由谷裕哉著『白山・立山の宗教文化』 |
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評者:中山郁 | |||||
「神道宗教」217(2010.11) |
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大学の授業や市民向けの講座などで、山岳宗教や修験道の歴史について話をしていると、ふと疑問に思うことがある。つまり、山の信仰とは、すなわち修験道だけといえるのだろうか。さらには、修験道の教えと実践とは、本当各派のもののみといえるのか、ということである。もちろん、山の信仰の歴史は長く、その裾野は広いものであるということは周知の事実である。しかし、少ない授業時間の中で多くのことを語り尽くすのは不可能である。かくして、授業で話す内容は吉野や葛城、熊野の山々を中心に発生した修験教団の展開と修行に絞られ、そえもののように羽黒や英彦山のような地方の霊山に―それも、しばしば熊野修験との関わりのなかで捉えて―言及して終わってしまう。本当にそれでよいのだろうか、と。 本 論・第二部 白山加賀側の長吏・衆徒・社家 次に、各章の内容について紹介したい。 第一章では、これまでの立山信仰史を検討しつつ、立山地獄説話を、越中側から立山に入る南北の登拝道に展開した宗教勢力のうち、南側に関わって残されたものと論じたうえで、『日本霊異記』所収の説話を分析。従来の国文学研究が、これらの説話を仏教受容の幼稚さと土着の他界観を反映したものとしてきたのに対し、古代律令国家の戒律重視を背景とした、悪報としての地獄落ちを強調する唱導説話群として見ることが出来ると位置付けている。 次に、第二章では、『法華験記』の説話を検討し、旧来の立山信仰研究において、立山の開山伝承が、この記録にさかのぼるとされてきたことを否定する。その上で著者は、『法華験記』所載の説話が、権門に組み込まれる以前のローカルな地勢を宗教的に意味づける言説を含む、戒律や善行を求める律令国家の仏教観をにじませた、「立山開山以前、すなわち権門寺社勢力によって一山が形成される前の立山の宗教環境を示す、注目すべきものである」と論じている。 さらに第三章では、『今昔物語』巻十七所収の説話について、法華験記やこの説話の典拠ともされる『地蔵菩薩霊験記』と全体構成や影響関係、位置付けについて検討を行っている。それを踏まえて、立山の中世における開山伝承は、熊野三山のそれの影響を明らかに受けていることを示すものであり、こうした説話の変遷は、中世以降、立山一山組織が熊野系の宗教者を主体としたことを示すものであり、今昔巻十七に伝えられた段階では、「地蔵の代受苦を説くにとどまっていた立山の周辺に、中世前半頃には阿弥陀による西方往生を説く、本来の(天台)浄土教的な環境が確立してきたことを示唆している。すなわちそれが、立山開山の実態であったのだろう。」としている。 そして第四章において、立山地獄説話の宗教社会史的な位置づけを、吉野の金峰山および熊野三山という、中央の霊山の本地説の登場と、開山伝承の成立過程の比較検討を通じて試みている。すなわち、中央では、本地説の初出が吉野が十世紀後半、熊野が十二世紀、山中修行者による本地感得開山伝承成立は両山とも十二世紀ともされている。これらの伝承では律令的神祇が無視される傾向にあることから、院政前期の修験教団の確立と対応している。反面立山の場合、院政権力と結びつく契機を持たなかったことが本地説、開山伝承成立の遅れにつながり、地方霊山としての位置づけに至ったと論じている。 一方、第二部「白山加賀側の長吏・衆徒・社家」では「開山」以後の組織の展開と変容について、中世後期から近世にかけての白山加賀側の白山本宮(現、白山比盗_社)の一山組織について、長吏、衆徒、社家など、組織の展開について議論がなされている。 第一章では十四世紀から十五世紀前半までの白山本宮の組織に関して、神社所蔵の中世文書『白山記』『三宮古記』『白山宮荘厳講中記録』にもとづき分析が試みられている。そのうえで、この時期の衆徒が僧兵的性格を強く持ち、祭礼の担い手であったものの、修験的な存在がそのなかにどれ位居たのかは不明であり、また、荘厳講衆は修験ではなかったと考えられると論じている。 第二章は加賀一揆時期の六代の長吏の動向を、南加賀の真宗勢力との関係を中心に概観し、永正一揆(一五〇六)前は白山側、本願寺勢力ともにおおむね好意的、寛大・鷹揚な対応であるのに対し、後期には本願寺側の勢力増大とともに、白山側は従属的な立場になっていったと考えられるとしている。 一方第三章では、中世後期の十五世紀後半〜十六世紀前半の成立の『廻国雑記』『白山禅頂私記』『三峰相承法則密記』の「奥書」『大永神書』『拾塵集』という、白山で記されたもの、また白山について言及しているテキストの分析が試みられている。そして、これらのテキスト各々の白山修行観や宗教的位置付けの差異を示し、そこから、当時の白山において、多様な白山修行観や信仰が存在し、それが山の禅頂道や聖地、宮の展開に関連している可能性が指摘されている。さらに、十六世紀の白山加賀側では「白山禅頂に宿る聖性はもはや観音のような本地仏としてではなく、女性・母親という人格を持った権現として崇敬されていた」「仏法守護の権現にして母神」というローカルな性格をもつ信仰が形成され、それはまた、山麓の門徒衆にも受け入れやすい姿であったと考察している。 さらに第四章は、二章でとりあげた六代の長吏のうち、澄祝、澄辰、澄勝(一揆時代後半から藩政初期)の各長吏の性格について検討を行ったうえで、第五章において、近世の白山本宮(下白山)における長吏と社家との関係を動態的に描き出している。すなわち、澄勝の長吏時代を中心に、下白山が加賀藩より神社として認識されてゆく過程、さらに孫の澄意の在職期のころから「神主中」、すなわち社家との相克が本格化する。これを白山山頂の祭祀をめぐる加賀の尾添村と越前の牛首村間で続いた争論の影響で、山での宗教活動に制約が生じたため、活動の中心を下白山へとシフトしたことから、社家との相剋が発生したと論じている。そして、十八世紀半ば、澄盛の長吏継職以降、長吏の継職に社家の支援を絶えず受けたことから社家側の勢力拡大がなされ、それが明治維新期の徹底的な廃仏の伏線となったことを指摘している。 そして、結論では、第一部が摂関期から院政期、第二部が中世〜近世(五章のみ)の個別事例の分析から、一 地方霊山の相対的自立性、二 地方霊山と修験道の関わり、三 地方霊山麓または山腹の近世神社における社家・神職の権勢拡大という成果と課題をあげてまとめとしている。 以上、時代としては古代から近世末にかけてという長いスパンを手掛け、宗教民俗学はもとより、史学、考古学、国語学の知見をも存分に駆使して記された本書を評する力量を、残念ながら筆者は持たない。しかし、あえて著者の胸をお借りして学ぶという意味で、本書のなかで、とくに感銘を受けた部分について紹介させて頂いたうえで、若干の質問を試みてみたい。 先ず本書の大きな特色は、「地方霊山」という概念を改めて打ち出した点にある。大峰や熊野などの、いわゆる「中央」の霊山に対して、本書で取り上げられている立山や白山のような、「地方」の霊山に対する研究は、山岳宗教研究上、必ずしも看過されてきたとはいえない。しかし、ある意味で「中央」に対する「地方」という観念が、所与の前提として無自覚的に用いられてきた傾向がみられる。その結果、地方霊山に関する研究は、その一山の枠内に留まり、中央の霊山や教派修験との相関が捨象されるか、または逆に、中央の修験の思想や行法をそのまま地方の霊山に当て嵌めていくという傾向がみられた。 それでは著者のいう「開山」とは何であろうか?「開山」とは、これまで特定の宗教者や人物が山頂を極めたり、また、僧や猟師などが山の聖なる神仏と邂逅することと捉えられてきた。しかし、著者はそうした既存の「開山」観を、「開山伝承・縁起に出る年紀を素朴実在論的に捉え」た「修験系霊山の開山を最初の信仰登拝者と考えるという一種の誤解」として排している。そのうえで、修験系霊山の「開山」が、歴史上の最初の登拝者による登頂を意味するのではなく、寺院の開山のように、何らかの宗教教団の関与によって山内が最初に組織化されることを意味すると考えたほうが良いのではないかと提唱している。 それでは、こうした史料の限られた地方霊山の宗教組織を知る鍵はどこにあるのだろうか。著者は、開山説話・伝承の存在に改めて注目したうえで、その変遷を検討し、「開山」以前の立山について、「『今昔』巻十七第二十八話の地蔵による堕地獄の女の代受苦説話を過渡的な形態とし、中世に阿弥陀を本地としておそらく熊野修験の配下に置かれることになったが、それ以前、本書の表現では開山以前には、ローカルな独自性を有していた霊山であったと考えられる。」としている。加えるに、こうした説話や本地感得譚は、律令的な枠内に留まり続けた神祇を、はじめて等閑視した価値転換を窺うことができるとともに、そこに「辻善之助以来考えられてきたような、神祇と菩薩とが習合する現象(神仏習合)の延長線上にはなかったということになる。」と論じている。そのうえで著者は、黒田俊雄の権門政治=院政が律令制を廃棄するものであったとの議論も参考にしつつ、こうした新しい宗教的世界観と、律令国家の呪縛を断ち切った「院という新しい政権」との結びつきこそが、中央の修験教団の成立背景にあったとしている。 次に注目すべきは、そうした地方霊山のローカリティーの問題である。氏によれば、「金峰山・大峰・熊野で平安末頃整い始めた修験道の影響を受けながら、類似した山林修行を行う修験的な宗教者が集まったと考えられる地方の霊山である、白山と立山」は、中世以降に熊野修験の影響を受けたとされるが、それは一方的な、均一な教義や行法の受容ではなかったと論じている。ことに第二部においては白山を中心に「中央の権門寺院または修験道教団との本末関係が成立して以降、すなわち開山された地方霊山に依拠した修験、もしくはより広義に衆徒の組織論的な分析」が行われているが、そこでは中世の白山信仰が、「夏季に限定した籠り行の実施、およびそれ以外の季節に、比較的麓に近い山腹に展開した宗教施設で妻帯の宗教者を中心とする組織が形成されたと考えられる点」から、越知山―白山における宗教文化の特徴を示すものとしたうえで、美濃、越前側も含めた白山、立山で、室町期に中央の修験教団で確立したと考えられる十界修行その他の入峰修行を類推論的にあてはめようとする旧来研究への疑問を示している。 一方、本書を通じて今後の著者に求めたい希望もある。先ず、第一に、著者は「中央」の霊山は、律令的な神祇観念にとらわれない新たな宗教的世界観を有した山が、「院」という、律令国家の呪縛を断ち切った新しい政権と結びつくことによって修験道教団としてのあゆみをはじめたとしている。これは修験道の組織形成を考えていく上で大いに示唆に富む議論である。しかし、教派修験の形成は院政期にはじまったとしても、それが一応の完成をみるのは室町期であり、長期的な過程を経ているのは周知の事実である。とすると、院との結びつきは「中央」の霊山となる契機とは言えるが、院政期以降どのようにそれが展開し、中央と地方の、いわば格差をつくりあげていったのだろうか? また、著者は第二部において、近世白山の長吏と社家の相克を描き出し、次第に社家の勢力が強まっていく過程を明らかにしている。それについて、長吏継職に社家の支援を絶えず受けることから社家側の勢力拡大がなされたとしているが、それでは、そうした社家はどのような意識や信仰のもと、近世の神仏習合的な山で活動していたのだろうか。各地の一山組織のなかで社家の研究はまだ必ずしも活性化しているとは言えないが、近世の霊山では、社家が信仰的自立性を求めて活動する事例が増えている。今後、霊山組織の研究を行う上で検討していかねばならない課題であろう。 しかし、本書は既存の山岳宗教研究の再検討のうえに、新しい枠組み、新しい議論を提示しようとした、極めて刺激的な労作といえる。是非、手に取って頂ければ幸いである。 |
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