植木行宣著『風流踊とその展開』

評者:福原 敏男
「民俗芸能研究」49(2010.9)

 植木行宣氏の著作集ともいえる『芸能文化史論集』は、二〇一〇年五月刊の本書、第三巻『風流踊とその展開』をもって完結した。
 本書書評を依頼された際、筆者自身は仮装風流などにはすこぶる興味はあるものの、村落部の民俗芸能としての風流踊り研究には正面から向き合っていないので、引き受けることを逡巡した。最近、次々出される、京都・近畿地方の民俗芸能/芸能史を中心とする植木氏と山路興造氏の著作を通読するだけでも手一杯であったことも逡巡の理由であった。
 しかし、以下の理由で引き受けた。巻頭論文である「風流という芸能」は、「風流踊研究の現状と課題−風流の分類と定義−」と題して、二〇〇六年一一月二六日、日本女子大学の大会における基調講演が基になっている。このシンポジウムは同大学に勤務していた筆者が実行委員となって、全体の内容に関しては氏と相談して行った経緯があったからである。
 先ず、本書全体の構成を記す。

 第T章 風流という芸能
 第U章 拍子物とその伝承
  第一節 踊子・ケンケト・サンヤレ
  第二節 丹後の踊子
  第三節 小津神社祭のサンヤレ
  第四節 山之上のケンケト
  第五節 志摩・伊勢地方の大念仏
  第六節 立神の地ばやしとささら踊
  第七節 囃田と大山供養田植
 第V章 風流踊の展開
  第一節 山城の風流踊
  第二節 丹波の風流踊
  第三節 丹後の笹ばやし−その分布と特色−
  第四節 丹後の花踊−その分布と特色−
  第五節 近江の太鼓踊
  第六節 伊勢・志摩のカンコ踊
  第七節 長刀振の分布と特色
 第W章 風流の作り物とはやし
  第一節 灯籠と花蓋の歴史と民俗
  第二節 陽夫多神社祇園祭の願之山行事
  第三節 山・鉾・屋台の祭りとハヤシの展開
  第四節 山鉾を囃す稚児舞

 初出は三十年以上前の四作、即ち京都府教育委員会に勤務していた氏が事務局として計画・編集を行った、同教育委員会編『京都の民俗芸能』一九七五年、『丹後の花踊調査報告書』一九七六年、『丹後の笹ばやし調査報告書』一九七七年、『京都の田楽調査報告書』一九七八年に際しての報告・論文であり、近作も多く収録されている。
 同書には文献史料や絵画よりの考察もあるが、基本的には拍子物から風流踊へという流れを、近畿地方を中心とした現在の民俗芸能を素材に描き出すという方法論を取っている。著者によると、風流という芸能が町や地域社会に受容される過程において、二つの流れに分化した。「都市的環境を背景とする山鉾の祭り」と「村落的環境を背景とする風流踊」であり、前者に関して、著者はすでに二〇〇一年『山・鉾・屋台の祭り−風流の開花−』(白水社)を上梓しており、本書の第W章以外は後者の解明を目的としている。
 半世紀にわたる氏のフィールドワーク研究の成果については、読者にじっくりお読みいただくことにして、この書評では氏が自ら総括した二つの課題について触れておくことにしよう。

 一つ目は風流と称する芸能の分類についてである。
 風流踊歌の研究は、歌謡研究として進んでいる反面、「かんじんの民俗芸能としての総合的把握がおろそかになつて、伝承曲やその歌詞は分かるけれど、その踊りがどう行われどういう機能をおびていたのか等々についての記述はないか、あってもきわめて不十分なものが多い。風流踊は軽重の差はあるが、一曲の始終や節の間の囃しの部分で変化を見せるのが一般的である。太鼓踊やかんこ踊とよばれる一群のものはそれが顕著で、踊りの主体が歌の部分ではなく囃しの部分であるといってよいのが一つの特徴である。一見して明らかなそのことさえ、歌本の翻刻を重視するがあまりか無視されてしまった」と現状の問題点を投げかける。
 そこで著者は「歴史用語としての風流」をひとまずおき、伝承される風流の実態の考察から分類・定義を試みるために、著者が実見し調査した「民俗芸能としての風流」の機能を視野に入れて分類と定義を検討し、類型を抽出して、拍子物からの展開と風流踊の変遷の考察を行う。事例研究を踏まえた上で、「風流」と総称される民俗芸能は、「組歌形式の踊歌をもたぬT拍子物」と、「踊歌を共有するU〜Xの風流踊」に分類できるとする。

T拍子物
踊りの集団が打楽器系の各種の楽器を自ら奏しつつ踊るもので、踊りがすなわちハヤシの機能を帯びる踊り。原則として神霊を依らせる笠鉾等の作り物と一体で行われる。
踊子全員が一斉に踊る総踊り形態のものと、総踊りに各役が交互に主役をつとめ、他の役が囃子方となる演出が加わる形態の二タイプがある。後者のいうならサンヤレ型は、祇園祭山鉾や津島祭系の大山や車楽(だんじり)の囃しにつながる。
Uジンヤク踊
節拍子の間に独立短小の小歌が適宜挿入される詞章様式を特色とし、入端−本踊り−出端で構成される。歌の入る地拍子と歌のない節拍子からなり、腰鼓スタイルのカッコ打ちが踊る節拍子が主体となる踊り。拍子物が小歌を取り込んだところに成立し、拍子物からカッコ踊への橋渡し的な位置にある。
Vカッコ踊
一定の主題で歌詞が連鎖する組歌形式や主題を曲名とする組歌を踊歌とし、歌の部分の地拍子と囃し部分の節拍子で構成され、腰鼓スタイルのカッコ(太鼓)打ちが踊る節拍子が主体となる踊り。その中踊に側踊がつく本格的な形態の場合は、地拍子のところが側踊の踊りで中踊のカッコ打ちがその囃子方となる。入端の曲ではじめ出端の曲で終わる構成で行うのを原則とする。太鼓踊という腰鼓スタイルのものもこの範疇である。ジンヤク踊の小歌が、連鎖性を持つ組歌に展開したところに成立した。
W振踊
主題を曲名とする組歌を踊歌とし、側踊が主体で中踊は楽器をもたず、節拍子の部分を持手と打手が一組の太鼓打や棒振、新発意等が演じる踊り。地拍子が主体となる曲の場合は小歌踊の類型となる。
X小歌踊
「○○踊りは一踊り」と歌う組歌形式の小歌を踊歌とする地拍子主体の踊り。踊子と囃子方が分立していて、楽器はないか単純な編成で音頭による組踊の享受が主となるもの。

 そしてこの分類のあとで、民俗としての在り方はそれがもつ目的や機能とのかかわりに現れるとし次のように述べる。

 拍子物はもともと疫病等の災厄を疫神その他の神霊の祟りと信じ、それを鎮め送るために行われた集団の踊りであった。拍子物がいちはやく新年と盂蘭盆の恒例行事となったのは、それが神霊が浮遊する時期であり、悪霊の鎮送が必要とされたからであろう。歳神が訪れる新年の拍子物が流布せず、鎮まらざる神霊への怖れが強く意識された盆の拍子物が広く流布した理由はその機能にあったと考えられる。後発の風流踊が盆の精霊供養や厄除けの踊りとして広く受容された理由もそこにあるに違いない。

 確かに松囃子など正月の拍子物は、盆の風流踊のように広範に展開することはなかった。『徒然草』にて吉田兼好が、東国のような未開では正月における祖霊迎え行事は未だやっているようだが、京都のような先進地域では、早く消えたとする。先進地域においては、鎮まらざる神霊の鎮送でもあった正月の霊祭りは鎌倉・南北朝期には消えたため、室町期の拍子物は庶民に普及しなかったと解釈できるのではなかろうか。

 最後に著者は我々後進者に対して、本書の到達点を以下のように列挙・整理されている。
 @ 拍子物にはじまる風流踊の本質は、災厄すなわち疫病や旱魃あるいは虫害などとして顕れる祟る神霊をハヤシて鎮め送ることにあった。祟る神霊は非業に倒れこの世に恨みを残す怨霊たちと考えられ、もっとも身近な新仏はその予備軍(うまく祀られなければ祟る怖れを秘めた鎮まらざる存在)であった。
 A 祟りとして発現する災厄は地域社会の問題であり、地域をあげての対処が不可欠であった。寺や家ごとの祀りで完結する仏教的な祖霊供養に対し、初精霊がとくに丁重に祀られながら家ごとの供養では完結せず、地域共同体の盆行事となって展開したのはその故である。
 B 風流踊は郷村という地域社会が共同体として主体的に受容した最初の芸能文化であり、中世後期にはじまる町や郷村の形成・発展とともに、それぞれに必要とした機能に応じて受容され享受され継承された。
 C それはまず、本質に応じる機能をもとに臨時の行為として受容され、その流れのなかで、初精霊の鎮送を主体とする盆の行事として恒例化し、一方では祇園信仰にもとづく祭礼行事として広がっていった。
 D 風流踊とまとめられる同じ芸能が、雨乞(願済まし)や疫神鎮送、精霊供養の踊り、あるいは豊作を祝う踊りや祭礼芸能など多様なかたちをみせるのは、地域社会が時々に何をそれに求めたかを如実に示すものであり、それはまた共同体の成員を育て人々の心をつなぐ機能とあいまって継承された。
 E こうした動きは当然ながら風流の芸能的展開と対応する。そしてその展開は大きく以下の流れとしてとらえられる。
 ・踊りそのものがハヤシの機能を帯びた風流拍子物。
 ・ハヤシ(節拍子)の間に流行の小歌を自在に挿入するもの(その典型が大・小のジンヤク踊)。
 ・組歌形式の踊歌を持ちながら、歌の部分ではなくハヤシの部分での踊りが主体となるもの(カンコ踊や太鼓踊)。
 ・本来のハヤシ部分が後退し踊歌での踊りが主体となるもの。
 ・踊りよりは歌謡としての踊歌の享受が優先するもの。

 氏は四半世紀の間、京都府教育委員会文化財保護課勤務を全うされ、一九九二年三月三一日、還暦の誕生日に定年を迎えられた。各県の教育委員会に、一人であろうとも民俗担当がいるのは近畿地方の強みである。その中で、氏の研究や報告書は、一般的に行政職と位置づけられている県市町村の文化財担当者や学芸員にとっての座標軸であり続けた。
 贈呈本の挨拶文によると、この『芸能文化史論集』三巻は御定年の還暦時に「せめてこれだけはと心に期した区切り」とされている。三巻の完結には一八年の歳月を要し、論文初出を見ると、確かに六〇歳以降の計画的なフィールドワークの論文が多い。
 年に一度の晴天における(土日に集中し、雨天には行われないことも多い)、「机上や室内の作業ではない仕事」に対する長年の情熱を見る思いである。素早く動く風流の祭りや芸能を対象とするフィールドワークにおいては、それに伴って迅速に動く(時には伴走する)ことが必要になる。しかし、走り回ってビデオや写真に収めても、収めた達成感が目的となり、真に「見えていない」ことが多いのは、誰にも経験のあることと思う。樋口昭氏が「フィールドでは鶴のごとく」(『民俗文化分布圏論』あとがき)と表現しているように、氏は風流芸能の動きを見据える孤高の鶴のように静かに佇み、その動きを眼に焼き付けてこられたのだ。

 「あとがき」にて氏はご自身の体力や時間のことに触れられるが、二〇一〇年七月二二日、国立民族学博物館共同研究のため鹿児島空港に降り立たれた先生の姿はお元気そのものであった。梅雨明け以降、じりじりするような暑さのなか、加世田の水からくり見学、研究会と翌日の士踊見学。研究会でも質問や意見をリードなさる姿はいつものままだった。「後考を待ちたい」と書かれたものの後進には託されず、「今後の課題」も自ら考究されるものと思う。上記鹿児島の帰り道には山口祇園会の文献調査をなさっておられるのだから。
 先生の謦咳に接して四半世紀、その頃の先生は我が身と同年のはずであるが、それにしても、すでに現在のような大人(たいじん)の風格であられた。


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