る聖性はもはや観音のような本地仏としてではなく、女性・母親という人格を持った権現として崇敬されていた」「仏法守護の権現にして母神」というローカルな性格をもつ信仰が形成され、それはまた、山麓の門徒衆にも受け入れやすい姿であったと考察している。

 さらに第四章は、二章でとりあげた六代の長吏のうち、澄祝、澄辰、澄勝(一揆時代後半から藩政初期)の各長吏の性格について検討を行ったうえで、第五章において、近世の白山本宮(下白山)における長吏と社家との関係を動態的に描き出している。すなわち、澄勝の長吏時代を中心に、下白山が加賀藩より神社として認識されてゆく過程、さらに孫の澄意の在職期のころから「神主中」、すなわち社家との相克が本格化する。これを白山山頂の祭祀をめぐる加賀の尾添村と越前の牛首村間で続いた争論の影響で、山での宗教活動に制約が生じたため、活動の中心を下白山へとシフトしたことから、社家との相剋が発生したと論じている。そして、十八世紀半ば、澄盛の長吏継職以降、長吏の継職に社家の支援を絶えず受けたことから社家側の勢力拡大がなされ、それが明治維新期の徹底的な廃仏の伏線となったことを指摘している。

 そして、結論では、第一部が摂関期から院政期、第二部が中世〜近世(五章のみ)の個別事例の分析から、一 地方霊山の相対的自立性、二 地方霊山と修験道の関わり、三 地方霊山麓または山腹の近世神社における社家・神職の権勢拡大という成果と課題をあげてまとめとしている。

 以上、時代としては古代から近世末にかけてという長いスパンを手掛け、宗教民俗学はもとより、史学、考古学、国語学の知見をも存分に駆使して記された本書を評する力量を、残念ながら筆者は持たない。しかし、あえて著者の胸をお借りして学ぶという意味で、本書のなかで、とくに感銘を受けた部分について紹介させて頂いたうえで、若干の質問を試みてみたい。

 先ず本書の大きな特色は、「地方霊山」という概念を改めて打ち出した点にある。大峰や熊野などの、いわゆる「中央」の霊山に対して、本書で取り上げられている立山や白山のような、「地方」の霊山に対する研究は、山岳宗教研究上、必ずしも看過されてきたとはいえない。しかし、ある意味で「中央」に対する「地方」という観念が、所与の前提として無自覚的に用いられてきた傾向がみられる。その結果、地方霊山に関する研究は、その一山の枠内に留まり、中央の霊山や教派修験との相関が捨象されるか、または逆に、中央の修験の思想や行法をそのまま地方の霊山に当て嵌めていくという傾向がみられた。
 著者はこうした地方霊山信仰史の研究を再検討したうえで、@地方霊山信仰史の研究 A里山伏の在村活動の研究 B廻檀活動や山岳登拝講の研究と分類したうえで、旧来の修験研究が大峰・熊野など中央の霊山に依拠していた修験的宗教者を対象とし、出羽、英彦山など一部をぬかして、地方の霊山に依拠する宗教者集団の宗教活動や宗教的世界観の解明がほとんど進められていないとしている。さらに、既存の地方霊山研究についても、例えば柱松の例を挙げ、行事が修験の峰入修行に結び付けられるというように、「反証も検証もされえない仮説に基づく」推論が多いとし、研究の質自体に疑義を呈している。そのうえで、あらためて中央と地方の相関を、地方霊山の個別性を軸として探究するという枠組みを示しているのである。著者は、その手掛かりを霊山の開山伝承に求め、地方霊山開山以前の伝承を、中央との関係に組み込まれる以前のものが反映された、「霊山組織の制度化と中央との本末関係の確立を示す伝承として開山伝承」として捉え、「地方霊山の開山以前」への着目を提唱しているのである。

 それでは著者のいう「開山」とは何であろうか?「開山」とは、これまで特定の宗教者や人物が山頂を極めたり、また、僧や猟師などが山の聖なる神仏と邂逅することと捉えられてきた。しかし、著者はそうした既存の「開山」観を、「開山伝承・縁起に出る年紀を素朴実在論的に捉え」た「修験系霊山の開山を最初の信仰登拝者と考えるという一種の誤解」として排している。そのうえで、修験系霊山の「開山」が、歴史上の最初の登拝者による登頂を意味するのではなく、寺院の開山のように、何らかの宗教教団の関与によって山内が最初に組織化されることを意味すると考えたほうが良いのではないかと提唱している。

 それでは、こうした史料の限られた地方霊山の宗教組織を知る鍵はどこにあるのだろうか。著者は、開山説話・伝承の存在に改めて注目したうえで、その変遷を検討し、「開山」以前の立山について、「『今昔』巻十七第二十八話の地蔵による堕地獄の女の代受苦説話を過渡的な形態とし、中世に阿弥陀を本地としておそらく熊野修験の配下に置かれることになったが、それ以前、本書の表現では開山以前には、ローカルな独自性を有していた霊山であったと考えられる。」としている。加えるに、こうした説話や本地感得譚は、律令的な枠内に留まり続けた神祇を、はじめて等閑視した価値転換を窺うことができるとともに、そこに「辻善之助以来考えられてきたような、神祇と菩薩とが習合する現象(神仏習合)の延長線上にはなかったということになる。」と論じている。そのうえで著者は、黒田俊雄の権門政治=院政が律令制を廃棄するものであったとの議論も参考にしつつ、こうした新しい宗教的世界観と、律令国家の呪縛を断ち切った「院という新しい政権」との結びつきこそが、中央の修験教団の成立背景にあったとしている。
 一方、立山のような地方霊山の場合、律令国家時代における伝承や聖性にはローカルな独自性が存在し、そこでの山林修行者の活動は、吉野や熊野の持経者とそれほど違わないものであったと推定されるものの、この時期に平氏と若干の関わりは看取されるが、律令国家を超えようとする院政権力と結びつく契機を持ち得なかったため、中世にむけて吉野―熊野修験道の配下に組み込まれ、結果的に地方霊山という位置づけに甘んじざるを得なくなったと論じているのである。

 次に注目すべきは、そうした地方霊山のローカリティーの問題である。氏によれば、「金峰山・大峰・熊野で平安末頃整い始めた修験道の影響を受けながら、類似した山林修行を行う修験的な宗教者が集まったと考えられる地方の霊山である、白山と立山」は、中世以降に熊野修験の影響を受けたとされるが、それは一方的な、均一な教義や行法の受容ではなかったと論じている。ことに第二部においては白山を中心に「中央の権門寺院または修験道教団との本末関係が成立して以降、すなわち開山された地方霊山に依拠した修験、もしくはより広義に衆徒の組織論的な分析」が行われているが、そこでは中世の白山信仰が、「夏季に限定した籠り行の実施、およびそれ以外の季節に、比較的麓に近い山腹に展開した宗教施設で妻帯の宗教者を中心とする組織が形成されたと考えられる点」から、越知山―白山における宗教文化の特徴を示すものとしたうえで、美濃、越前側も含めた白山、立山で、室町期に中央の修験教団で確立したと考えられる十界修行その他の入峰修行を類推論的にあてはめようとする旧来研究への疑問を示している。
 その理由を著者は、@標高の高さ(高山帯。三季の峰入不可能、花供にも意味を見いだせない)A白山、立山が火山であること(立山の地獄説話の背景となり、白山の地獄めぐりの信仰登拝を生み出し、これがさらに近世の観光登拝へ結実する)B中世の一山組織の破壊と、中世末から近世にかけての登拝口の宿坊の村整備により、近世に観光的な禅頂登拝者を集める霊山になったことに見出している。その結果、「近世の白山・立山が世俗の登拝者を多く集めたことに関して、その背景に宗教的な理由より火山や周囲から目立つ高山であることを含む観光的な要因が強かったと推測されることを、両山が本山派の支配下に組み込まれなかったことの一つの現れと捉えておく。」と論じている。
 山岳宗教の根幹が、その山の自然の神格化にあるとするならば、各山の自然状況を踏まえた議論がなされて然るべきであるが、今後、こうした各山の状況が、近世に向かって修験の枠にとらわれない多様な展開を見せていったという視点は、今後の山岳宗教研究にとって、極めて重要であると考えられる。さらに、中世の修行の問題について、歴史的史料の少なさをカバーするために、祭祀考古学を視野に入れた議論を展開している点は、今後の山岳宗教研究に重要になってくるものと思われる。

 一方、本書を通じて今後の著者に求めたい希望もある。先ず、第一に、著者は「中央」の霊山は、律令的な神祇観念にとらわれない新たな宗教的世界観を有した山が、「院」という、律令国家の呪縛を断ち切った新しい政権と結びつくことによって修験道教団としてのあゆみをはじめたとしている。これは修験道の組織形成を考えていく上で大いに示唆に富む議論である。しかし、教派修験の形成は院政期にはじまったとしても、それが一応の完成をみるのは室町期であり、長期的な過程を経ているのは周知の事実である。とすると、院との結びつきは「中央」の霊山となる契機とは言えるが、院政期以降どのようにそれが展開し、中央と地方の、いわば格差をつくりあげていったのだろうか?

 また、著者は第二部において、近世白山の長吏と社家の相克を描き出し、次第に社家の勢力が強まっていく過程を明らかにしている。それについて、長吏継職に社家の支援を絶えず受けることから社家側の勢力拡大がなされたとしているが、それでは、そうした社家はどのような意識や信仰のもと、近世の神仏習合的な山で活動していたのだろうか。各地の一山組織のなかで社家の研究はまだ必ずしも活性化しているとは言えないが、近世の霊山では、社家が信仰的自立性を求めて活動する事例が増えている。今後、霊山組織の研究を行う上で検討していかねばならない課題であろう。

 しかし、本書は既存の山岳宗教研究の再検討のうえに、新しい枠組み、新しい議論を提示しようとした、極めて刺激的な労作といえる。是非、手に取って頂ければ幸いである。


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