大西泰正著『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』

評者:片山 正彦
「年報赤松氏研究」4(2011.3)

 本稿は、ここ数年精力的に宇喜多氏に関する研究成果を発表している大西泰正氏の著書『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』(岩田書院、二〇一〇年)の書評と紹介を行うものである。

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 本書は、備前国に興った地域権力である宇喜多氏の、ことに豊臣政権期における動向について、根本的・基礎的な検討をしたものである。岡山藩士土肥経平(一七〇七〜八二)の編著『備前軍記』を主体に語られることの多かった備前の戦国・織豊時代史を、同時代の一次史料に加え、近世編纂物を批判的に検証し、宇喜多氏の実態に迫った労作である。
 以下に本書の構成を示し、いつくかの章を採り上げて簡単な書評と紹介を行いたい。

序 論 宇喜多氏研究の現状と課題
第一部 宇喜多秀家と豊臣期宇喜多氏権力
 第一章 宇喜多秀家論
 第二章 宇喜多氏家臣の叙位任官
第二部 秀吉死後の宇喜多氏
 第一章 宇喜多騒動の経緯
 第二章 宇喜多騒動の展開と結果
 第三章 宇喜多秀家の関ヶ原合戦
第三部 宇喜多氏をめぐる群像
 第一章 宇喜多忠家
 第二章 浮田左京亮
 第三章 長船紀伊守と中村次郎兵衛
終 論 宇喜多氏研究のこれから

 序論と終論については新稿であるが、それ以外については著者が二〇〇五年から二〇〇九年までの五年の間に発表した既出論文を、本書記述段階での著者の考えに基づいて加筆・改稿したものである。ゆえに、元来独立して書かれた個別の論文を集積したものであるが、そのいずれもが豊臣期宇喜多氏の基本的事実の解明を行う、という目的をもって緊密に連携している。
 序論では「宇喜多氏研究の現状と課題」とし、まずその現状を「この十余年の間に、研究上の制約のうち関係史料の不足は依然障害として横たわってはいるが、その拡散性は、岡山県内外の自治体史編纂などによって着実に克服」(本書一一頁)されつつあり、「かつての宇喜多氏研究の代表格は、太閤検地関連のものを除けば、しらが康義(1)・寺尾克成(2)両氏のすぐれた業績であったが、二〇〇〇年代に入って発表されはじめた諸論考は、そうした先行研究への依存から克服への研究状況の転回をあらわしている」(一二頁)とみている。
 ただそうはいっても、宇喜多氏研究にも課題は残っている。豊臣期宇喜多氏研究の前提としての、(宇喜多)直家期段階における現在の研究の到達点は、「通説的認識の否定とその再構成が確実に進められている」という。しかし「宇喜多氏権力のその後の変転については、しらが氏の先駆的業績や『岡山県史』(3)の記述に依存する傾向が、依然として強いことは否定しえない」(一四頁)とし、「天正十年(一五八二)六月以降、宇喜多氏権力は織田政権を引き継いだ豊臣政権に取り込まれ、その後援と軍事的抑圧のもとに近世大名への展開を遂げたという、先行研究の大枠が、以後、精緻な検証・批判を加えられることなく、現在もなお通説的地位にいて、それ以上の深化を遂げていない」(一五頁)と指摘する。
 そして「総じて直家期における宇喜多氏研究は長足の進歩をとげつつあると評価できるが、秀家期の宇喜多氏については、依然として印象論に終始するか、従来の研究成果と近世編纂物、いずれに依存するかの別があるだけで、これを克服すべき研究潮流も形成されはじめたばかり」(一六頁)であることから、「一次史料の分析によって作成した枠組みのなかで、その不明点や疑問点を二次・三次史料の突き合わせによって、わずかでも埋めること」(二〇頁)を目的としている。
 第一部「宇喜多秀家と豊臣期宇喜多氏権力」では、豊臣期の大名権力宇喜多氏について、これを豊臣政権との関係から相対化することを課題とし、中央政権(豊臣政権)との関係から宇喜多氏権力の存在意義や存在形態について検証している。これについての評者の見解は、後述したい。
 第二部「秀吉死後の宇喜多氏」では、豊臣秀吉死後の宇喜多氏権力の混乱と崩壊とを時系列に沿って追究することを課題とし、秀吉死後に顕在化する宇喜多氏家中の混乱(いわゆる「宇喜多騒動」)を通説への批判を足がかりに分析した上で、その騒動の勃発から終息までの事実関係を可能な限り復元し、宇喜多氏がいかなる影響を被ったのかを明らかにしている。また豊臣政権のなかで求心力を失っていく秀家と、その秀家が結果的に宇喜多氏没落の原因となる関ヶ原合戦での去就を、如何なる状況のもと決定したのかを検討している。
 「宇喜多騒動」についての著者の見解に対しては、光成氏がその著書(4)において批判を行なっており、さらに大西氏もそれへの反批判を行なっている(5)ので、そちらを確認してほしい。
 第三部「宇喜多氏をめぐる群像」は、宇喜多秀家に近侍した人物(宇喜多忠家・浮田左京亮・長船紀伊守・中村次郎兵衛)の評伝・評価を個別に再検討したものである。
 ここで個別検討したことによって、彼らが如何に「宇喜多騒動」に関わったかについては、ある程度実態が把握できるようになってきた。だが、例えば「宇喜多氏家中の構造や、宇喜多氏の領国形成と支配体制とは、この人物研究を糸口の一つとして実態解明を行うことも不可能事ではない」(二一四頁)と、著者自身も課題として捉えているように、彼らを個別に再検討したことによって、その結論をどのように総合的に位置づけるのか、初出時(二一五頁「初出一覧」を参照)よりは踏み込んだ答えを期待した読者もいるのではないだろうか。
 終論「宇喜多氏研究のこれから」では、これまでの議論を通じて、今後の宇喜多氏研究についての課題と展望とを整理している。著者は、「本書収録の論考群は、いずれも豊臣期宇喜多氏に関する根本的・基礎的な考察を行うことに照準を合わせて」おり、「本書の試みが、徳川氏・毛利氏等同時期の大名権力に比して、先行研究の過小な宇喜多氏に対する本格的討究の嚆矢となること」を目指したとするが、ここでは課題と展望を述べるのみで、本書の全体を通しての結論を述べているわけではない。特に本書は個別論文の集積であるだけに、「この時期の宇喜多氏権力がいかなる特質をもち、歴史上どのような位置付けが可能であるのか」(二一四頁)についての著者自身の問いかけに対する答えは、評者のみならず読者も気になるところではないだろうか。今後の成果に期待したい。

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 ここで、評者が若干気になった点を挙げておきたい。
 第一部第一章「宇喜多秀家論」では、豊臣政権における宇喜多秀家の位置付けを明確に捕捉し、かつ宇喜多家中の特質を豊臣政権との関係を通じて探っていくという。その材料として〔史料7〕を挙げている。これには「東西ハ家(徳川家康)・輝(毛利輝元)両人、北国ハ前田(利家)、五畿内ハ五人之奉行無異儀候ハゝ一向不可有別儀候」(6)とあり、本書の理解によれば「東国は徳川家康、北国は前田利家、西国は毛利輝元、五畿内は「五人之奉行」すなわち大老五人が申し合わせて各々異議なく統轄すれば問題ない、という秀吉の意向」であり、秀家に即して考えると、「徳川・前田・毛利といった大老間、そして大老と「五奉行」との調整役といった役割に止まるのである」(三六頁)と指摘する。
 本論初出時(『史敏』六、二〇〇九年)では、「五畿内は「五人之奉行」すなわち大老五人が申し合わせて各々異議なく統轄すれば問題ない」との一文はなく、「徳川・前田・毛利といった大老間、そして大老と「五奉行」との調整役といった役割に止まるのである」との指摘のみであった。評者は、ここにおいて著者が史料中の「五人之奉行」を石田三成・浅野長政ら、いわゆる【五奉行】と捉えているものと理解していた。
 だが前述の一文が加わったことで、本書において著者が右記史料中の「五人之奉行」をいわゆる【五大老】=徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家と捉え、後段の「五奉行」を石田三成・浅野長政ら、いわゆる【五奉行】と捉えていたことがわかった。
 右記史料に限らず、史料用語としての「五人之奉行」をいわゆる【五大老】と捉えるのか、あるいは【五奉行】と捉えるのか、現在では多くの論考が出され、議論の分かれるところではあると思う(7)。著者がどちらで捉えているかは、右記史料を理解する際には重大な問題であると考えるが、どちらで捉えるにせよ、十分な説明が必要ではないだろうか。本書の議論でいえば、「五畿内は「五人之奉行」すなわち大老五人が申し合わせて各々異議なく統轄すれば問題ない」とし、「五人之奉行」を秀家を含めた、いわゆる【五大老】と捉えているのだから、秀家は少なくとも五畿内の統轄に加わりえる人物なのであり、単に「徳川・前田・毛利といった大老間、そして大老と「五奉行」との調整役といった役割に止まる」人物ではないであろう。
 第二章「宇喜多氏家臣の叙位任官」では、宇喜多氏の有力家臣の叙任動向を明らかにすることで、豊臣政権が如何に宇喜多氏権力を重要視していたかを検討している。
 富川秀安・長船貞親・明石行雄・岡家利・宇喜多忠家ら、宇喜多氏家臣の叙位任官について、本書では天正十四年(一五八六)の春から秋にかけての期間に、一斉叙任されたものと推測している。加えて、天正十六年の聚楽第行幸前後の時期にも宇喜多氏家臣の一斉叙任が行われたと推測している。そして「天正十四年の一斉叙任説が成り立つという前提の下で」と前置きしながら、「宇喜多氏家臣の叙任が他の大名家臣に比べて極めて早期に行われた」ことは、「豊臣政権の確立にあたり一貫して協力(服属)の恰好をとっていた宇喜多氏に対する、秀吉・政権側からの恩賞的意図・厚遇的側面があった」とし、「予断的論評ながら、宇喜多氏家臣の叙任(とりわけ天正十四年における)が、豊臣政権・秀吉による宇喜多氏への厚遇の一端を示すであろうこと、そして豊臣政権による陪臣叙任の一範例となった可能性」(六六頁)を指摘する。
 本章で気になったのは、三次史料への批判を三次史料で行っている点である。これについては、著者自ら「通説といわれる伝承記事がいかに歴史的事実と相反しているかについては、充分に確認がとれた」と述べつつも、「曖昧な議論が続いた」(六五頁)と認めるところでもある。
 そして、「豊臣政権が如何に宇喜多氏権力を重要視していたか」(一七頁)との著者自身が投げ掛けた問いに答えるには、歴史の流れの中で、天正十四年・十六年に彼らが一斉叙任されたことに如何なる意味があるのか、その際秀家やその家臣が厚遇されたことは何を意味するのかを考える必要があるだろう。例えば、天正十四年の政治状況に照らし合わせたなら、東国における徳川家康との上洛交渉を有利に運ぶために、西国の宇喜多氏を早急に豊臣政権へ取り込む必要があったとは考えられないだろうか。これが証明できるなら、天正十四年に彼らが一斉叙任されたことの意義は明確になるだろうし、このような意義を見出せるなら「曖昧な議論」を補完する材料にもなりえるのではないだろうか。もちろんこれは、当該期の豊臣政権と徳川氏との関係性を検討している評者自身の課題でもある(8)。

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 大西氏が近年の宇喜多氏研究を牽引する一人であり、本書が現段階での宇喜多氏研究を代表するものの一つであることは、評者のみならず、他の研究者も認めるところではないだろうか。渡邊大門氏も宇喜多氏に関する著書を発表する予定であり、宇喜多氏研究は今後も活発な議論が期待できる分野であると思われる。
 別稿(9)でも述べたが、評者は宇喜多氏研究に関しては専門外であり、誤読や誤解を犯している可能性があるかもしれない。また評者の関心のみから些末な指摘にとどまり、不十分で至らない点も多いと思う。著者や読者の方々には、ご海容を願う次第である。

 註
(1)しらが康義「戦国豊臣期大名宇喜多氏の成立と崩壊」(『岡山県史研究』六、一九八四年)。
(2)寺尾克成「浦上宗景考―宇喜多氏研究の前提―」(『国学院雑誌』九二―三、一九九一年)、同「宇喜多氏検地の再検討」(米原正義先生古稀記念論文集刊行会編『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、一九九三年)。
(3)『岡山県史』近世T(一九八四年)第一章第一節。
(4)光成準治『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い―』(日本放送出版協会、二〇〇九年)。
(5)大西泰正「宇喜多騒動をめぐって―光成準治著『関ヶ原前夜』第五章への反論―」(『日本史研究』五七三、二〇一〇年)。
(6)『萩藩閥閲録遺漏』(山口県文書館、一九七一年)巻五の一、二九八頁、(慶長三年)八月十九日付内藤元家宛内藤周竹(隆春)書状。
(7)阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』四九―二、一九八九年)、堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』六五九、二〇〇三年)など。
(8)拙稿A「豊臣政権の対北条政策と「長丸」の上洛」(『織豊期研究』七、二〇〇五年)、同B「九月十七日付家康書状の紹介と在京賄料」(『ヒストリア』一九七、二〇〇五年)、同C「天正後期秀吉・家康の政治的関係と「取次」」(『日本歴史』七二一、二〇〇八年)など。
(9)拙稿D「近年の宇喜多氏研究をめぐって」(『年報赤松氏研究』三、二〇一〇年)。

※二〇一〇年四月刊、二一八頁、定価二八〇〇円(税別)、岩田書院

〔付記〕
 本稿執筆にあたり、ご高配を賜った大西泰正氏に深くお礼申し上げる。なお本稿は、財団法人徳川記念財団よりの助成(第五回「徳川奨励賞」)をうけていること、京都光華女子大学真宗文化研究所学外研究員としての研究成果であることを付け加えておく。

(二〇一〇年十二月一日受理)


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